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愛媛の技と匠(平成9年度)

(1)瓦とともに歩んで

 **さん(越智郡菊間町浜 昭和12年生まれ 60歳)
 菊間の瓦業者の家に生まれた**さんは、高校を卒業後、家業を継いで瓦を焼き始め、以後一貫して菊間瓦とともに歩んできた。昭和55年(1980年)菊間町窯業協同組合(*1)(以下、組合)が結成されると、専務理事、理事長の要職を歴任し、菊間瓦の発展に尽力した。瓦業をやめた現在も、今年(平成9年)7月にオープンした「かわら館(*2)」(口絵参照)を拠点に、菊間瓦と深くかかわりながら町の活性化に努めている。

 ア 4代目奮闘記

 (ア)瓦屋を継ぐ

 「わたしの家は代々の瓦屋で、『畑田屋』の屋号で通っている。本家筋はもう10代に余っていると思うが、分家してからでも、わたしが4代目になる。
 菊間の瓦業は昔から家内工業で、家族が全員でやっていたので、わたしも物心ついたときには、窯(かま)の端で真っ黒になって遊んでいた。本格的に瓦を始めたのは高校を出てからである。瓦づくりで一番むずかしいのは、焼成(しょうせい)のときの窯の火の色を見ることだが、それ以外の窯詰めなどはちょっと慣れたらすぐできるので、最初は主にそういう作業をさせられた。窯の火の温度は、親父(おやじ)がやるのを端で見ながら覚えていったが、このくらいでいいというのがわかるようになるのに5年くらいはかかる。ただわたしの場合は、21、2歳のとき、焼成の途中で親父が倒れてどうにもならなくなり(腎臓結石のためで、数日後には回復)、自分が見覚えでやったのが初めての窯たきとなった。親父が倒れたのが窯止めの直前だったので、なんとか製品になった。
 親父から代を譲られたのは、四十前くらいだったと思う。」

 (イ)販路を広げる

 「わたしがこの世界に入った昭和30年(1955年)ころは、あまり景気がよくなかった。菊間瓦の場合、お得意は広島県が主だが、戦後の復興時には大阪方面にものすごく出荷されていた。昭和30年ころというのは、その大阪が復興してちょうど波が収まった時期で、阪神へはあまり行かなくなっていた。広島、岡山などの中国筋を中心に、販路を九州の方へ向けていた時期のように思う。
 菊間の場合、昔は瓦屋と施主(せしゅ)さん(建築主)の直接契約だったので、施主さんが『いついつ家を建てるんじゃが。』とわざわざ瓦を買いに来ていた。施主さんも大工さんに紹介されて来ていたのだから、大工さんさえつかまえておけば何とかなった良き時代だった。しかし、わたしらが継いだころは、もうそういう殿様商売の時代ではなくなっていて、こちらの方からセールスをしないといけなくなっていた。親父からよく『瓦屋いうんは、10年よかったら、10年は悪いんじゃけん、まあ10年辛抱したらなんとかなる。』と聞かされていたが、昭和34年(1959年)に伊勢湾台風(*3)で名古屋近辺の瓦産地(三州(さんしゅう)瓦の産地として愛知県高浜市などが有名。図表2-2-3参照)がやられて仕事が忙しくなった。
 昭和40年代の中ころになると、ライバルの淡路瓦が、『菊間に追いつき、追い越せ』と、大阪商人の資本で機械化を進めた結果、あまり菊間瓦と品質が変わらなくなり、淡路の方が輸送コストがかからない分だけ有利になって、京阪神の市場は淡路に取って代わられた。ガス窯ができてからは特に技術の差が問題にならなくなって、その傾向が強まったように思う。
 親父の代はずっと一般住宅用の瓦をやってきたが、わたしの代になると、たまたま広島県のお寺専門の屋根ふき職人と知り合いになった関係から、お寺専門にやるようになった。神社や仏閣で使う特殊な瓦は残品が出ると利益率があまりよくないので、菊間ではあまりやる人がいなくてわたしのところの仕事が増えたことから、親父が持っていたお得意さんをよその工場に渡してしまった。しかし、そのため一般住宅に帰ろうと思ったときには、お得意さんがいなくなっていて、ちょっとしんどかった。仕方がないので、お得意さんの開拓にこちらから出かけていって、親父の代からの付き合いでなんとか仕事をもらえた。」

 (ウ)瓦をやめる

 「平成2年秋の台風19号のとき、高潮で工場が水びたしになり、窯も製品も半製品も水につかってしまい、工場を再開するにはかなり金がかかるということで思い切って廃業した。
 わたしが始めたころは、菊間町に瓦屋が70くらいあったと思うが、少しずつ減ってきている。一般建築が瓦を使わなくなってきているので、これからもある程度は減るとは思う。製瓦業は利益率が低いので、子供に難儀させなくてもいいという考え方が広がり、無理に継げ、継げとも言わなくなった。わたしのところでも、長男が手伝ってくれていたが、本人も将来の見通しがつかなかったようで、東京の方に出ていってしまった。わたしも継げとも言わなかった。」

 イ 菊間瓦、昔、今

 (ア)家内工業としての製瓦業

 「菊間では、粘土から瓦の形を仕上げるまでは職人さんの仕事で、それを窯に詰めて焼くのは親方の仕事とはっきり分かれている。
 昭和30年(1955年)ころ、わたしのところには、荒地(あらじ)を作る下手間(したでま)が1人、地瓦(じがわら)をプレスして磨く上手聞が2人、軒(のき)瓦、棟(むね)瓦などを作る役物師(やくものし)(道具師)が2人いた。鬼(鬼瓦)を作る鬼師(おにし)は、現在は自分で工房を構えてやっているが、当時は何軒かの工場を回って鬼を作って焼いていた。大きいお寺などを請け合うと、何か月も鬼師が来て鬼を作っていた。
 わたしのところは、父と母とわたしの3人で窯の方(焼成、荷造り)をやっていたが、忙しいときには『小大工(こだいく)』とよばれる手伝いの人を臨時に雇った。小大工は職人になる前の若い人で、窯の方を手伝う合間に工場で職人の手伝いをして、技術を習ったりした。当時は下手間なら下手間で一生終わる人もいたが、最近は人手が少なくなり、下手間も上手間も役物もやるという人が多くなった。ただやっぱり役物師はかなり技術がいるので、だれでもなれるというわけではなかった。賃金は出来高制だったから、役物師は稼ぎもよかった(*4)ようだ。職人さんはあまり工場を渡り歩くということはなかったが、下手間の人などは一つの工場では仕事がないということで、二つの工場を掛け持ちでやるような人もいた。
 契約は、盆や節季(せっき)(年末)が来たら『やらせてくれるか。』『来てくれるか。』というような盆・節季契約だった。今は、賃金もだいぶん変わってきて、月給制になっているところもあるが、小さい工場ではまだ出来高制のところもあるようだ。」

 (イ)瓦業界の現状

 「菊間の場合は、地元の粘土が早い時期に枯渇(こかつ)し、今は丸亀地方の讃岐土(さぬきづち)を入れているが、土は重たいから輸送コストがかかるので、よその産地と競争していく場合はしんどい。菊間瓦では、原料が輸送費を入れると約20%、燃料費がやはり約20%、人件費も20%くらいかかり、あと諸経費を考え自分たちの労賃を計算すると、赤字が出るくらいではないかね。それに瓦の場合、ここしばらく単価が上がっていない。逆に下がっているような状況じゃないかね。だから、淡路や三河(みかわ)(愛知県)などの大産地では、経営の大型化、合理化、機械化などで生産コストを下げるのに必死になっている。工程もコンピュータ制御でライン化されて、ダンプカーで泥をうつすと、あとは、土練(どれん)(土練り)、成形、焼成、結束まで自動化されている。
 瓦は素人(しろうと)目には、プレス(機械)で抜いてそのまま焼いても、1枚1枚ていねいに仕上げて焼いても、あまり違いはわからない。ほんとうはプレスで抜いたままの瓦は苔(こけ)がつきやすいんだが、そんなことはみんな知らない。そうなると、人件費がかからないプレスでやっただけの方でいいということで、コストダウンにつながってきたわけで、菊間の場合は、こうした動きに乗り遅れたということよ。菊間の瓦が他産地の瓦よりも高いのは、それだけ手をかけているのだということを、もっとはっきりと言えばいいのだけれどもね。
 もう一つ、菊間の場合は昔から地瓦よりも単価が高い役瓦(軒瓦や棟瓦など)で、何とかカバーしているようなところがあった。だから、入母屋(いりもや)造り(*5)のような役瓦の多い家をやってもらうと瓦屋にはいいわけだけど、今は簡単な切妻の屋根ばかりで、あまり利益がない。わたしが組合の理事長をやっていたころは、『なんとかして利益率を上げて、屋根で一番たくさん使う地瓦だけ売って飯(めし)が食えるようにせないけまいが。』と言っていたが、結局それはできなかった。同じころ、『今の形では、後継者もできないし技術も上がらないので、協業化をしよう。』という話も出たが、月産30万枚の工場をやるのに10億円くらいかかるということで、今ここで投資して果たして元がとれるかというような話になって、まとまらずじまいになっている。自分のお得意を全部出してまで協業化をやることはないという考えもあったようだ。」


*1:菊間瓦に関する協同組合は、現在、二つある。一つは、菊間瓦工業協同組合(昭和47年設立)で、共同施設による荒地
  の供給を主目的にしている。もう一つが、菊間町窯業協同組合で、新製品の開発、技術研修、労務対策、先進地視察など、
  ソフトの事業を積極的に展開している。
*2:JR菊間駅の東にあり、菊間瓦をはじめ、全国各地の瓦や瓦に関する資料を収集展示している。なお、かわら館周辺は、
  「瓦のふるさと公園」として、町の特産品である瓦をベースに、ふれあい広場やローラーすべり台、展望時計台、実習館な
  どが整備されており、菊間瓦とふれあえる場となっている。
*3:昭和34年の15号台風。9月26日潮ノ岬(和歌山県)付近に上陸したこの台風は、伊勢湾に高潮を引き起こし、愛知、三
  重の両県で4,624人の死者、行方不明者をだした(全国では5,101人)。
*4:瓦工は専業者が少なく、農閑期の余剰労働力に期待することが多かったので、農業との兼業を可能にするため出来高制が
  とられた。昭和26年(1951年)改正の賃金表によると、瓦100枚につき、土練44.82円、荒地33.62円、のし瓦574.75
  円、小巴付唐草瓦1,161.97円などとなっている(①)。
*5:屋根の形の一つ。寄棟(棟の四面に屋根をつけたもの)の上に切妻(屋根を棟から両側に下ろし、両端[妻]を切り落と
  したもの)をのせた形のもの。

図表2-2-3 全国の主な瓦産地

図表2-2-3 全国の主な瓦産地

かわら館展示資料をもとに作成。