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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅳ-久万高原町-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第2節 昭和の面河渓観光開発の歴史をたどる

 明治30年代、杣川村(そまかわむら)(後の面河村、現久万高原町)で小学校の教職に就いていた石丸富太郎は、早くから面河渓の景観の素晴らしさに気付き、海南(かいなん)新聞(愛媛新聞の前身)に紹介文を投稿していた。明治42年(1909年)、同紙編集長の田中蛙堂(けいどう)はその熱心さに動かされ、松山の優れた詩人・画家・登山家・写真家など9名を誘い、面河渓に探勝団を派遣した。この時の紀行文は、俳句や漢詩、版画などとともに12回にわたって海南新聞に連載された。現在、西日本随一の渓谷美を誇る景勝地として広く知られ、毎年多くの観光客が訪れている面河渓は、今から約100年も前から大々的な宣伝活動が始まっていたのである。
 本節では、面河渓が観光地として本格的なインフラ整備の始まった昭和初期から30年代までに焦点を当て、観光業や道路整備に関わった住民の方々からの聞き取り調査および文献調査により、当時の面河渓観光の様子を探った。