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愛媛の景観(平成8年度)

(2)今に生きる仰西の心

 上浮穴郡久万(くま)町は、郡の北西部に位置し、四国山脈に連なる峰々に挟まれて並行に並んだ、細長い四つの盆地(久万、畑野川(はたのかわ)、直瀬(なおせ)、父二峰(ふじみね))からなる。久万盆地は、久万高原の四つの盆地の中でも最も大きく、人口の集中している地域である。国道33号に沿って、東明神(ひがしみょうじん)、西明神、入野(いりの)、菅生(すごう)、久万、上野尻(かみのじり)、下野尻(しものじり)の集落に分かれている。北西から南東にかなり傾斜している久万盆地を流れる久万川は、三坂峠(みさかとうげ)にその源を発し盆地の中央を北西から南東に貫流し、美川村御三戸で面河川と合流して、高知県で、仁淀川(によどがわ)となり、太平洋に注いでいる(㉒)。
 久万地方は、盆地で地味は肥沃だが、河川は深い溝となっていて平野を潤さずに太平洋に注ぎ、水利の便が悪かった。久万町村(くままちむら)および入野(いりの)村一帯の水田は河床が10mほども低くて水利の便に欠け、西明神村の天丸(てんまる)川を上流でせき止め、かけひ(水を通すために作った竹や木などの樋)を連ねて2村の灌漑(かんがい)用水を得ていた。しかし、岩場が多く不安定なうえ、ちよっとした出水や風にも足場が崩れたり、はずれて流失してしまうなど農民の苦労は絶えなかった。この農民の苦しみを救うため山之内仰西(*24)(?~1698年)は私財を投げ出し人夫を募り、ツチと石切のみで率先して安山岩の岩壁に立ち向かい3年を費やして水路を完成した(口絵参照)。時期は明確でないが、江戸時代の明暦年間(1655~1658年)から寛文年間(1661~73年)ころともいわれている。水路は延長57m、幅2.2m、深さ1.5m、途中10mは暗渠(地面の下に作った水路)になっている。この水路は後世「仰西渠」と呼ばれ、仰西せきから河川水を引込み、接続する大井手(おおいで)水路(仰西井手ともいう)によって、久万川右岸地域に農業用水や防火用水などの生活用水を供給している。当時、25haの農地を潤し、一帯は穀倉地帯になった。西明神から大井手水路は、現在の町役場の近くまで伸び、300年にわたって流れ続け、今も人々のくらしに役立っている。仰西渠は昭和25年(1950年)県の史跡に指定された。国道沿いの久万中学校前に仰西の頌徳碑(しょうとくひ)(写真3-3-21参照)が仰西渠のそばの丘には「仰西渠之碑」が建立され、その徳をたたえている。

 ア 仰西渠と人々のくらし

 **さん(上浮穴郡久万町久万 昭和3年生まれ 68歳)
 **さん(上浮穴郡久万町久万 大正10年生まれ 75歳)
 **さん(上浮穴郡久万町入野 大正14年生まれ 71歳)
 「この地域の年配の人たちは、今でも、仰西渠から給水田に至る用水路のことを『大井手』と言うのです。使える水が豊富で、生活の中に溶け込み、大きな役割を果たしているという意味です。この呼称に、この用水路に対する地域の人々の親しみと敬愛の情がこめられています。
 明神にある仰西渠から、大井手用水路は、槇(まき)ノ川、刈戸(かると)川(カルト川)、風呂(ふろ)川の三つの枝川を渡って、シノ谷(下流はアリノキ谷と呼ぶ)で町役場の近くまで伸び(総延長2,190m)、今も、一年中流れ続けています。大井手と枝川の交差するところは、枝川にせきを作って、用水の水をそのせきへ一度入れて、そのせきから向こう岸の用水路に流れ込ませています。その際、枝川の水も用水路に取り込むことができるのです。水量の増減はあるが、水田耕作期間だけでなく、冬期でも、流水が止められることはないのです。
 市街化が進み、今では大井手周辺の給水地区の変ぼうは著しいものがあります。昔の農道は、多くが宅地や田畑になっています。用水路も、水路の部分そのものは今も全部残されていますが、コンクリートでふたをして暗渠にしたり、用水路の足元のところをコンクリートで固めているなど、昔ながらの石積みの見える所はほとんどありません。
 宿場町的役割をおびて発展してきた旧商店街は、旧国道33号沿いに大井手と離れた久万川よりの東側を通っていました。
 昭和24年(1949年)に新築された久万中学校のあるところは、もとは桑畑で、農事試験場とか仰西の菩提(ぼだい)寺である法然寺(ほうねんじ)(写真3-3-22参照)があるほかは、農家がぼつぼつ建っているくらいでした。給水地区の宅地化は、国道33号バイパスが大井手に並行して山際の給水地区を南北に走った昭和41年(1966年)から始まりました。それまでは、この地区にほとんど民家はなく、大井手の水は水田を中心に利用されていました。バイパスの開通により、下(久万川寄り)にいた人も、よそから来た人もバイパス沿いに家を建てるようになったわけです。
 町役場は大正15年(1926年)から36年間、旧国道沿いにありましたが、昭和37年(1962年)に現在地に移転しました。町民館、久万農業協同組合、久万警察署などもバイパス沿いに出て来て、町の中心街を形成しました。バイパス全線が完成したのは、昭和42年8月でした。以後、バイパス沿いに建った家の数はおびただしく、わたしらが子供のころ、ここにこんなに家が建つとは夢にも思いませんでした。バイパス建設の話が出たころ『山の中に道路がつくんじゃと。』と言っていたくらいでした。
 町全体としては人口が減少しているのですが、この仰西渠の給水地区には逆に人口が集中し、一番大きく変ぼうしています。30年ぶりにここを訪ねて来た人を車に乗せて町内を案内すると、『国鉄駅(現JRバス駅)はどこへいったのですか。こんな道がありましたか。全く浦島太郎ですね。』と言っていました。
 大井手にまつわる思い出もいろいろあります。普通の水路と比べて、仰西渠の用水路は、思ったより太くて充実しています。自分たちの子供の時は、かなりの水量があったので、釣に行ったりもしていました。シジミ、タニシもいました。ドジョウも親指ぐらいの太さのがいて、すぐ近くに住んでいたので、じょうれんを提げて、よくすくいに行っていました。肝臓の悪い人がいたりすると、地元のお医者さんが、大井手に行ってシジミをとってこい、と言っていたのを覚えています。
 大井手の水は今も、灌漑用水に使われるのが主です。稲作中心に使われていたのが、最近ではトマトを中心とする高原野菜の主産地つくりが進められたため、トマト、野菜の栽培にも使われています。上水道のないときは、野菜を洗うのにも使われていました。しかし上水道ができてからは生活用水としての利用は減少しています(写真3-3-23参照)。今は、公民館で取り組んでいる花いっぱい運動の草花や庭木の灌水などにも利用されています。
 水は防火用水としても使われていました。それにまつわる話では、2m近くも積もった昭和38年(1963年)の豪雪の時、水路も雪で詰まっていました。こんな時に火事があったらどうにもならない。消防団で用水路に水を流しながら、詰まっているところの除雪をしようと水を流したところ、なんぼもいかん(いくらも進まない)ところでどんどんあふれて、近くの家屋が浸水する騒ぎもありました。
 大井手の清掃は、農家で作る水利組合の手で春と秋に行われています。また、7月の第4土、日曜日に町内一斉に清掃が行われています。」

 イ 感謝祭は、今も

 「わたしらが子供のころ、仰西さんについて親や近所の大人からよく聞いた話に『その人は、自分のために水を引こうとしてやったけれど、結果として自分の田だけでなく、多くの人が潤うたと言うか、恩恵を受けたんじや。たいしたものだ。しかも、お殿様が褒賞(ほうしょう)してやるといったら、そりゃ、いらんと言ったんじゃと。』『今も、この公民館の辺りの田んぼまで来ている。』、などというのがありました。『明神の向こうからここまで水が来るといったら、とんでもないことじゃないか。』『どんな人物だったのだろうか。どんな、大事業家だったのだろうか。』子供ながらに、思ったものです。また、『この水を引いた田んぼを仰西さんの所有田だけでなくどれもみな仰西田と呼んでいたようだ。』と、この水によってどれほど広い田んぼができたかということを聞かされるし、また、『仰西さんは非常に偉い人で、石粉一升(1.8ℓ)の岩を掘るのに半日を要したといわれるが、米一升とそれを、工事に従事した人に換えてやった。』と言うことも子供のころから聞かされていました。
 小学校に入ると、年1回の遠足には必ず、大除(おおよけ)城(*25)とすぐ近くにある仰西渠に寄って帰っていました。そのときには、先生から仰西さんの話を聞かされました。わたしら、久万の方だから、仰西翁を神様のように慕っていました。真光寺墓地にあるお墓が近くだったので、毎年母に連れられお墓参りに行って掃除をしていました。仰西翁のお墓は、家族の墓とともに真光寺墓地にあり、また、菩提寺の法然寺の境内にも墓碑が建立されています。
 太平洋戦争前は、仰西翁感謝祭として、入野、久万の水利組合や信用購買組合(農業協同組合の前身)の関係者で菩提寺の法然寺へ行って年に1度法事のような行事を続けていました。戦時中一時途絶えていましたが、昭和23年(1948年)正月26日に、戦後第1回の感謝祭を実施しました。それからは対岸の菅生も参加して全町的な取り組みで実施されるようになりました。前日は、お墓の清掃を行い、当日は、慰霊法要と農産物の品評会をあわせて行いました。お米はもちろん五穀(米・ムギ・アワ・キビまたはヒエ・マメ)も、カキ、クリ、などの果物や、野菜類にも等級をつけ、その後、その品々を即売していました。その収益が町民の寄付金に加えられ、仰西さんのお祭りの費用に当てられました。以後、感謝祭は毎年1月26日に行われています。今は、農産物の品評会は中止され、お墓参りと、慰霊法要中心に運んでいます。役員は20人ほどで、会員は町民全部です。寄付は1戸500円程度です。
 仰西さんは、一時期、確かに忘れられていた時もありましたが、今では小学生にも大分理解されるようになりました。久万町教育委員会主催で、仰西祭りにちなんで、毎年町内の小中学生が絵や習字の展覧会(写真3-3-24参照)をやっています。その経費は、地域の募金でまかなわれています。また、郷土読本などを利用しての学習活動もしています。これらの活動によって子供たちの理解は大分進んでいると思います。
 来年(平成9年)は、300回忌の年に当たります。目下、記念誌の作成とお墓の整備や、仰西田跡地への碑の建立などに取り組んでいます。現在、土地台帳の登記簿上で明確になっている仰西田は2反4畝(約24a)ありますが、その田んぼの用水路には豊かな水が流れています。
 また住民有志でつくっている『くまっこ劇団』が、来春の300年祭の記念行事の一環として、仰西翁をテーマにした演劇の上演を目指して目下練習に励んでいます。久万の町歌にも『仰西の偉業、稲穂波打ち』と歌い込まれています。仰西渠を通じて、子孫のために献身的な努力を払った先人の遺徳をしのび、そんな偉い人が久万にもいたのかと、内心自分たちの郷土を誇れることにもつながっているのではないかと思います。その意味では、仰西の偉業は、郷土と個人を結びつける心のきずなになっています。
 今年(平成8年)、久万町出身の北岡杉雄さんが、わたしの家に来ました。松山市の高浜沖に、夏目漱石の小説『坊っちゃん』に由来する四十島(しじゅうしま)、別名ターナー島という小島があります。北岡さんは、松くい虫の被害で枯死したあのターナー島の松の緑を苦心の末よみがえらせた人です。『僕が、高浜の四十島へ松の植樹をした(『臨海都市圏の生活文化(㉔)』参照)ことを思いついたもとは、明神小学校在学中に先生が、郷土のために尽くした仰西翁の話を繰り返ししてくれたことです。社会のために何か役立つことがあれば、と思う気持ちがあったからです。』と話しておりました。」


*24:江戸中期の商人。本名山之内彦左衛門光実、仰西は晩年の号。久万町本町で山田屋という商家をつぐ。水田に水を引く
  ための用水路である仰西渠の開削とともに、川下14か村に通じる落合の切石の難所の改修松山城下に通じる三坂峠の鍋割
  の難所など、交通運輸の便をはかった功績も大きい。
*25:上浮穴郡久万町大字菅生に所在する中世の山城跡。築城は文亀元年(1501年)前後である。土佐一条家の伊予への侵略
  に備えて河野氏の勢力下に築城された城であり、初代城主は、宇津城主大野安芸守直家であった。3代目直昌は、武勇にす
  ぐれ河野氏の重臣としてその幕下に48騎、41か城を持っていたと言われる。秀吉の四国平定で歴史を閉じ廃城となる
  (㉓)。

写真3-3-21 山之内仰西翁頌徳碑

写真3-3-21 山之内仰西翁頌徳碑

国道33号沿いの久万中学校前にある。平成8年7月撮影

写真3-3-22 法然寺山門

写真3-3-22 法然寺山門

前を大井手が流れている。平成8年11月撮影

写真3-3-23 大井手用水路

写真3-3-23 大井手用水路

枝川を渡って用水路はさらに伸びる。平成8年9月撮影

写真3-3-24 仰西まつり書画コンクール展

写真3-3-24 仰西まつり書画コンクール展

平成9年1月撮影