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愛媛の技と匠(平成9年度)

(1)鎚打つ響き、飛び散る火花

 **さん(北宇和郡日吉村下鍵山 大正12年生まれ 74歳)
 **さん(東宇和郡城川町嘉喜尾 昭和2年生まれ 70歳)
 **さん(西宇和郡保内町宮内  昭和11年生まれ 61歳)

   「しばしも休まず 鎚(つち)打つ響き 飛び散る火花よ はしる湯玉(ゆだま)
    ふいごの風さえ 息をもつがず 仕事に精出す 村の鍛冶屋(かじや)」

 文部省唱歌『村の鍛冶屋』が、小学校の音楽から消えて、すでに久しい(*11)。
 同様に、かつては愛媛県下どこの町や村にも数軒はあった鍛冶屋が、今は県全体で30軒に満たない状態になっている(職業別電話帳による)。ここでは、次第に姿を消している鍛冶屋に焦点を当て、その技や心を紹介することにしたい。

 ア 鍛冶屋修業

 **さんと**さんは、戦後まもなく、鍛冶屋をしていた父のもとで修業をし、この世界に入った。また、**さんは、昭和28年(1953年)日上(ひづち)(八幡浜市)の鍛冶屋に弟子入りしたのち、土佐山田(高知県)で切れ物の技術を習得し、鍛冶屋を始めた。**さんは昭和50年代初めに廃業したが、**さんと**さんは今も現役の鍛冶屋として、毎日鎚をふるっている。
 「(**さん)わたしの家は祖父の代からの鍛冶屋で、小さいころから父の仕事を見ていたが、あまり鍛冶屋になろうという気はなかった。戦時中は広島の造船所にいたが、戦後、食べ物もろくにないのでこちらに帰り、23歳で父のもとに弟子入りした。
 弟子入りすると、まず最初は『炭切り』といって、燃料に使っていたマツ炭をさいころ状に刻まされた。朝は親方が来るまでに火をおこしておかなければならないので、5時ころには起きた。水槽の水換えや作業場の掃除などをする日々が1年ほど続いた。
 当時は、原料に玉鋼(たまはがね)(*12)(和鋼。写真2-2-25参照)を使っていたが、これをたたいて延べるのも弟子の仕事だった。玉鋼は砂を固めたようなもので、うまくたたかないと飛び散ってしまうし、少し焼きすぎると溶けて落ちてしまう。だから、勘を働かせて溶ける直前に取り出し、最初は軽く押さえるようにたたく。2回、3回たたくうちに、まるい塊が四角くなってくる。1日の仕事が終わった後、これを毎晩毎晩やらされた。うまくできるようになるのに1年以上かかった。
 次は砥石(といし)かけ。鍬(くわ)を押さえておいて、砥石の方を動かして磨いた。やすりで形をこしらえるけいこもしたが、仕上げをやらせてもらうのはかなり後のことだった。
 向こう打ち(*13)は、最初からけいこだけはやらしてもらえたが、大事なものはたたかせてはもらえなかったように思う。
 向こう打ちが上手になるのは横座(よこざ)(*14)(図表2-2-6参照)に入りだすころで、弟子入りから3年くらいかかった。
 わかし(*15)が一人前にできるようになったら、年(年季)が明く。親方は、わかす温度や焼き入れの温度は、『目で見て覚えよ。』と言って、一つも教えてくれない。しかも、外から見る温度と横座で見る温度は、同じように見えても差がある。だから、外で見ていたら、今何度くらいになっているかわかるが、横座に入ると、それがわからず苦労した。
 よく『修業は5年』というが、わたしの場合は子供のころから見ていたからか、4年ほどで終わり、昭和29年(1954年)独立した。しかし、その後もしばらくは、刃が欠けたり、焼きが甘くて曲がったりしてもどってくる製品が多く苦労した。『もどり』が2割くらいになれば、まずまず一人前ということだろうが、それには10年くらいかかるのではないかと思う。」
 「(**さん)鍛冶屋の修業というのは、『親方のやりよるのを見て覚え。』で、教えてくれんけんな。じゃけん、見よう見まねでやってみて、失敗してなんぼじゃけんな。何回やめよかと思うたことか。まあ来た以上は年明けただけではつまらんいうて、一生懸命覚えはしたけどな。
 休みの日には、盗み見したろ思うてよそへ行ったりもしたけど、見せてくれませなんだ。
 『おまえ、そこ出とれ。』言われて。今は見せてくれるけど、あの時分はまだきびしかったいな。技術盗むいうことで、一切、見ささなんだものな。
 鍛冶屋いうのは、机の上の勉強じゃないけんな。結局、練習して上手になるんですけん、自分で打つ以外にはないです。鎌(かま)でも1万丁くらいたたかな、切れる切れんより、まず形になりませない。鍛冶屋は測ってやるわけにいかん。勘ですけんな。あれは、やっぱ(り)たたかなわからん、いうことやな。」

 イ 鍛冶屋が消える

 (ア)村の鍛冶屋

 「(**さん)昔はいろんなところに市(いち)があって、鍬や鎌をこしらえといては、そこい(に)売りに行ってた。お百姓さんの方も、鍬や鎌はそこい行って買うものだということになってたので、よう売れた。毎年行くから、『去年のはよかったぞ。』というようなことで、自然お得意さんもできた。まあ競争相手の鍛冶屋もたくさん来ていたけど。
 そういうときは、朝早うに起きて、自転車やリヤカーに品物を積んで行ったものですよ。荷物はかなりのものになって重かった。柄(え)はつけよらなんだ。かさばるし、それに第一、当時のお百姓さんは今みたいに柄は買わなんだ。昔の人は、柄だけは自分の気にいったように削ってせなんだら、いけなんだ。どこの家でも、みんなカシの木を切って作りよった、ちゃんと乾燥さしてな。四つ割りにして、曲がらんとことってやるからええものがあったわな。お百姓さんはみんな器用なかったから。でける限り、自給自足やったけんな。
 お田植え前や秋には、修理もたくさん来よった。その修理のない時にこしらえとくわけやけんな。修理は、向こうが持ってきてくれよった。のんびりしてたもんやった。
 鍬はたいていのものを作った。このあたりでは三本鍬(三ツ鍬)が多かったが、田んぼの畦(あぜ)とりには平鍬もよく使った。技術的にはどれも同じようなものやったけど、石のないところ、多いところ、砂質のところ、粘いところで鍬の形を少しずつ変えないかん。たとえば、石の多いところでは立ちが悪いわけやから、幅を細くせないかんし、ないところは立ちがよいから広くしてもよい。お百姓さんからも言われるけど、まあ長年やりよったらわかるわな。村の鍛冶屋いうのは、農家の生活と完全に密着していて、なんでも作らんといけんかったわけ。農家にとっても、鍛冶屋なしでは農業がやれんかったし、当時農村では鍛冶屋は絶対に必要なもんであったわけや。」

 (イ)時代が変わった

 「(**さん)鍛冶屋が大きく変わったのは、高度成長からやな。設備さえすれば、数ができるようになったことと、耕うん機や草刈り機が出て来て需要が減ったことが大きいわな。それまではけっこうよかったけど、あとはもう先細りでな。だから、うんと設備投資して続けるか、やめるかどちらかやったけど、当時、鍛冶屋仲間には何とかしようという気持ちはなかったな。金入れて設備をしたて、人が集まらんし、売れる数も減っていたしね。要するに、将来性がないということよな。自分らもそういう時代に入って、子供もそれなりに成長したし、先がわかっているからやめたようなわけよ。今は専業ではやっていけんやろ。残っている人もほとんどが、鍛冶屋は副業よ。
 昔は全部いわゆる手作りという時代やったからねえ。しかし、今は手作りでやったんでは引き合いにかかりませんよ、あらゆるものが。だから、職人というものもどんどんいらんようになってきたのよなあ。昔はねえ、手職というか、職さえ一つもっていたら、一生食いはずしがない、どこい行っても食っていけるというそういう時代じゃったけど、時代がどんどんどんどん変わって、今はもう手仕事は成り立っていかないね。生活をしていくとなると、そんなことばっかりできませんよ。生活をかえりみないというのは、芸術の世界ですよ。
 鍛冶屋の技術も、今の工業社会の中では必要ないものね。そんなものなくても全部できるやろ。第一、新しい技術で作ったものにはこたわんものね。今は、すべての分野で技が必要でなくなった時代ですよ。鍛冶屋に限らず、すべて手職の技術は、高度成長によって、機械にやられてしまったということやと思うよ。これも時代の流れやから、どうしようもないでしょ。仕方ないよ。30年前にはとても想像できなかったことが起こっているでしよ、今は。手職のよさが必要になる時代は、残念ながらもう来ませんよ。」
 「(**さん)わたしが独立したころは、いわゆる野(農)鍛冶として、主に鍬や鎌などの農具を作っていた。その当時、城川町には鍛冶屋が13軒くらいあったと思うが、鍛冶屋1軒にお客が200人くらいおれば、生活できるとされていた。ところが、昭和35年(1960年)ころから農機具が出るようになると、鍬や鎌を作って生活できる当てがなくなり廃業する人が出始め、昭和45年ころには8軒に減った。そのころになると、鍛冶の仕事だけでは生活できないので、鉄工業や水道業を副業としてやるようになった。昭和55年(1980年)ころには4戸になり、現在は2戸になっている。わたしのところも、鍬などの農具類とバチヅル(つるはしの一種)を半々くらいの割合で作っているが、同じ郡内の宇和町や明浜町あたりからもお客が来るようになった。もう今は、まあ郡で何軒というくらいだろうか(図表2-2-5参照)。
 わたしのところも後継ぎがいないので、わたしの代で終わりだと思っている。子供がやると言っても、わたしもやれとは言わない。」

 ウ 鍛冶屋の技

 三ツ鍬と包丁の製造工程について**さんと**さんの話をまとめた。

 (ア)材料

 「(**さん)三ツ鍬の場合、地鉄(じがね)(軟鉄)には丸鉄の延べ棒16回丸(直径)を、刃鉄(はがね)(鋼)にはSK青鋼(糸引鋼)を使う。SK鋼の6の25(厚さ6mm、幅25mm)を、先になる方が厚くなるようにたたいて勾配(こうばい)をつけ、幅2cm、長さ3cmくらいの長さに切っておく(A)。普通は丸鉄を親になるのは25cmくらいに、中子(なかご)(*16)には12cmくらいに切って使う。大きい鍬の場合は、親は28cmくらい、中子は13cmくらいに切って使う。今は、鍬を使うのはほとんどが年配の人ばかりだから、小さいものの方が喜ばれるようである。
 燃料はマツ炭を使っていたが、昭和40年(1965年)ころからはコークスを使うようになった。炭は、火がやわらかいので、鉄の分子が荒れないが、コークスは温度が急に高くなって分子を荒らす性質がある。だから、品物がはすく(もろく)なってしまう傾向があるので、分子を細かくするため数多く打たなければいけない。」
 「(**さん)包丁の場合、材料は、切るところは鋼、地鉄はやおいの(軟鉄)を使う。土佐山田へ行ったら、鋼でも地鉄でも全部そろうとるけん、毎年買いに行っている。鋼はよけ(たくさん)いりませんわい。地鉄1tで、さあ50kgいるろか(いるだろうか)。地鉄は、品物によって全部太さが違うんですらい。うちらで10種類くらいあらへんじゃろか。細工しやすいように80cmから1mくらいに切ってな。鋼もいろいろあります。鍛冶屋のものは、だいたい4分角(1分は約3mm)から8分くらいの角かなあ。」

 (イ)鉄と鋼をつぐ

 「(**さん)鍬の場合、まず丸鉄を焼いて(約700℃)たたいて平たく延ばし、両端に『鉄ろう』というホウ酸(*17)や鉄の粉などを混ぜた接着材をつけて、鋼(上述のA)を乗せて焼く。焼きは2回。はじめは『薬づけ』といって、低い温度(約750℃)で焼いて、接着が確認できるまで2、3回たたく。これは、薬の部分を接着させるだけの、まあ仮り留めみたいなものである。次は『本わかし』。このときは地鉄も鋼も同じ温度になるようにわかす。850~900℃くらいだと思う。薬づけと本わかしの違いは、炎の中の火花がちらっと出るくらいと、ちらっちらっと出るくらいの違いかなあ。鉄を出して見るわけにいかないので、炎の色で見るのよ。勘だけよ。」
 「(**さん)包丁の場合は、片刃と両刃でやり方が違う。
 片刃は、地鉄の上に鋼をべったりつけてしまう。そのとき、鋼は固いですけん、延びぬくいけど、鉄はやわいけん延びましょ。だから、ようけたたきよったら、やわいのほど先い(に)出てくるけんな。ほんで、鋼ほど(の方を)ちょっと広うしとくのよ。そうせんと、鉄が鋼を巻き込んでしまうけんな。
 両刃は、『割り込み』いうて、地鉄を焼いてタガネで割り込んで、そこい鋼を入れて焼いてたたくのよ(写真2-2-22参照)。接着剤をつけると、わいて、がいよう(うまく)なるのよなあ。鋼が出ていたら、焼き過ぎると溶けてしまいますけん、だいたい埋め込んでしまいます。たたくときは、ゴミ(不純物)出すように尻(地鉄)の方から追い上げちゃるとええようやなあ。鉄と鋼は、なかんようて(仲がよくて)ひっつきやすいんですらい。温度上げたら自然にひっつきますのよ。」

 (ウ)形づくり

 「(**さん)鍬の場合、本わかしで地鉄と鋼が完全にくっついたら、あとは、5、600℃くらいの温度で、焼いてはたたき、たたいては焼きながら形を作っていくだけである。鉄で大事なのは粘りだが、数たたいて鍛えたものと、さぁーと仕上げたものとでは、固さも違うし、粘さも違う。1丁の鍬を打つのに、『それほどたたいたら、肩も痛うならい。』とみんなが言うほどだから、千何百回はたたいていると思う。
 鉄は打つほど小さくなるので、形ができたときにちょうどいい大きさになるように考えながら打つ。鍛冶屋の場合は目方を量ることもないし、勘だけが頼りである。格好も勘だけだから、三ツ鍬なんかでも、測ってみると右と左が多少違ったりすることもある。
 打つにつれて刃先の方が薄くなる。この時点では地鉄も鋼も区別がつかないが、下が地鉄で上が鋼というようになっている。土に当たるとき、鋼は固くてちびない(摩耗しない)が、地鉄はちびて、研がなくても自然に刃がつくようになっている。
 中子は、昔は、一方の端をタガネで二つに割って、他の端に鋼をわかしてくっつけたのち、二つ割りにした方で親をはさむようにして薬づけしていた。焼くのはくっつけるところだけで、本わかしのときのように全体を焼くことはない。今は溶接でつけている。
 本体ができたら、今度は柄を付ける頭の部分を作ることになる。頭は、平鉄を13cmくらいに切り、縦に1.5cmくらい割ってたたいて耳をこしらえる。これを昔は700℃くらいにわかしてつけていた。それ以上上げると、周囲も温度が上がってせっかく鍛えた品物が悪くなってしまう。薬づけのところだけが完全につくくらいの温度にし、それ以外はできるだけ焼かないようにするのがこつである。今はこれも溶接でやっている。溶接の方が強いが、衝撃を受けたときにはもげ(はずれ)やすい。」
 「(**さん)包丁の場合、割り込んで鋼を入れたら、あとはその品物の形に延べるだけですらい。形こしらえるこしらえる(こしらえながら)、たたくのよなあ。このときの温度は、だいたい900℃余りやろうかなあ、目検討じゃけど。鋼はよけ焼かれんのよ。焼くたんびに分子広がってなあ、細かい刃がつかんのよ。で、焼いたら、たたいて締めないかんけど、焼き過ぎたら、広がりっぱなしになってなあ、締まる余裕ないのよ。それが難しいのよ。よう切れる刃物ほど、温度上げられませない。
 包丁の柄を出すのはしよいもんよ。焼いたついでに、ちょこっと切れ目入れて、たたいて延べさえしたらええのよ。だいたい鋼つけたときに、いっしょに柄も出すんやけどな。 
 あとは、形になるようにたたくんですよ。先ほど薄うせないけまへんでしょ。それで、背んご1回たたいたら、先3回ぐらいたたかな先薄うなりまへんでしよ。たたくたたく(たたきながら)曲げてね、延べるんよ。」

 (エ)焼き入れ

 「(**さん)三ツ鍬の場合は、鍬先1本1本に角度をつけ、刃先になるほど薄くたたき出し、焼き入れ前の荒研ぎをしておく。焼き入れはあまり温度を上げると、せっかくたたいて分子を細かくしたのをまた荒くしてしまうので、刃先10cmくらいを、ミカン色に焼けたとき、10℃くらいの水につけて焼き入れをする。焼き入れの水は冷やすぎてはいけない。昔から、くみだちの新しい水よりは、何日かたっているため水の方が粘いと言われている。
 理想を言えば、わかしと焼き入れが一致したのが一番いい。わかしが上手でも焼き入れが下手だといけないし、焼き入れは上手にできても、わかしのときに焼きすぎているともろい。でも、これはむずかしいね。
 焼き入れのあと、ちょっともどしを入れる。鍬の場合は水から出してちょっとあぶるだけだが、そうすると粘りが出る。焼き入れでは100%固いだけになるのを、あぶってもどすことによって、固さはやや落ちるが、その分粘りを出すわけである。」
 「(**さん)包丁の形ができたら、まずグラインダーで荒研ぎをして形を整え、それからバフウ(布に膠(にかわ)やボンドで磨き粉をつけたもの)で磨いて焼き入れをする。磨き包丁は、全体に磨きをかけるけど、背の黒い包丁は、研ぎ代(しろ)のとこだけを磨く。
 焼き入れの温度は、鋼にもよりますけど、750℃から800℃の間やな。延べるときの温度よりは低い。目で見て、うす赤よりはちょっと越えとる。赤の手前かな。ここで、というのが難しいですらい。土佐の方は、今は重油炉や電気炉ですけんな。ある一定までいったら、それ以上は温度上がらんのよ。コークスは、温度が上がるけん、鋼が溶けてしもてな、油断もすきもならん。わたしは、焼き入れは炭使うてますけど、炭は高(たこ)ついて、今も炭使うとるとこはめったにありません。
 切れ物で一番大事なのは、鋼ひっつけるときと焼き入れの温度やなあ。焼いたほどようつげるんですが、なんぼええ鋼使うても、つぐときに温度あげたら鋼がだいなしになってなあ。ほんとは焼き入れの温度でついだらええのやけど、どうしたって焼き入れ温度ではつげんしなあ。つぐときと焼き入れの温度は、100℃は違うんやないかなあ。つぐときが一番高く、あとは、あんまり上げずに延べるのが理想よな。けど、よけ焼かなんだら、焼く回数が多なって手間だけ食うて、よけできませんぞ。
 焼き入れするとこは、鋼の色がようわかるように、どこの鍛冶屋も暗うしとらいな。『おまえ、暗うないか。』言われるけど、明うしたら、焼きすぎていけませない。ほやから、焼き入れいうたら、若いときは夜ばっかりじゃったけど、今はだいたい朝するのよな。昼中になると、外が明るいでしよ、自然と焼きすぎてな。
 火から出したら、なるべく早う水に入れんと、すぐ温度下がってしまうけんな。ほで、近いとこに水壷(みずつぼ)置いといて、すぐジャブンよ。もうまこと、何秒かおきよったら温度下がってしもて、焼き入らんようになってしまう。あらまし研いどるけんな、もうすぐですよ、刃先は。出したら、ジャブンよな。焼き入れの水の温度は、冬のあんまり冷やいときだけちょっとぬくめるけどな、あとはもうええ加減じゃな。夏はようけやりよったら、すぐぬくなるけんな。風呂の温度くらいになると、焼き入りにくいな。夏はわきすぎたが(水温の上がりすぎに)、気を付けらいな。
 焼き入れは100くらいまとめてやります。まとめてやらんと、炭ががいよう(具合よく)おきません。鎌と包丁はいっしょにはできません。」

 (オ)仕上げ

 「(**さん)できた製品は、冷えると鉄は縮むし鋼は伸ぶ性質があり、どうしても反っていくので、『あぶりもどし』といって、ぬくもりのあるうちにたたいて、完全な形にもどす。鋼は反らしたら折れるが、縮める方は折れないからね。鋼はそういうところが微妙なんよね。
 仕上げは、鋼の方は黒いところがないようにきれいにしてしまう。地鉄の方はあまり磨かないので、黒いところが多少残る。今は入れないが、昔は、製品には全部銘(屋号)を入れていた。判があって、焼き入れの前に入れる場合もあるし、仕上げのときに入れる場合もある。鋼は生のとき(焼き入れ前)でないとよう入れないが、鉄だと焼き入れのあとでも入る。できた製品は、さびが来ないようにニスを塗る。柄は売るときにつける。今ごろは柄つきでないとほとんど売れないが、古い柄を使うといって本体だけ買う人もある。
 鍬1丁を仕上げるのに、だいたい40分から1時間かかる。ただし、1丁ずつ打っては仕上げていたのではむだが多いので、お昼までぶっ続けで打って、お昼からは仕上げばかりというような形でやっている。」
 「(**さん)包丁の場合、仕上げもなかなかたいへんよ。
 焼き入れをしたら、荒砥(あらと)、大村砥(おおむらと)(目すき)の順に砥石で磨いて、刃をつけていく。昔はこの辺までやったんやけど、今はその後、『ボカシ』いうて、鋼と背を隠して鉄のとこだけ石粉つけて磨くんよ。そうしとくと鉄の部分が白うなって、あとで刃(鋼)を研いだら、そこが黒うなるけん、刃がきれいに浮きでるのよ。刃はよう切れるものが求められとるので、刃先をなんべんも研がんといかん。伊予砥で研いで、それから本山(もとやま)砥石で仕上げる。伊予砥からは、手で研ぐんよ。これを『刃付け』いうとらいな。刃物が切れるか切れんかは、この本山砥石次第よな。今は、そのあともういっぺん光らして見場(みば)をようするために、バフウとビニールバフウをかけとる。まあこれは、化粧みたいなもんよ。
 だから、焼き入れ前から数えると、グラインダー、バフウ、それから焼き入れがあって、荒砥、大村砥、ボカシ、伊予砥、本山砥石、もう一度バフウ、ビニールバフウと、全部で9回磨くことになる。包丁の場合、鋼ついで、柄を出して、延べてじゃから、4回か5回も焼いたらできあがらいなあ。ところが、研ぐ方は、砥石替えたりして何回も研がんといかん。だから、仕上げに暇いらいなあ。
 包丁の柄は全部買うんよ。作るいうたら、材料がかなりいらいなあ。高知の問屋さんに行ったら、いろいろ種類ありますけんな。ちんまい(小さい)のから、回りの太いのから。うちにあるがでも、10種類はあらへんじゃろか。それを全部かまえとくいうたら、なかなかたいへんよな。柄代だけでもかれこれなるけんな、何しよるやらわからんのよ。」

 (力)工程全般

 「(**さん)鍬を作る工程の中で一番神経を使うのは、鋼を本わかしするときと頭をつけるとき。焼きすぎると、ひびが入ってきれいにならないし、もげて落ちることがある。また、焼けていなかったら、今度は鋼がつかず、鋼と鉄が二つに割れる。一つにするには、材質によって温度を確かめないといけないので、温度には神経を使う。
 鍛冶屋というのは、火のそばでやる仕事だから、かなり重労働である。仕事場は40℃近くになっていると思うが、熱いのをこらえたり神経を使うと、胃をやられる。それに、あれほど赤いのを見ていたら目も悪くなる。微妙な色の差を見分けているわけだから、目にいいことがないのは当たり前よねえ。」
 「(**さん)鍛冶屋いうのも神経使いますよ。一番はやっぱり鋼つけるときと焼き入れじゃなあ。焼き入れでちょっと温度上げたら、すぐ疵(きず)になって折れるけんな。そうなったら終わりよ。温度が上がっとるかどうかは色ですね。それを見分けないかんけんな、やっぱり目が大事じゃなあ。目はええ方で、若いときはかなりやってもどうっちゃなかったけど、今はやっぱり目が疲れるなあ。刃先研ぐときもやっぱり目疲れるなあ。切れ物は目が衰えたらいかん。わしらももういつまでやれるやら。」

 エ 鍛冶屋の心

 「(**さん)職人というのは、うまくなるかどうかは、本人の努力もあるが、やっぱりもって生まれたものが左右するね。器用でないと、なかなかものにならん。それと、損得の計算を先にする者はいい職人にはなれないねえ。1日に三つするものを五つしようと、どうしてもそういう計算になっていくから、仕事が雑になっていくわな。そうすると、あそこのは切れる切れん、ここのは使い具合がいい悪いということで、いい鍛冶屋、悪い鍛冶屋というのが当然出てきますわいね。
 職人にとって大事なのは、その仕事が好きということよ。これに徹しますよ。好きであれば、熱心にやる。なんでもいっしょでしょ。職人には形のないものから形を作っていくというおもしろさがありますよ。少しでも人よりええものをつくってやるという意欲とか、いろいろなものがあるわけやけど、結局は好きでないとだめだろう、職人てのは。仕方なしにやるんではものになりませんよ。
 鍛冶屋をやってて、気にいったようなええもんこしらえたときは、そら、喜びも少しはありました。お百姓さんから『あれはよう切れたかいのう。よかったかいのう。』と言われると、やっぱり悪い気はせんけどねえ。自分が作ったものを大事に使うてくれてるとか、そういうものがあるわな。けど、それも自分がそう思うとるだけの、ほんとにささやかなものであって、人に言えるほどのものではないわなあ。芸術家だと作ったものがずっと残るけど、職人の世界では残らんからねえ。」
 「(**さん)作業場には神棚を作っている(写真2-2-24参照)。鍛冶の神様で、昔から『かなみこ天神』(天目一箇神(あめのまひとつのかみ)(*18)のことか)と言っている。昔は、12月8日には『ふいご祭り』というのがあり、神棚にお神酒や重ね餅(もち)、お米を供えたり、仕事を休んで、親兄弟や近所の人をよんで飲んだり食べたりしたが、今はしていない。正月と盆とふいご祭り以外は年中無休だった。
 鍛冶屋の世界では、仕事場にはきたないものや汚れたものは一切入れたらいけないとか、一番大事な鉄床(かなどこ)の上に足をかけたり、腰をかけたらいけないとか言われている。また、昔は女の人は一切仕事場に入れさせなかった。今はそんなことも言っておられないが、それでも半分から奥(横座やホド、鉄床などのあるところ)は遠慮してもらっている。
 今でもときどき、農家から『これはぐつ(調子)いいので、直してや。』と言って鍬の修理を頼まれることがある。昔自分が作った鍬がもどって来たりすると、こいつはこうじゃったものよと当時を思い出すし、きれいにちびてもどったら、『おおこれはうまい具合いたもんじゃのう。』と満足する。逆に、いがんだりもげたり(とれたり)したものや、荒っぽく使われて、どこかに放っておかれたようなものはいい気はしないね。自分が一生懸命作ったものをていねいに使ってくれているとやっぱりうれしいね。
 一番喜びを感じるのは、できあがったときだろうかねえ。鍬でも何でも、その日によってできが違う。順調にいく日は気持ちよくいくが、気分が荒れていたり、落ち着かないと、まともにはいかない。自分の思ったとおりできたときは、気持ちがいい。
 仕事をしだしたら、損得じゃなくなるけんねえ。何時間でなんぼやらんと収支があわんという問題じゃないんですよ。やりだしたら、あとはもう、きれいにできるかできんかですよ。一生懸命やりだしたら、銭金(ぜにかね)の世界じゃなくなるねえ。」
 「(**さん)今は、時代が時代で、もうけ主義になってしもて、職人気質いうのはおりませない。昔は、もうけは別にして、切れ物作るいうたら、切れさえすりゃあよかったのやけんな。わしらもそれ習うとるけんな。やる以上は切れる物作らななあ、がんこな人間は。田舎では、もうけ主義だけいよったら、うちらも続いてないけんなあ。あそこはいけんいわれるようになったら終わりじゃなあ。人様から金もらういうたら、よっぽど自信のあるもん作らな、いけませんけんなあ。」


*11:戦前から「尋常小学校唱歌」として歌われ、戦後も文部省の「学習指導要領」で小学校音楽歌唱共通教材(4学年)と
  なっていたが、昭和55年(1980年)施行の「学習指導要領」で削除された(⑥)。
*12:古来、わが国で生産されてきたきわめて純度の高い鉄。一般に「たたら製鉄」とよばれる、粘土で築いた炉で砂鉄を原
  料とし、木炭を燃料に用いて、ふいごを送風動力に使用して製錬された。出雲地方(島根県)の特に斐伊川流域は、古くか
  ら優秀な真砂砂鉄が豊富に産出したこともあり、玉鋼の産地として知られているが、反面、製鉄地域の下流域では、製鉄に
  使われる木炭の生産のため森林が濫伐されたり、砂鉄の選別のため大量の土砂が川に流されたことから、河川のはん濫が頻
  発した。出雲地方に伝わる八岐大蛇(やまたのおろち)の神話は、こうした上流の製鉄業集団と下流農耕民の抗争の物語とも
  考えられる。
*13:向かい鎚、相鎚。弟子が師匠と向かい合って、互いに鎚を打つこと。
*14:一般には、ホド(炉、火床、火袋)の横に床を広さ半間(約90cm)四方、深さ50cm程度掘り下げたスペースで、ここ
  に入って打ち鍛える作業をする。
*15:鉄や鋼をホドの中で熱し、中心部までじっくり熱を加えること。
*16:3本の鍬先のうち、まん中のもの。両側のU字形をした部分が親。
*17:分子式H₃BO₃。うがい薬、防腐、消毒、軟膏製剤などに用いられる。
*18:金工鍛冶の祖神。天照大神が天岩屋戸に隠れたとき刀や斧を作ったといわれている。ギリシャ神話のキプロスをはじ
  め、鍛冶の神は世界共通して一眼であることも興味深い(⑦)。

図表2-2-5 城川町周辺の鍛冶屋の分布

図表2-2-5 城川町周辺の鍛冶屋の分布

電話による聞き取りをもとに作成。○は、平成6年の電話帳には出ているが、現在(平成9年末)すでに廃業しているところ。

写真2-2-22 割り込み

写真2-2-22 割り込み

上が鋼、下が軟鉄。平成9年12月撮影

図表2-2-6 **さんの作業場の略図

図表2-2-6 **さんの作業場の略図


写真2-2-24 **さんの作業場にまつられた神棚

写真2-2-24 **さんの作業場にまつられた神棚

神棚の中には天目一箇大神の、また、柱には防火の神とされている愛宕神社のお札がはられている。平成9年11月撮影

写真2-2-25 玉鋼

写真2-2-25 玉鋼

**さん宅にて。平成9年11月撮影