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愛媛の技と匠(平成9年度)

(2)讃岐土を運び続けて

 **さん(越智郡菊間町浜 大正8年生まれ 78歳)
 **さんの話にもあったように、現在菊間では香川県丸亀市周辺で採れる讃岐土を購入して瓦を製造している。**さんは、戦後20年近くにわたって機帆船を駆って、丸亀から菊間まで土を運び続けた。

 ア 土を買う

 「父が石炭船を持っていたので、小学校がすむと父の船に乗るようになった。瓦の土を運び始めたのは終戦後、昭和21年(1946年)からだと思う。当時の船は機帆船で、1杯でだいたい1万3千貫(約49t、1貫は3.75kg)の土が積めた。わたしのところはお得意の瓦屋さんが4、5軒あり、それぞれの瓦屋さんに年に3杯くらい土を運んでいた。船1杯の土は一つの瓦屋さんに全部売るのが普通だが、粘土を置く『ねってつ場』(泥場)が空になってなくて、全部揚げきらないときには、半分ずつ分けたりもした。これを『分揚(わか)げ』というが、わたしは全部揚がるのを見越して買ってきていたので、分揚げをやったことはない。わたしの場合、瓦屋さんの泥場がすいたら、大阪の方へ瓦や箱板を積んでいった帰りに、丸亀から土を積んで帰っていただけで、土専門というわけではなかった。
 土は『買い積み』といって、丸亀でただ1軒の粘土専門の問屋からわたしがじかに買った。土を掘るのは別の業者で、いい土が出そうな田んぼを請けて(地主と契約して)、四つ子という特別頑丈な鍬(くわ)(四本鍬)で田んぼをおがして(表土をはいで)下の粘土を掘り出し、それを馬車を持っている出し子に港の土場まで運ばせて問屋に渡していた。土場からは問屋専属の仲仕が船に積んでくれた。船は、積んでもろてなんぼじゃけんね。
 問屋が買う土の量は、終わりころには、看貫場(かんかんば)を作って馬車ごみ(ごと)乗せ、重さを量って風袋(ふうたい)を引くようにしたが、初めごろは1台だけ計算したら、あとは何台来てもめっそ(目見当)で通していたのだから、考えてみたら危ない商売だった。船の方はいつものことだから、量らなくても入れ塩梅(あんばい)(積み具合)でだいたいわかった。
 土には等級はなく、質は良かったり悪かったりだった。日和(ひより)が続き船があまり行かないときは、土場にたくさん出ているので、いいのを選(よ)って積んだ。雨の多いときなどは、田んぼから出るのを待って積んだので、選るということはできなかった。値段は決まっていたが、年分(定期的に)行く人には、少しよけいにというようなサービスがあった。」

 イ 土を下ろす

 「土を下ろすときは、菊間の仲仕の組合に言っておくと、手配をしてくれた。瓦屋さんは全部海岸にあったので、船は瓦屋さんのすぐ下に着けた。菊間の海岸は砂浜なので、潮が満ちないと船を着けられないし、干(ひ)くまでに揚げきらないと船の底がついてしまうので、一潮でやれるように、人数の割り当てや作業の段取りも組合の方でしてくれた。船から海岸までは、間に『馬(うま)』を立て、その上に『あゆみ』をかけて作業をした。馬は、木でこさえた(こしらえた)鳥居みたいなもので、瓦屋さんの浜に行くと、松の木でこさえたのが普段から必ず立っていた。大きさは、上の方が4尺(1尺は約30cm)、下の方は1間(6尺)くらいだったかね。高さは、傾斜がつくから場所によって多少違うが、砂浜からだとわたしらの背丈よりは高かったから、1間から高いところで10尺くらいかねえ。あゆみは、幅が1尺くらいで、その上を仲仕が二つのもっこに粘土を一杯入れてさすで運んで、瓦屋さんの泥場に移してくれた。船と海岸が遠いところは、あゆみの数も多かった。
 わたしの船は1万3千貫くらいの土が積めたが、小さい船は7、8千貫から1万貫くらいだった。昔は泥場がせば(せま)かったので、船も小さくてよかった。当時は讃岐土は、のりや粘りのかわりに島土(越智郡の島しょ部の土)に混ぜるというくらいだった。みんながええ瓦作るのに讃岐土をよけ(たくさん)使いだして、泥場を広げたようだ。島土はそれ専門の船があったので、わたしらは運んでいない。島の船が来ていた。」

 ウ 土を見わける

 「土のよしあしはやっぱり粘土の質次第。粘りのある、あくのない、瓦に向いている土がいい。慣れない人は、土を手にとって水につけて粘りを見ていたが、慣れると見ただけでわかる。中にはあくが出るのがある。そんな土は焼いて屋根に上げると色が狂う。あくのない、ええ土はなかなかないのよ。土を選ぶのもむずかしかった。
 丸亀の土も、わたしらの行き始めのころには、お城(丸亀城)の下あたりを掘っていていい土が出ていたが、やがて町が広がりはじめ、掘れる田んぼが奥(内陸部)へ行くにつれて、だんだん悪くなった。それに奥へ行くと、前には1日に二返り(2往復)くらいできたのが、一返りくらいしかできなくなり、出し子は仕事がよけできないから、運び賃が高くなった。わたしらがやめるころは、かなり奥の方から出してきていたからねえ。
 田んぼも、同じとこは何十年かしないと土ができないので掘れない。昔は20年に1回くらい採っていたそうだが、最近は掘る区域がせばなって、年数をおかずに掘るので、土が悪くなったように思う。まあわたしらが行っていたのは、何十年も前の話じゃけんねえ。
 わたしが土を運んでいたのは昭和37年(1962年)ころまでで、その後2、3年してトラックに替わったように思う。わたしらが土を運んでいたころと比べると、瓦屋さんも減った。後継者がいないのと、やっぱり売れなくなったというのもあるのかねえ。」