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愛媛のくらし(平成10年度)

(2)漁法いろいろ

 **さん(越智郡魚島村魚島 昭和3年生まれ 70歳)
 **さん(越智郡魚島村魚島 昭和29年生まれ 44歳)

 ア イカ巣漁

 **さんは魚島独特の漁法であるイカをかごでとるイカ巣漁と、タコつぼ漁に長年、携わっている。現在、イカ巣漁に従事しているのは、魚島と高井神島(たかいかみじま)(魚島の北西約3kmにある島)の各々2軒だけである。終戦直後から今日までの島の漁法について話を聞いた。
 「わしが小学校当時の同級生は、ほとんど戦争に行ったな。わしも、戦時中に、島でぶらぶらしているのが恥ずかしうて兵隊を志願したんよ。それで、試験を終えたら、係の人が、『おい、お前は玉のくそ(甲種合格のこと)じゃ。』と言うて、けつ(しり)をポーンとたたかれていた時に、ラジオの放送を聞いて部屋中が騒ぎだし、終戦になったことを知ったんよ。まん(運のこと)がええのよ。検査を受けよる最中に終戦になるとはな。
 終戦直後の漁は、夏場は『エビ漕ぎ』、冬場は『マンガ漕ぎ(*7)』をしよったなあ。昭和20年代はエビ漕ぎは打た瀬網(*8)でやりよったんよ。晩に出て行って、翌朝に帰ってきてな。当時の仕掛けなんか今と比べると幼稚なもんやったが、それでも、たくさんとれよったけんのお。若いもんが戦争に行って漁を休んでおったので、ものすごくとれよったよ。当時は季節に応じて漁場を休ませていたが、今は一年中、漁をするんで漁場が荒れて、漁獲高も年々、減ってきよるなあ。
 イカ巣漁は、かまぼこ型に編んで作った竹かごの中にしば(主にツゲやツツジ)を束ねてつるし、海中に沈めておいて、イカがしばに産卵する習性を利用してかごでとる漁よ(写真1-2-5参照)。
 昭和30年(1955年)ころ、島の裏手(南側)の桜田浜では、定置網とイカ巣漁とが一緒に漁をしていたが、当時はイカ巣漁の方が派手(盛ん)やった。イカ巣漁の最盛期には人出が足りず、小学校も休みになって、先生にも手伝いにきてもらっていたなあ。4月から6月のイカ巣漁の最盛期は、とにかく忙しかった。かごをそれぞれの漁師が500個から1,000個も扱うとなあ、狭い浜は混雑し、島の周辺はかごで埋まっておったんよ。当時は、今のような港がなく、狭い浜に船を引き上げていたので、潮の満ち引きによって、かごを扱う場所を変えねばならず、とにかく人手が要ったんよ。
 漁場では、イカ巣の縄がお互いに接触することもあり、急いで船をかわすのに難儀した。特に、濃霧の日には危険を冒して漁場に行き、早い者勝ちで、かごを沈めていたんで大変よ。また、漁の解禁日には、船にかごをたくさん積むために竹ざおをロの字に組んで船に縛り、その竹ざおに、ちょうちんをぶらさげるような状態でかごを縛って漁場へ急ぎよった。そして、一本の綱に90個ほどのかごをつけ、その綱を沈めて漁をするんじゃが、かごにはいろんな魚が入るので楽しみやったなあ。
 わしが子供のころは、イカの産卵期には竹かごは使わずに、しばだけを海中に沈め、そのしばに産卵しているイカを網で囲ってとっていたが、かごによる漁法になって大分とれるようになった。かごは全て手作りで、わしのかごは特別大きいのよ。それで作るのに手間が掛かるし、海中から引き上げるのにも苦労するが、形のいいモンゴイカが入る率が多いので楽しみだったんよ。かごは、全部で350個を4本の縄に縛って海中に沈め、1日置きに、半分ずつを引き上げるんよ。かごには、目当てのイカや、そのイカをねらってタコが入ったり、また産卵期になるとタイやチヌも入ることがある。今年(平成10年)の春先の潮のいい時には、タイを5kgほどとったことがあったが、今年は平均して少なかったなあ。イカは今年60kgとったのが最高やったが、去年、おととしは200kgくらいとれたこともあった。しかし、ミカンとついで(同じで)、豊作貧乏で値がぐっと下がりあんまりうれしくなかったなあ。
 イカには自分の生まれた所に帰ってくる習性があるらしいなあ。島の周辺にはイカ巣の漁場はいっぱいあるが、本船航路(阪神と九州を結ぶ定期航路)のすぐ魚島側では、いつもイカがかごに乗りよったけんなあ。上り航路のすぐ魚島側の漁場は、網船も操業できんし、そこがねらい目やった。最盛期には、目当ての漁場では、かごを少し沖に沈め過ぎて縄を入れ直している間に、はや(早くも)、イカが入りよったもんなあ。1時間もたたんうちによ。
 また潮時によったら、イカ巣かごにタコが60kgくらいとれたこともあった。タコは、まあまあの相場だったな。一度イカ巣漁に行ってみたら面白いよ。アコオが入るし、オコゼも産卵期になったら雄と雌の2匹がそろって入るけんのお。あれは不思議よ。」
 続いて、**さんに聞いた。
 「昭和40年(1965年)ころは、この村でイカ巣のかご作りを20数軒がやっており、島の裏手の浜は作業場所の確保で大変でした。わたしの家でも、最盛期の6月ころには小さいかごを1,000個くらい作って、漁をやっておりました。記憶にあるのは、島中がかごで埋まったかのようになり、作る所もなく、場所の取り合いをしていたことです。この時期は学校も休みになり、操業前には豊漁を願ってどの家でも祝い酒を振る舞っており、派手でしたよ。また、霧かかかりやすい時期だったので、操業中に本船航路で大きな船とぶつかっているのではないかとか、霧に迷って遭難しているのではないかと家族が心配していたのを覚えています。イカ巣漁は、昭和40年代が一番にぎわっていたのではないでしょうか。しかし、この漁法は、産卵中のイカをとるので、年を追って漁獲が減り、漁に携わる人も少なくなっています。」

 イ タコつぼ漁

 魚島のタコつぼ漁(写真1-2-6参照)は、20数軒の漁師の半数ずつが1年置きに漁をする仕組みになっている。また、公平を期すために春と秋に抽せんで場所を決めている。その様子を**さんに聞いた。なお、タコつぼ漁については、中島町二神島でも取り上げる。
 「6年前のことやが、タコがものすごくとれたけんのお。300個のつぼを、三つの縄に縛って仕掛けておいたら、タコが200ぱい以上も入っていたよ。わたしの弟が、2番くじで、江ノ島の大崎の漁場の権利を引いたが、病気で倒れたので手伝ってやったんよ。その場所はタコがよくとれて、三つの縄を引き上げたら、船の生(い)け間(ま)(*9)がいっぱいになるんで、魚島村漁業協同組合の生け簀(す)(とった魚などを一定期間飼っておくところ)まで計量のために帰って来ても、もう仲間の船がいっぱいで、どうにもならないことがあった。あのときは多かったなあ。
 例年は、10数軒のうち、いいくじを引いた4、5軒までが漁獲量が多く、安心して漁ができるのよ。
 タコつぼの縄は決まった漁場に沈めているので、仲間同士の縄のもつれはないが、よそ者がきて禁止区域ぎりぎりで網を引くときは、注意して出ていってもらうようにしているのよ。また、困るのは、沈めた縄に、遊漁船が釣り針などの釣り道具を引っかけたままにしており、縄を引き上げる時にけがをすることがあるんでなあ、それが一番困るんよ。
 タコつぼは、夏分は200個ほどを沈めているが、漁がない(あまりタコがとれない)ので、2、3日おきに上げるんよ。また、縄を3本入れているが、定置網が入っており漁がやれんのじゃ。例年、抽せんで決める、中の上程度の場所では漁は期待できんなあ。しかし、網代(あじろ)(*10)が悪かっても、運のいい人は一番くじの人よりも水揚げが多いこともあるんで、漁のことを水商売に例えることもあるなあ。それと、海底に貝などのえさがわいているとタコが多いんよ。
 タコつぼ漁は夏場より冬場の方がいい。タコが大きいのと、タコつぼから船に取り込む作業が楽なんでな。夏のタコは元気で、縄を引き上げる際に、海水面近くの温度差に気づいて、つぼから逃げ出すことがよくあるんよ。若いころは夏の漁では、海水面で逃げたタコを捕まえに海中に飛び込んだこともある。それも、こつがあって、タコが海中で足を広げた時に捕まえるんよ。産卵期になると、つぼに入っている雌タコを追って雄タコがつぼにしがみついて上がってくることもある。年金だけの生活じゃ寂しいんでの、沖に出て楽しみよるのよ。」

 ウ ノリの養殖

 **さんに、ノリの養殖について聞いた。
 「いろいろなことがあったのお。この島に本格的に電気が導入される(昭和40年〔1965年〕)前は、何をしてもうけようかと思い、ノリの養殖もやった。当時はノリの乾燥は、天日干しでやっていた。刈り取りも、庭木のせん定ばさみのようなもので刈り取っていたなあ。当時は海もきれいでノリもよくとれていたが、この方法では効率が悪く、家計を支えるほどのものではなかったんよ。
 昔はノリをはさみで切り取り、包丁で細かく切って、手ですきながら、1枚1枚を仕上げていたが、ノリ1枚を19円の高値で売ったこともあった。ノリの乾燥には共同作業場を使っていたが効率が悪く、その後、電気が導入され、個人の家で乾燥機を持つようになったんよ。そのほかにも湿度調節器とかノリをはいで束ねていく機械などを全自動にしたんで、高いものになってなあ。刈り機や運搬船など全部を購入して事業を始めるとすると、とてもできん。
 製品の干しノリは、まず摘み取ったノリをざるに入れて水切り後、生ノリを機械で細かく切断するのよ。その後、適量の水と混ぜ、ノリ抄(すき)機ですき、乾燥して出来上がりよ。一度、ノリをすく作業を徹夜でやっていた折に、居眠りをしてノリが外に流れ出て大事になりかけたこともあった。一昼夜、ぶっ通しで7万枚もすいたこともあったなあ。皆、一生懸命やったんよ。
 ノリ養殖の問題点は、結局水やった。三原市(広島県)からの給水船が間なしに来よったけんなあ。水の代金が西条市などと比べると高いんでなあ。当時、毎月20tから25tの水を使っていたが、島でノリの乾燥用の油代とノリをすく水代を比べると、水代の方が高かったんよ。とにかく水代が高かったし、この島でノリの養殖がやまったのは水の問題と後継者不足があったなあ。わたしも7年前にやめました。」
 続いて、**さんに聞いた。
 「わたしも京都市で勤めていて、父から島に帰るように勧められたときに、『底引き網をするのだったら帰らない。ノリ養殖だったら多少、将来性があるので帰る。』と言って帰ってきたんです。28歳ころに帰ってきてノリ養殖に精を出したが、当時すでに過剰生産になっており、利益を出すことはできませんでした。4、5年遅かったように思います。ノリ養殖が軌道に乗っていたころは、年間数千万円の水揚げがあったと聞いていますが、最近は人手不足から廃業に追い込まれています。ノリの生産も、以前のついたて式のすだれにノリを乗せて1枚1枚はぎ取る方法から、すだれが自動的に回り、乾燥したノリ4枚が一度に出てくる方式になりましたが、結局過剰生産で値崩れしてしまい、利益を上げることができませんでした。
 島に帰ってきて思ったことは、ノリの生産量の規制がなく、農業協同組合のような全国的な組織はないものかということでした。『こんな(ノリの生産量の規則のない)ことやったら苦労するだけで、えらい(しんどい)。』と、おやじにいつも言ってました。
 ノリ養殖で一番苦労するのは、ごみの処理と藻の除去なんですよ。藻が網に生えて、巻き付いた状態になると、それを取ってやらないと藻の揺れで網に生えたノリをこすり取ってしまうのです。それで、ごみを網からしょっちゅう取っておりました。特に、台風明けのゴミ取りは大変でした。網に掛かったごみと網に生える藻をしょっちゅう取っていると、この作業で腰が痛くなることがよくありました。」
 ノリ養殖が始まったころには、魚島でもミカンが栽培されていた。ミカンづくりについて、**さんに聞いた。
 「昭和37年(1962年)ころ、ミカンがいいと言うてな、弟の家族と一緒に、4km離れた江ノ島の山のてっぺんまで耕してなあ。あのころは、山に道があるわけじゃなし、荷物を担いで上がるのは大変だったんよ。そのうちに、苦労して育てた木にミカンがいっぱいなってのお。それを渡海船に積んで今治市で売ったが、その年はどこもミカンが大豊作で値段が安いんでなあ、船賃もないんでのお。『それやったらやめた。』と言うて、後のミカンの木は放置してしもうた。25年以上も前になろうかなあ。」
 続いて、**さんに聞いた。
 「昭和40年ころ、わたしの父は漁に出ており、母とわたしと妹の3人でミカン山の手入れをしていました。冬休みにミカンの木にこもを巻く作業がありましたが、指先が逆むけになり、嫌でたまりませんでした。朝は5時ころに起きていたし、休みはなく寒かったのを覚えています。今、考えると親はそんだけ苦労しよったんやなあと思います。」

 エ 定置網漁と底引き網漁

 **さん(越智郡魚島村魚島 昭和10年生まれ 63歳)
 **さん(越智郡魚島村魚島 昭和36年生まれ 37歳)
 **さんは、魚島でも少なくなった定置網を中心に漁業に取り組んでいる。終戦後からの定置網の移り変わりについて聞いた。
 「わたしは中学卒業後、10年ほどは神戸市に行っとりました。昭和25年(1950年)ころは中学校を卒業すると、ほとんどの者がいったんは島外に働きに行きよりました。おやじも年をとってきたので、昭和35年に島に帰り、当時やっていた桝網(ますあみ)(定置網)の手伝いをするようになったんよ。当時は魚も多く、網によう乗りよったけんど、とれる魚はタイが一番多かったなあ。ほかにスズキやグチが多かったけどね、今は減ってしもうたなあ。それ以来、ずっと定置網をやりよるけんど、網の形や仕掛けもいろいろ変わったなあ。最初のころの桝網から今は、底定置網(そこていちあみ)というて、海の底に沈めるような網になっとる。この網ではタイやヒラメの歩留まりがいいんよ。網に入る魚の種類は、今も昔も似たようなもんじゃな。タイもおらんようになったというても、今でもぼつぼつは網に乗るけどね。漁獲は4月が一番多かろうなあ。網は一年中、入れてはいるが、夏分になると魚が入らんようになるので、だいたい網を上げらいね。ただ、お盆までは一つだけ網を残しているが、それでとれる魚の量は、自分の家のおかずをとる程度のものよなあ。11月から2月までは冬分の網を仕掛けるけど、4月から6月までの梅雨張りの方が漁が多いなあ。
 夏分はタコつぼ漁もやっているが、今はタコつぼを250個ほど沈めて3日に1回、上げるようにしているけんどね。つぼを入れる場所は漁業協同組合が抽せんで決めてやるんで約半分のつぼを上げてタコが10ぱいくらいきたら、ええほうじゃなあ。まあ10ぱいもおれば船の油代くらいにはなるかなあ。」
 **さんは島外に働きに行っていたが、魚島に帰って7年目になる。現在は、父親に漁の仕方を教えてもらい、底びき網漁を中心に一人で漁に励んでいる。底引き網のうち、エビ漕ぎ漁(網の口を竹さおで広げて網を引くので竹漕ぎ漁ともいう)について話を聞いた。
 「昭和50年代の中ころまでは、夜にエビ漕ぎ漁の網は引っ張りよったんと。夕方から出て行って、翌朝に戻るので、重労働やったとおやじは言っておった。わたしは、朝4時に出漁して11時ころに帰ってくるんで、昔に比べたら楽になったなあ。
 エビ漕ぎ網の幅は張竹(はりだけ)の長さの15m程度、網の長さは30間(1間は約1.8m)で、網の口の下側のロープにはおもりとして、鉛や焼いた陶器を縛りつけて沈め、上側のロープには浮きを付けて網の口を開かせて、海底を引いてエビやその他の魚をとる仕組みになっとるんよ。
 夏分はアジが一番多く、5、60kgほどとれるかな。とれたてで、まだ跳ねているアジを生け間に入れても、夏は海水温が高いのですぐに死んでしまうんよ。それで、生きたまますぐに氷詰めにして船倉に入れて冷蔵するんよ。シャコやアナゴなどもとれて、7月下旬からはエビがとれ始めるかなあ。そうなると目の細かい網に替えて、エビやメブトをねらって網を引くようにするんよ。目当ての魚以外にタチウオやミズイカとか種類が多いんで、一人での作業は大変よ。とれた魚は船上で選別し氷詰めにするんじゃけど、夏分は気温が高く、作業を手早くやらんと品質が落ちるので、この漁は気ぜわしいなあ。
 『最近は、船の速度は速くなり網も改良されてきたが、昔の方が魚種も豊富で漁獲も多かった。』とおやじはいつも言っている。わたしは、朝4時から昼までの間に、網を1時間ほど流して、とれた魚の選別も含めて20分で引き上げる。これを4、5回繰り返すんよ。漁場には禁止区域があるんで注意しながら、島から2kmほどの沖合いを網で引きよるんよ。また、10月20日から11月30日までは鉄管漕ぎ(*11)で、その後、12月1日から3月31日まではマンガ漕ぎ(写真1-2-7参照)に変わり、底ものをねらって漁をするんよ。
 魚島での生活には、言葉では言えない、お金には替えられない良さがあるんよ。周りの人が皆、親切で人情深いこともあるしな。みんなが親せきという感じで、身内でなくても何かのときに助け合えるんよ。わたしは父親の若いころの生活の苦しい時代は知らないが、理解したい気持ちはあるんです。これから、父親の漁の技術を見習って頑張っていくつもりです。」


*7:八つ手状の金具に網を取り付けて海底を引き、そこに生息する魚介類をとる漁法。
*8:引き網のひとつ。漁船の船首と船尾から出した長い桁(けた)に網の引き綱を結びつけて、風力・潮力・人力を利用して引
  き回す袋状の網。
*9:漁船の中央部に設け、海水を通じて生魚または生餌(いきえ)を生かしておく生け簀(す)。
*10:定置網の漁場。ここでは、いつも魚群が集まっているような場所や沖の釣り場のことをいう。
*11:鉄のパイプに網を取り付けて海底を引き、そこに生息する魚介類をとる漁法。

写真1-2-5 イカ巣かご

写真1-2-5 イカ巣かご

平成10年7月撮影

写真1-2-6 篠塚漁港に並ぶタコつぼ

写真1-2-6 篠塚漁港に並ぶタコつぼ

平成10年7月撮影

写真1-2-7 篠塚漁港

写真1-2-7 篠塚漁港

右手にあるのはマンガ漕ぎ漁の漁具。平成10年7月撮影