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愛媛のくらし(平成10年度)

(1)離島に生きる

 **さん(越智郡魚島村魚島 明治44年生まれ 87歳)
 **さん(越智郡魚島村魚島 大正8年生まれ 79歳)

 ア 魚島のくらし

 燧灘の中央に浮かぶ越智郡の魚島は、周囲約6.5km、約340人(平成10年4月現在)がくらす漁業中心の島である。交通機関としては、1日1往復の今治への渡海船と、弓削(ゆげ)町(越智郡)との間を45分で結ぶ1日4便の村営の高速定期船がある。また魚島村は、全国の自治体でも珍しい下水道普及率100%の村で、海水淡水化装置の設置により豊富な飲料水が各家庭に送られている(①)。
 **さん夫妻は、魚島に2軒ある旅館の一つを営んでいる。**さんは昭和14年(1939年)から約40年間魚島村役場に勤務し、その後も自家農園の世話をしながら島のくらしの様子を見つめてきた。**さんに島の生活の移り変わりを聞いた。
 「わたしは、昭和12年に召集を受けて中国大陸を転戦しましたが、昭和14年に帰国してそのまま村役場に就職しました。わたしの友人の中には兵役解除で帰国すると同時に、太平洋戦争で再度召集を受け、戦死した者がたくさんおります。そのため、戦中から戦後にかけて、島には若者はほとんどいませんでした。それで、漁業労働者の不足と食糧難とで生きていくのに精一杯の状態で、魚島名物の『春の鯛縛(たいしば)り網漁(あみりょう)(*1)』は中止になりました。
 その後、生活が落ち着いてくると、魚島にも商売人の宿泊が増えてきました。富山県からの薬屋さんが2週間も泊まったり、呉服屋さんが反物を背負って村中を歩き、長期間、泊まっていきました。また、瀬戸物や金物などを積んだ船がきて、港の広場で商売をする人たちも季節的におりましたね。島には、まとまった田畑がないのでイモとムギを主食にしていましたが、昭和30年代になると、配給の米なども豊富に出回るようになり、生活にも余裕ができました。離島振興法(*2)の指定を受けて村内の篠塚(しのづか)漁港の改修などが進みました。また、沿岸漁業構造改善事業(*3)の適用により、低利の融資を受けて、漁民が自分の船を持つようになり、自営の道が開けました。それまでは、財力のない人は船方(ふなかた)(船員)として雇われて漁に出ており、経済的にはつらかったようです。魚島周辺は砂地が多く、磯(いそ)らしいものは少ないので、漁師は網による漁法やタコつぼ漁、それにイカ巣漁などを季節に応じて行いながら生計を立てており、一本釣り専業の漁師はいません。」

 イ 今は昔、鯛縛り網漁

 魚島で有名なのは鯛縛り網漁である。**さんが経営する旅館には、初代村長が絵師(氏名不詳)に描かせたという貴重な鯛縛り網漁の絵図が残っている。それをもとにタイの縛り網漁について**さんに聞いた。
 「『魚島村誌(①)』によれば、明治35年(1902年)には約4万匹のタイがとれたといわれ、その記念碑が吉田磯(魚島の東側約4kmにある江ノ島沖の磯)に建っています。タイが腹を返して海上に浮かんだ上に、漁師がこも(*4)を敷いて酒盛りをした、と記録されています。豊漁の理由は、江戸時代の末期に、薩摩藩の吉田丸が、献上米を積んで航行中に吉田磯で沈没し、海中に沈んだ米にタイが寄ったと言われているんですがね。わたしらが子供のころにも、米ぬかと赤土を混ぜて煎(い)り、米俵に詰めて吉田磯に沈めてタイの餌(え)づけをしていた記憶がありますね。とれたタイは尾道市や福山市あるいは大阪府にまで運搬して販売していたようです。それで、大阪の方では、春の季節にタイを食べることを、『魚島をする。』と言い、今でもそのような言い方が残っているようです。ここでとれたタイは今治市方面には出回っていないようです。その理由は、この魚島は戦時中の米やマッチなどが配給になる統制経済(*5)になるまでは尾道市の経済圏であったことや、島周辺の潮の流れも、尾道市に行く場合は、横からの潮流で比較的航行しやすいのですが、今治市へは潮の流れに逆らって行かなければならないというようなこともあるようです。距離はそれほど変わりません。」

 ウ 弓削島と魚島を結ぶ

 **さんの話が続く。
 「村民が島を出る際には、個人営業の渡海船で今治市へ出るか、村営の旅客船で弓削島を経由して、今治市や因島(いんのしま)市(広島県)方面へ出るか、どちらかです。この村営旅客船の営業は大正12年(1923年)に始まっています。当初は、焼き玉機関(*6)の木造船で、弓削島まで1時間40分を要しました。そのため、少し海がしけると燧灘を乗り切ることができず、時には1週間も欠航することがあり、島民の生活にも影響が出ていました。昭和38年(1963年)からは、新鋭船が1時間10分で弓削島とを結び、島の交通は飛躍的に向上しました。
 わたしが子供の時分には、おばあさんの弟が和船を出しており、櫓(ろ)を漕(こ)いで弓削島まで通っていました。夏の凪(なぎ)の日には、櫓を上げて一服しながら航海していました。のどかなもんだったんでしょうね。戦時中は、1往復のこともありました。船がこんまいんで(小さいので)、少し、しけたりすると船室の火鉢も何も転げ回るほど揺れるんです。今の船からみると、ようやったもんだと思いますね。
 現在の高速艇(写真1-2-2参照)では、島の高校生も時間的に余裕をもって弓削まで通学できるようになり、便利になりましたが、反面、高校を卒業した者が都会に就職するので、若いし(若者)がこの島におらんようになったような気がしますね。それに、平成8年から高速艇が因島にも寄港するようになり、便利になりました。」

 エ 旅館経営に携わって

 **さんは、高等小学校までを魚島で過ごし、今治市の女学校を卒業して、すぐに地元に帰っている。20歳で結婚し、その後50年間、旅館の経営を続けている。この島で少女時代に経験した春の鯛縛り網漁の思い出を聞いた。
 「子供のころ、つらかったことは、水くみと洗濯、それに風呂焚(ふろた)きでした。村の共同井戸は水量が少なく、みんなが使った夕方には水が減っていました。つるべ(バケツにひもをつけたもの)で水をくみ上げますが、早朝、井戸に水がたまるのを見計らって行っておりました。水を入れたバケツが重く、苦しかったことは今でも思い出すことができます。私が女学校を卒業して島に帰ってきたので、母は水くみや洗濯などの重労働から解放されることで、大変喜びました。また、宿泊客が多いときは寝具の洗濯が大変で、水が大量に要り苦労しました。風呂焚きも薪(まき)で焚くので、長い間、焚き口に居なければならず苦しかった思い出があります。早朝の水くみで、バケツをガラガラいわせ、近所の人から怒られたことは今でも鮮明に覚えています。
 春は鯛縛り網漁で大変にぎやかで、村の人口を上回る人出でにぎわいました。漁を見物する船を旅館が仕立てていましたが、その船に乗るのが何よりの楽しみでした。とれたタイを、船の上ですぐに料理してお客に出す手伝いをしました。その時、お小遣いがもらえるので、春を待ちわびていたものです。また、この季節には、愛媛、香川、広島の各県から鯛網の漁をする船が集まってきて漁場はにぎわっていました。大勢の漁師が、飲み水をもらいに島に上がってきましたが、水おけの中にタイを忍ばせてきて、それを島の住人に売り、そのお金で酒やお菓子を買っていました。
 春の鯛網の季節には、30組もの船団がひしめいていました。一つの船団は8艘(そう)で構成され、約60人が乗り組んでおり、大変にぎやかでした。特にこの季節には村での招待客が多く、船を仕立てて船の中で料理を作ったり、料理道具を船に積んで島に上陸し、宴会を開くこともありました。当時、タイはたくさんとれており、毎年数百匹程度はとれていたと思います。小学生のころ、母の勧めで見物船に乗せてもらうと、顔見知りの漁師さんがとれたてのタイを手渡してくれたことを今でも覚えています。」

 オ 魚島に電気が

 再び、**さんに話してもらった。
 「大正12年(1923年)に自家発電による電灯がつきました。機械の回転により明るさが点滅する程度のものでしたが、ランプの火屋(ほや)磨きの手伝いをしなくてもいいだけ助かりました。当時は、『電気が息をする。』と言い、お年寄りたちは、『火屋を磨かなくてもいいのか。油を注(さ)さなくてもいいのか。』と言っていたのを思い出します。当時、火屋磨きは小さな手がその中に入るので、子供の仕事とされていました。しかし、遊びに夢中になり、あわてて磨くうちによく割ってしかられたことがありました。また、昭和40年(1965年)に完全点灯になるまでは、午後10時に送電が止まるので、わたしの3人の子供たちは、その後はランプをつけて勉強していました。今治市内の高校に進学するまでは皆、ランプの世話になりました。」
 続いて、**さんに話してもらった。
 「宿屋をやっていたので、昭和40年に本格的に電気が導入されるまでの5年間ほどはガス動力の冷蔵庫を無理をして購入し、使用していました。わたしとしては、とにかく冷蔵庫が欲しかったのです。
 当時は、学校関係や役場関係、それに漁業組合関係の客も多くなっていました。また、宿泊と同時に、役場の懇親会や仕事の接待などでも利用してもらっていました。忙しい折には親せきの者に手伝ってもらったり、主人にも料理の手助けをしてもらったりしました。その後、この島に電気が引かれ、電気冷蔵庫や電気洗濯機も使えるようになり、旅館にとってこんなに有り難いことはありませんでした。
 それにしても、わたしどもは年をとりましたが、幸いなことに次男が地元に就職をしてくれていますので、安心して余生を過ごせます。」


*1:鯛縛り網は、鯛網の中でも規模が大きく、江戸時代末期に安芸・備後(広島県)方面で始まったが、ほどなく愛媛にも伝
  わり、明治25年(1892年)ころまでに燧灘海域を中心に発達した。魚島ではタイの一番よく集まる江ノ島の南東にある吉
  田磯(一の瀬磯)を中心にする海域で盛んに行われた。
*2:離島の振興を図り、住民の定住を進めるために昭和28年(1953年)に制定された。昭和61年(1986年)現在、288の
  島が同法の指定を受けている。
*3:昭和37年(1962年)より、10年計画で始まった。漁場の改善造成、大型魚礁の設置、漁業通信、製氷や冷凍、養殖施設
  の整備、加工、運搬などの経営近代化や促進対策が図られている。
*4:あらく織ったむしろ。もとは菰(まこも)を材料としたが、今は藁(わら)を用いる。
*5:資本主義国家が個人企業の経済活動を規制したり計画化したりする経済形態をいう。
*6:内燃機関の一つ。焼き玉と呼ぶ燃焼室を加熱して赤熱状態とし、そこへ重油などの燃料を噴射して点火・爆発させるも
  の。

写真1-2-2 現在就航中の『ニューうおしま丸』

写真1-2-2 現在就航中の『ニューうおしま丸』

昭和58年建設された魚島村開発センターは、魚島村役場や保育園などに利用されている。篠塚漁港にて。平成10年7月撮影