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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅳ-久万高原町-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

3 昭和の面河渓観光の拠点、渓泉亭

(1)モダンな洋風旅館

 渓泉亭は、昭和5年(1930年)に面河渓亀腹(かめばら)前に建てられた、当時としては最もモダンな洋館風の旅館である。宿泊用の客室には欅(けやき)、桧(ひのき)、栃(とち)、樅(もみ)、栗(くり)といった面河渓に自生する樹木が部屋名として付けられていた。驚くことに各部屋の扉や柱、調度品は、すべて部屋名の材で統一化粧されていたらしい。最も料金の高い部屋は「欅」だったそうだが、Aさんはそれよりももっと変わった珍しい材を使った部屋を紹介してくれた。
 「2階にアヤの間というのがあります。珍しいヨコグラノキを使った部屋で、アヤというのは方言です。面河渓でもそんなに数がない樹木ですが、これで一部屋全部作っています。材質はケヤキに似て粘り強く、腐りにくい。昔は建築材として使えるような倒れた木をよく見ました。」
 ヨコグラノキはクロウメモドキ科に属する落葉高木で、高さは15mほどになる。現在では面河渓でもほとんど見られない種類で、国民宿舎面河から鉄砲石川キャンプ場へつながるトンネルの出口に大木がある。林道開発の進んでいない昭和初期には現在より普通に見られたのだろう。
 もともとこの場所には、高知出身者が経営を始めた亀腹旅館があったが、地元名士で後に面河村村長(当時は杣川村)となる重見丈太郎さんが買い取り、渓泉亭を新築した。重見さんは渋草で酒造業を営む一方、製茶業やパルプ製材業、更には発電事業にも取り組んだ先進的精神の持ち主だった。当時車が入ることもできない秘境とも言える面河渓に、近代的デザインの建築物を作ったのもうなずける。

(2)渓泉亭の構造

 渓泉亭の経営には主に重見さんの二男であるBさんが携わった。小学校入学までの間、渓泉亭で暮らした長女のCさん(昭和23年生まれ)に、当時の渓泉亭の様子を聞いた。
 「私は小学校に入る前まで渓泉亭に住んでいました。関門から渓泉亭まで車が入る道のない時代でしたから、若山の小学校に行こうとすると危険な山道を30分以上歩かないといけません。そのため1、2年生の間は渋草の叔父の家に移って、渋草小学校に通いました。2年生の途中からは松山に出ました。それ以降は夏休み、冬休みに渓泉亭に帰ったぐらいです。住んでいる時は、この建物がそんなに貴重なものだという意識はなかったです。
 渓泉亭は、中央から向かって右半分を本館と呼んでいました。左半分には従業員の部屋や物置、大広間などがありました。大広間は、お山市(石鎚山の祭礼で7月1日から10日に行われる)の時の雑魚寝(ざこね)で使っていました。本館の玄関の左側には事務室があり、父は夜遅くまでここで仕事をしていました。家族は1階にある風呂の横の6畳ほどの部屋で生活をしていました。本館左部分の2階にはテラスが見えますが、昭和29年(1954年)に改修工事をして新しく部屋をつくりました。シオジとアヤの2部屋だったと思います。テラス部分は広いロビーになりました。村外から職人さんを呼び寄せ、住み込みで作業をしてもらったと聞いています。これで本館部分は現在と変わらない造りになりました。」
 現在、渓泉亭の前には鶴ヶ背橋、そして本流沿いの遊歩道へとつながる道があり、人々は亀腹を仰(あお)ぎ見ながらそこを歩いて奥に入っている。昭和初期にはその道はなく、渓泉亭の建物の一部があった。当時、遊歩道を奥へ進むには本館とその建物の間の小道を通っていたらしい。現在も営業をしている食堂部分は昭和20年代に作られたようで、そのころは壁のない東屋のような作りだった。

(3)渓泉亭の日常

 昭和20年代に渓泉亭に住み込みで働いたDさん(昭和11年生まれ)に、当時の渓泉亭での日常を聞いた。
 「私は昭和25年(1950年)から約5年間、渓泉亭に住み込みで働いていました。お客さんには山菜料理やイワタケなど地元で採れるものを出していました。洗濯や食器洗いはほとんど前の川でしていました。料理で人気があったのはアメノウオです。渓泉亭には専属で魚釣りをする人が数人いました。アメ釣りさんとか魚釣りさんと呼んでいました。他にはイワタケ採りさんもいました。渓泉亭の隣には営林署の事務所が、鶴ヶ背橋を渡った右手側(現在のキャンプ場の横)には職員寮があったので、職員さんがよくご飯を食べに来ていました。
 関門から渓泉亭までの車道ができる昭和30年ころまでは、荷物を背負って届けてくれる強力(ごうりき)のような人が専属でいました。日用品や食料を1日に何回も歩いて運んでいました。車が入らない以上は誰かが運ばないといけませんが、関門の道は危険な岩場でしたから相当の重労働だったはずです。肩に大きなコブができていたのを覚えています。」

(4)渓泉亭のその後

 昭和36年(1961年)、渓泉亭は伊予鉄道株式会社によって買収され、翌年に設立された伊予鉄面河観光株式会社(のちの伊予鉄観光開発株式会社)が旅館業、飲食業、物品販売業に当たった。昭和45年(1970年)には石鎚スカイラインが開通した。世は高度経済成長真っただ中、県内外から大型貸切バスやマイカーがどっと押し寄せ、昭和50年代には観光客数はピークを迎えた。特に紅葉の時期には面河渓から若山にかけて自動車の渋滞はすさまじく、数kmに渡っていたらしい。しかし、次第に旅行形態は日帰りへとシフトし、宿泊客数は減少、経営状況は悪化した。その後、平成14年(2002年)に面河村に寄贈され、宿泊施設として利用されることはなくなった。


<参考文献>
・面河村『面河村誌』 1980
・仕七川村誌編集委員会『仕七川村誌』 1964
・久万町『久万町誌増補改訂版』 1989
・面河村『石鎚の清流郷面河 刻を超えて 面河村閉村記念誌』 2004
・村上節太郎「石鎚・面河地区の人文・歴史」(『日本自然保護協会調査報告 第58号』 1979)
・伊予鉄道株式会社『伊予鉄道百年史』 1987
・財団法人えひめ地域政策研究センター『愛媛温故紀行 明治・大正・昭和の建造物』 2003
・愛媛県史編さん委員会編『愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)』 1983
・菅菊太郎『面子の旅』 1924
・中川愛美『石鎚と面河』 1965