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愛媛の技と匠(平成9年度)

(2)守り続けた昔ながらの味①

 ア 向学心を支えた労研饅頭

 **さん(松山市勝山町 昭和5年生まれ 67歳)
 **さん(松山市勝山町 昭和11年生まれ 61歳)
 「ロウケンマントウ」、いかにも武骨な名前である。昭和初期、夜学生に学資をと松山でもつくりはじめられた饅頭で、今も手づくりの温かさと素朴な味を伝える。平成3年には**夫妻の手で『労研饅頭と共に60年(⑱)』の記念誌を発行した。饅頭づくりの経緯や、その後の取り組み、製造の苦心などを夫妻に語ってもらった。

 (ア)夜学生に学資を

 「わたし(**さん)の父は、労研饅頭が松山で誕生した当初から深くかかわっていました。父は病気のため軍人を退役した後、両親が熱心なクリスチャンでしたので、その関係で松山夜学校(現在の松山城南高等学校)に就職して数学を教えていたようです。
 父が労研饅頭の製造販売を始めた昭和6年(1931年)は、世界恐怖の波をかぶり、町に失業者があふれる不景気な時代でした。
 当時、倉敷労働科学研究所長暉峻義等(てるおかぎとう)(*26)(1889~1966年)博士は、日本の食糧問題に深い関心を持っており、中国東北地方(旧満州)の人たちが常食としていた饅頭をもとに、日本人の主食代用となる食べ物をつくろうと考えました。そして、饅頭製造に慣れた中国人を呼んで研究を重ね、苦心の末、日本人に親しみのもてる味や形の労研饅頭をつくることができました。最初は、家庭で製造ができるようにと製法を公表しましたが、家庭での少量の製造は不経済で、また困難なことが分かり、希望者にその製造法を講習した上、製造販売権を与えることにしたのが、昭和4年(1929年)のようです。
 父は、向学心に燃えながら就職口がない夜学生に、学資を与える事業はないかと捜していた時、伝道のため松山にきていた牧師さんから、倉敷労働科学研究所で労研饅頭を売り出し好成績をあげている話を聞きました。校長・教頭に相談した結果、一応視察することに決定して倉敷市(岡山県)に行き、新しい食べ物である饅頭についての話を聞き、製造の方法を見学しました。
 父は、夜学校奨学会の一事業として労研饅頭の製造販売を始めてはと提案して、学校の関係者の承諾を得ました。父が総責任者になり、菓子製造の経験のある、後にタルト製造を始めた**さんが製造主任になりました。昭和6年(1931年)に**さんは倉敷に行き、そこで製造技術を学びました。かれは熱心に努力したので、短期間に技術を習得して帰りました。
 やがて、夜学生15、6人が、学校の寮を工場にして製造を始めました。父は全くの素人でしたので、最初の2、3年は、**さんは製造だけでなく販売面も一任されて、大変苦労されたようです。奨学会事業部の事務を担当していて、後に**さんと結婚した**さんは、そのころの様子を、『酵母の発酵具合を知ることが非常に難しく、それが製品の出来不出来に関係するらしく、そのために徹夜で懐中電灯の光で研究に頑張っていました。また当初は、労研饅頭の知名度は低く、売れ行きが思わしくないので、車を引いて幟(のぼり)を立て、夜学校の校歌を大声で歌いながら宣伝をして、売っていたようです。』と、当時の**さんの苦心のほどを話されています。やがて、4個が5銭と、安価で腹もちが良いことから真価を認められ、松山市内の旧制中学校の売店や松山歩兵第22連隊(松山市堀之内を原隊とする郷土連隊)に卸すようになったようです。
 『お金のないときに、いつも世話になっていた。』と、当時の学生さんから今でも手紙をもらいます。また『東京などに行くとき、労研饅頭を土産に持っていくと一番なつかしい味だといって喜んでくれる。』とも聞きます。」

 (イ)酵母を受け継いで

 「昭和10年(1935年)、奨学会の行き詰まりから、労研饅頭の製造販売を父が引き継ぎ、勝山町の現在地に家屋を建て、個人経営で再出発しました。夜学校を卒業した学生たちがそのまま従業員になりました。
 昭和11年ころ、倉敷労働科学研究所指定の製法により、同所より分譲された酵母を使用しその監督を受けて製造している店は、1地方に1軒で全国に37店ありました。当時、労研饅頭は評判になり、ある地方では偽物まで販売されたようです。労研饅頭の名称は、最初に始めた暉峻さんが、労働科学研究所の名にちなんでつけたようです。現在(平成9年)、労研饅頭の名称を正式に使って、酵母を受け継ぎ製造している店は、全国でうち1軒です。
 第二次世界大戦中、小麦粉は統制品となり、昭和18年(1943年)には製造休止に追い込まれましたが、父は戦時中も酵母をずっと保存し続けていました。幸い、昭和20年の松山市の空襲にも戦災を免れ、労研饅頭の酵母は無事だったので、この年、製造販売を再開することができました。酵母は、毎日、栄養源の小麦粉を水でこねて次ぎ足してやれば、生き続けているわけです。今も、加工した生地を少し残して、次の仕込みのときに使うわけです。
 戦後は委託加工といって、お客さんが持ってきた原料で、加工賃をもらって製品をつくっていました。この委託加工をしていた戦後すぐの食料難の時代は、自由販売のできない時代で苦労もありましたが、結構忙しい日々でした。
 父と一緒にやっていた長兄が、戦病死していたので、父の意志を継いで、昭和29年(1954年)に、わたしが2代目を継ぎました。昭和37年ころから、他においしいものが出だし、洋菓子ブームで労研饅頭の売れ行きも悪くなり、一時衰退した時もありました。洋菓子全盛時代、わたしの家も洋菓子職人を入れて、クリスマスケーキや洋菓子もつくっていました。昭和55年(1980年)ころから、また自然食が見直され盛り返してきました。大きな起伏がありましたが、それでもお客さんは、根強くついてきてくれました。昭和57年、三越松山店の改装や大街道アーケードが完成した時期は、よく売れていました。昭和59年にテレビで紹介され、全国あちこちから労研饅頭を送って欲しいと電話や手紙で注文があり、宅急便で送り始めました。」

 (ウ)酵母を生かす技

 「労研饅頭づくりの手順ですが、主原料の小麦粉は、こしのある中力粉を使います。前日の夜に、小麦粉を水で練り、酵母を入れて、20℃で最低約7時間寝かせて発酵させ、生地をつくります。生地の固さは、うどんの生地くらいの固さだと思ってください。発酵した生地に翌朝、上白の砂糖を少量加えて、ミキサーで砂糖合わせをします。それに、豆とかあんを包み、成形してせいろで蒸すのが10分間です(写真1-1-20参照)。蒸しますと、成形したときの約2倍に膨らみます(写真1-1-21参照)。
 労研饅頭づくりの苦心するところは、酵母を使っての生地づくりです。酵母の発酵作用に任せる自然の物ですから、発酵の時間が必要で、普通のお菓子のようにその場で練ってすぐ成形して焼くという具合にはいかんわけです。毎日の製造の時間に、酵母の発酵具合の一番よいときを合わせるのに苦労してきました。
 生きている酵母は、温度に敏感です。冬は湯で仕込み、保温用の箱の中にストーブを入れて保温しないと発酵しません。夏は、30℃にもなると発酵し過ぎるので、冷蔵庫に入れて、夜間に出したり入れたりして調節するのです。発酵も時間の進行に並行して進むのではなく、後の方で急に発酵が進むのです。恒温(こうおん)の設備の部屋がないから、毎日の温度や気温の変化に合わせて、勘で管理をするのです。発酵がまだ若いとき(十分でない)には、蒸しても生地がよく膨らみません。しっとりと木目(きめ)が締まっているのが労研饅頭の特徴ですが、発酵し過ぎると、蒸したとき膨らみ過ぎてこしがなくなり、すかすかになって食べたときのしっかりした歯触りが損なわれます。味も酸味が出て酸っぱくなります。酵母のつくり出す自然の味を引き出すことで、労研饅頭のこしこし(しこしこ)する歯応えと素朴な味覚が生まれるのだと思います。
 今は、製造する饅頭も14種類になります。塩味の黒大豆を入れたものが労研饅頭の原形で、これを食べた人は、昔の味だと懐かしがってくれます。生地にヨモギを混ぜてみたり、中にあんを入れたりしています。あんもいろいろ種類があり、生地に色を付けているのは、中のあんの区別をするためです。一番よく売れるのは、甘い煮豆のようなうずら豆(大正金時)を入れたものです。ヨモギも自家製のものが味も色もいいので、季節には郊外に摘みに行き、ゆでて冷凍しておきます。伝統の味を残しながら、他方、時代の要求に応じた、お客さんの好みにあったものをつくっているのです。」
 「(**さん)主人は『製品は、ちょっとしたことで味が違う。気が抜けない。』と言って、いまでも夜中に何回も酵母の発酵具合をみているんですよ。
 わたしは、なにも知らないで嫁いできましたが、毎日毎日つくっては売る製造の忙しさを肌で体験しました。支店に製品が間に合わなくなると、自転車に乗って運んだりもしました。従業員が休むと、工場にも出ました。どちらかといえば、会計の問題とか人の問題で苦労しました。主人とは二人三脚、車の両輪ですから、どちらが倒れても傾きますので、健康でやってこれたことが幸いでした。先代から、派手な宣伝はしませんが、口コミでやってくるお客さんも多いし、労研饅頭には、飽きない、なにかしらまた食べてみたいような味があるらしく『素朴な懐かしいふるさとの味だ。』と言って、何十年も買ってくださる戦前からのお客さんもいるんですよ。お陰様で、3代目の息子も店を継ぎ、若い学生さんやOLの方にもどんどん食べてもらって、みなさんのふるさとの味になってもらえたらと頑張ってくれています。」
 戦前各地に広まった労研饅頭も、今は松山市だけに名を残す味となった。

 イ 湯の町の手焼き煎餅(せんべい)(*27)

 **さん(松山市道後湯之町 昭和24年生まれ 48歳)
 **さん(松山市道後湯之町 昭和28年生まれ 44歳)
 松山出身の俳人正岡子規(*28)(1867~1902年)の病床日記『仰臥漫録(ぎょうがまんろく)(*29)』の中には、「秋もはや塩煎餅に渋茶哉」の句をはじめ、道後煎餅2枚食うなど、この煎餅の名が度々登場している。東京で病床に伏し、病状の進んだ子規にとって、まさにもう帰ることのできない懐かしい故郷の味だったのだろう。
 道後湯之町でこの名物煎餅をつくり続け、老舗(しにせ)の心を伝え続けて4代目にあたる**さん夫妻は、今も頑固なまでに1枚1枚手焼きにこだわり、伝統の味と手法を守っている。二人に、この煎餅づくりへの思いを語ってもらう。
 「創業は、明治15年(1882年)で、初代が道後温泉の玉の石(道後温泉にまつわる少彦名命(すくなひこなのみこと)の伝承から生まれた石)を模して、『玉煎餅』をつくったのが起こりです。長らく『道後煎餅』として親しまれ、一時は、道後温泉本館のお茶菓子として入浴客に出されていました。昭和26年(1951年)に『温泉煎餅』と改称され、手間が掛かるため戦後中断していた塩煎餅も、創業108年目の平成2年に『潮(うしお)』の名で復活しました(写真1-1-22参照)。
 わたし(**さん)は、昭和44年(1969年)から父のもとで煎餅を焼き始めました。初代から変わったものといえば、煎餅を焼く燃料だけです。炭からコークス、やがて練炭になり、昭和30年(1955年)以降はガスを使っています。小さい子供時分から見よう見まねで自然に覚えているところもありました。それでいて、実際に責任をもってやり始めてみると、なかなか大変でした。最初は、水ダネを溶くのと、焼き上がった煎餅の1枚1枚の色をそろえるのに苦労をしました。」

 (ア)水ダネづくりの苦心

 「一般に、煎餅には水ダネと固(かた)ダネがありますが、わたしのところの煎餅は水ダネです。小麦粉を、ちょうどコーヒーに入れる生クリームほどの固さに、とろっと溶いたものです。この水ダネは、固ダネよりも機械にかかりにくくて、今も手焼きです。また溶き具合が難しいと言われます。そのためか、水ダネの煎餅を焼く店は、全国的にもだんだん少なくなってきています。
 わたしも、一番苦労したのは、やはり水ダネを溶くことでした。原料の小麦粉に砂糖と卵を混ぜて水ダネをつくるのですが、その分量は、それぞれ同じように計量したものを調合しても、季節やその日の温度や湿度によって、微妙に出来具合が違うのです。その時々の状況に応じて変わらぬ製品をつくるための調整をするのは、全く勘に頼る世界です。その出来具合で、その日の仕事が楽にできるか苦労するかが決まるとさえ言えます。ですから、朝、その日1日使う水ダネを溶く時は、短い時間ですが神経を集中します。この水ダネづくりができたら、1日の仕事の半分はできたと思うくらいです。このときは、わたしの注意力を乱さないため、家族の者は戸の開け閉めにさえも神経を使うと言っているほどです。水ダネのでき具合は、熱した型の上に水ダネを垂らした時の、その広がり、伸び具合で判断できます。水ダネがうまくできていない時は、焼き型の手元の金具を緩めたり外してしまったりして、焼き型の中の圧力を微妙に加減しなければなりません。季節によっても水ダネの伸び具合は違います。夏に比べ、冬の方が伸びやすく、従って仕事の能率も上がります。そのため、1日中焼くと、同じ量のものを焼いても、夏より冬では1時間ほど早く終わるわけです。」

 (イ)色ぞろえの苦心

 「煎餅の焼き型は、手焼き煎餅用の伝統的な鉄製の鋳型を使います(図表1-1-9参照)。まず最初に、この焼き型を熱して油を含ませます。それ以後は、1日中全然油は使わないで焼き上げます。1日の最初に焼き型をどのように熱したかで、焼き型に煎餅がくっついたり、くっつかなかったりするのです。一度くっつくとその日は何度もくっついてしまいます。最初が肝心です。微妙な加減があるのです。
 煎餅の焼き上げに油を使わないのは、油を使うと煎餅が酸化して味が落ちるからです。いつまでも味が変わらないのは、油を使わずに焼き上げるからです。焼き型は、同時に12本を1列に横に並べて使います。右端の焼き型に水ダネを入れガス台に掛けて、焼け具合を計りながら順々に焼き型を左に送っていくのです。一番左側にいくまでにころあいに焼くのです。煎餅の種類によっては、焼き型を何度もひっくり返しながら焼く焼き方もありますが、わたしのうちの煎餅は、途中で一度だけ裏返しにして両面が同じように適度に焼けるようにするのです。一番左端に送られて来た焼き型の煎餅の焼け具合を判断して、焼き型から取り出した煎餅を台の上に載せます。焼け具合は、火加減と焼く時間で判断するのです。焼き型を途中で開けて焼け具合を見たりすると、製品が駄目になるのでできません。煎餅の焼き上がりのタイミングをとらえるのも、全く経験の積み重ねで会得した勘が頼りです。
 焼き上がった煎餅は、まだ柔らかくて、どんな形にもなります。わたしの子供がまだ小さい時、丸めて棒状にしてやると喜んで食べていました。焼き上がった煎餅は、取り出して台の上で冷えると、あのようなパリッとした独特な軽い歯ざわりになるのです。
 煎餅を取り出した焼き型に、また水ダネを入れて一番右側のガス台に載せます。この繰り返しです。1枚の煎餅が焼き上がる時間は、4、5分でしょうか。わたしが煎餅を焼き初めたころは、1枚1枚の煎餅の色合いを同じように焼き上げるのに大変苦労をしました。朝、一度焼き始めてもし途中で火を止めたら、次に焼き上がった煎餅の色が違ってくるのです。だから、昼食は簡単に食べやすいようにスプーンで食べられるものをつくってもらって、仕事をしながら食べるのです。焼き始めると、夏は12時間、冬季は11時間ほども終日焼き続けます。もっとも、盛夏の折の水ダネづくりは品質保持のため、午前と午後の2回に分けて焼いています。1本の焼き型の重さは1.2kgですが、要領よくやっても、終日長時間取り扱っていますと結構力をくいます。わたしの肩や腕の盛り上がった筋肉は、この毎日の焼き型の操作による筋力トレーニングの成果だと家内は言います。
 以前は、煎餅の製造現場を見学できるようにしていましたが、戸の開け閉めなどで風が吹き込むとガスの炎が揺れ、焼き型に当たる火力が違ってきたりします。そうすると、どうしても焼き上がりが違ってくるのです。また注意力も散漫になりがちです。そんなこともあって、現在は、製造現場の見学や取材はお断りしているのです。
 手焼きの煎餅は、一見簡単そうに見えますが、やってみますとなかなか忍耐力と集中力のいる仕事です。」
 「わたし(**さん)の主人は、この仕事を始めてから3年間ほどは苦労したようです。仕事の勘所を押さえることのほかに、仕事の性格から長時間座り続けることの大変さです。胴が痛むと言って胴にさらしを巻いたりもしていたようです。また来る日も来る日も同じことを繰り返すことへの精神的な負担です。結婚したころ『或るとき、仕事中はなにも余計なことを考えないで無になることだと思ってから、気持ちも楽になって、むしろ、仕事に集中できるようになれた。』と、話していたのが、今でも印象深く思い出されます。
 わたしなどが見ると、ほとんど気が付かない、あまり違わないと思うことでも、品質にはとてもこだわります。仕事をしているときの寡黙(かもく)で厳しい表情と、仕事を終えた後の、家庭での柔和な表情とは全く別人のようにさえ見えます。それだけ神経を集中させて仕事に取り組んでいるのだと思います。永い伝統を受け継いできた製品へのこだわりと主人の忍耐力には感心させられます。伝統の味を守っていく大変さと、同時に、その自負心が支えになっているのではないかと思います。」


*26:労働科学、産業医学者、医学博士。東京帝国大学医学部卒業。大正10年(1921年)大原社会問題研究所の医学部門とし
  て倉敷労働科学研究所を設立し、所長となる。労働と栄養の関係の観点から、労働者、農民、開拓民の生活を調査した。同
  研究所は昭和12年(1937年)に財団法人日本労働科学研究所に改組されたのち、昭和16年に産業報国会の組織となった。
  戦後は、再び財団法人労働科学研究所となり、昭和46年(1971年)から川崎市宮前に移った(⑲⑳)。
*27:日本で最初に煎餅の材料と製法が具体的にわかるのは、正徳2年(1712年)ころ書かれた『和漢三才図会』で、これに
  は、小麦粉を糖蜜でこね、蒸籠で蒸してから成形し、乾燥したものを焼くとある。江戸中期以降には、煎餅屋が鋳物師に焼
  き型を注文できるほど鉄製鋳物が安価になり、2本の柄のついた円形、亀甲形などの焼き型がつくられた(㉑)。
*28:新聞「日本」、俳誌「ホトトギス」によって日本派俳句、写生文を首唱するなど近代文学史上に大きな足跡を残した。
*29:子規が死の前年の明治34年(1901年)9月から死の直前まで、俳句、水彩画等を交えて赤裸々に語った病床日記であ
  る。冒頭は、「明治34年9月2日 雨蒸暑」からはじまり、「秋もはや塩煎餅に渋茶哉」を結びに19句を掲げている。

写真1-1-20 せいろで蒸して

写真1-1-20 せいろで蒸して

平成9年9月撮影

写真1-1-21 ふっくらと膨らんで

写真1-1-21 ふっくらと膨らんで

平成9年8月撮影

写真1-1-22 「温泉煎餅」と「潮」

写真1-1-22 「温泉煎餅」と「潮」

玉の石形の「温泉煎餅」(手前)と四角い「潮」。平成10年1月撮影

図表1-1-9 温泉煎餅の焼き型

図表1-1-9 温泉煎餅の焼き型

見学により作成。