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愛媛の景観(平成8年度)

(1)最古の農書を生んだ風土

 ア 宗案に寄せる思い

 **さん(北宇和郡広見町畔屋  明治36年生まれ 93歳)
 **さん(北宇和郡広見町清水  大正14年生まれ 71歳)
 **さん(北宇和郡広見町西野々 昭和7年生まれ 64歳)
 宗案(松浦宗案、生没年不詳(*19))は、土居清良(*20)(1546~1629年)の合戦記である『清良記(せいりょうき)』の第7巻の農事を記した『親民鑑月集(しんみんかんげつしゅう)』(日本最古の農書)の論述者とされる人物である。宮野下(三間町)に住み、名を松浦伝次貞宗(でんじさだむね)と言い、のちに入道して宗案と号した。三間の大森城主土居氏に仕え、武芸に励むとともに、18、9歳の若いころより特に農事に関心を持ち、日本全国を回って見聞をひろめ、各地の農法を視察研究した。永禄7年(1564年)、13代領主清良(当時19歳)の農事の問いに対し、土壌、肥料、各作物の栽培時期、農政にいたる農事全般を説いた『親民鑑月集』をもって答え、領内の農業の開発と発展に大きく貢献した。天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国平定により同15年、戸田勝隆(とだかつたか)が宇和郡領主となるに及び、清良(42歳)は下城(城を明け渡すこと)し、土居中村(どいなかむら)(三間町)に隠棲(いんせい)した。同時に、宗案も、遠く河原淵領西野々(かわらぶちりょうにしのの)(広見町愛治(あいじ)地区)の里に疎開(そかい)隠棲したものと思われる(写真3-3-16参照)(⑰)。
 研屋(とぎや)の屋号で農業を営んできた松浦一族の長屋門構えの住居が、広見川の支流大宿川(おおじゅくがわ)沿いの左岸にある。またこの一族の墓地が大宿川向かいの小高い山のふもとにあり、そこの祠堂内(ほこらどうない)に1基の五輪塔がある。往時よりこれを宗案の墓碑と言い伝え、敬けんな里人たちはその遺徳をしのび、今も宗案を崇敬し、お祭りしている。
 大正7年(1918年)、各県からの勧業功績の顕著なる者の奏上(そうじょう)(天皇に申しあげること)に際し、愛媛県からは日本最古の農書の著者として松浦宗案を推挙し、翌8年11月25日、正五位を贈られた。翌年11月29日北宇和郡長をはじめ関係各村長等の出席のもと西野々の墓前において伝達式が行われた。現在、祠堂内に『正五位松浦宗案大徳』が祭られている。
 この式典に参列した**さんは「式典は仏式で盛大に行われました。西野々にこんな偉い方のお墓があることを、驚きと同時に大変誇りに思った記憶があります。」と話している。

 (ア)宗案祭の思い出

 旧愛治村村長で特に村づくりに尽力してきた**さんに、宗案祭についてうかがう。
 「お墓のあるこの西野々地区で、いつころから宗案祭が始まったのか、はっきりしませんが、昭和17、8年(1942、43年)まで続いていました。11月6日の宗案祭の日は、地域の農休日になっていました。そして、みなさんがお参りするということで相撲大会もやり、にぎわわせたのだと思います。お墓に上がる沿道の左側に池があり、その上手に土俵を築きました。斜面のスギやヒノキを切って見物席にし、上から相撲が良く見えるようにしていました。沿道には出店なども出て、手焼きの『そうあん煎餅(せんべい)』を作って売っていました。」
 墓のある西野々に住んでいる**さんに思い出を話してもらう。
 「わたしが愛治小学校のころは、その日は全校生徒で墓前(写真3-3-17参照)にお参りしていました。学校に一つしかない貴重なオルガンを、リヤカーに積んでふもとまで運び、坂道は高学年生が担いで上がっていました。墓前ではそのオルガンを弾いて宗案公の歌をみんなで歌っていました。この歌は、わたしより年配の方はたいてい、ちゅうで覚えて(暗唱して)いました。子供時分に覚えた歌は今でも歌えます。歌詞は、宗案公をたたえる言葉でつづられています。その一部は、
   『一千八品の農産物(たなつもの)、その栽培を究めつつ、月に鑑み耕して、植えては民に親しみつ』
   『その功績(いさをし)は永遠に、みずほの国の宝とし、残る親民鑑月集、世界最古の農書なり』
のようでした。
 西野々出身の**さんに昭和8年の宗案公記念祭と奉納相撲大会についてうかがう。
 「昭和8年(1933年)11月10日付けの『愛治村報』の一面に『松浦宗案公記念祭に臨みて』の記事とその裏面に『農祖宗案祭と奉納相撲大会』の記事が載っています。それによると、主催は鬼北男女青年団で、日時は昭和8年11月6日、会場は泉村及び愛治村(いずれも現在は広見町)です。まず、泉第二尋常高等小学校に集合して補習教育展覧会を参観後、会場を移動して南宇和農業学校長菅菊太郎先生による『松浦宗案公について』の講演会を行っています。その後、愛治村に移動して宗案公祭典を執行して相撲会場で昼食をすませ、奉納相撲大会を行っています。団体試合のほか、一般有志の飛び入り相撲も行われています。
 前出の『愛治村報』に、昭和8年10月6日に宗案公記念祭奉納相撲に関する協議会を信用組合事務所で開催したとあるのをみても、鬼北11か村(*21)のそれぞれの村や青年団の全面的なバックアップがあったことがうかがえます。当時の農村では、相撲は一番の娯楽だったので、人寄せには力になったのでしょう。11か村の各々5名の選手、補欠、役員、応援団を加え、それに一般の参観者などを入れると相当な人数が集まったと思われます。それも、村の対抗試合だから選手も応援する者も力がはいるわけです。また、対抗試合がすんだら個人試合もあり、お祭は大変はずみ、普段は静かな山里にも、この日は人々の歓声がこだましたと思われます。」

 (イ)北宇和農業学校誕生の発端

 北宇和高等学校に勤務していたことのある**さんに北宇和農業学校(現県立北宇和高等学校)と宗案公のかかわりについてうかがう。
 「北宇和郡の穀倉地帯広見町近永(ちかなが)に愛媛県立北宇和農業学校が、昭和13年(1938年)に創設されました。その経緯は、『宇和島には中等学校があるのに、この鬼北地方は農業が盛んで既に400年前に他に誇れる農祖宗案公が出たにもかかわらず、農業学校がない。だからこの地域に、農祖に恥じない農業学校を設立しなければならない。』との発案で始まったといわれます。
 北宇和農業学校の第一期生の文集『寿ゞ(すず)らん(⑱)』に松浦宗案公墓参について、『母校誕生の発端となった松浦宗案公の墓を全校生徒で詣(もう)でる。愛治村西野々へ最初の遠足であった。新緑萌ゆる、山間を蛇行(だこう)して墓に着く。山の北側の静かな山裾に祠風板囲(ほこらふういたがこ)いの中に、静かに眠る、大人(たいじん)であった。』との記事があります。また、『創立50周年記念誌(⑲)』に生徒の帽子の黄色の線は松浦宗案公の松の新芽の黄色にちなんだものだと初代の校長から講話があった、とあるのをみましても宗案公に対する敬慕の情がうかがえます。」
 北宇和高等学校の生徒であった**さんに、宗案公と北宇和高等学校のかかわりについてうかがう。
 「わたしは、昭和26年(1951年)の在校生の時に遠足で宗案公の墓参にいきました。北宇和高等学校の校歌のなかに『親民』、『むらさき真土(まつち)(最上の土の意味)』など宗案公にちなむ言葉があり、『親民鑑月集』とか宗案公の精神というか、そのようなものが学校教育の中でも大きな比重を占めていたと思います。
 現在広見ライオンズクラブは、毎年北宇和高等学校の卒業式に臨んで、優秀生2名(生産科学科1名、食品化学科1名)に宗案賞を授与しています。これは、宗案公の遺徳をしのび顕彰するものです。」

 (ウ)受け継がれるもの

 **さんに、村づくりのなかに受け継がれてきた宗案公の精神についてうかがう。
 「『愛治村報』を大正14年(1925年)に発行しました。これは当時の村長の発案で、村費では予算がないので、有志で『愛治会』をつくり、月50銭の会費を集め、これに充てました。最初は『愛治会』の会員は23名でしたが、やがて50名ほどになりました。村費をいささかも使わずに村の500戸ほどに配ることができ、また村外へ出ている方にも全部『愛治村報』を郵便で送りました。これで村の様子も分かってもらえ、寄付もいただいたりしました。その後、会費は1円ほどになりました。戦時中は継続が困難となり中断しましたが、これが続いた年限は長いものでした。戦後、昭和24年(1949年)7月に近在の村の中では最も早く、村費で復刊しました。昭和30年(1955年)の合併で広見町が発足し『愛治村報』は中止されましたが、現在も『愛治自治会報』として受け継がれ、年3回発行されているのは特筆されていいと思います。
 愛治の村有林は200haあり、植林から40年ほどになります。最初ははげ山たったところにヒノキを植林しました。植林は生田(いくた)地区が行い、その後の下刈(したが)りは愛治地区500戸で1戸が年間2日ずつ労働奉仕をしたのです。このように村人の奉仕で、自主的に、植林から枝打ちや間伐をして、村有林を大きく育ててきた例は、全国にもないと思います。
 今年(平成8年)、管理組合が町有林の由来碑を建立しました。地区民の非常に強い連帯感が、200haの8割までも枝打ちされ、立派に管理されたこの美林を育んできたのです。ここにも、農を興し村を興す宗案公の心が受け継がれているのだと思います。」

 イ 宗案ゆかりの地を訪ねて

 宗案が仕えた土居清良の居城大森城は、三間盆地の中にどっしりと腰をおろし、頂上からは、美沼(みぬま)の里と言われる肥沃(ひよく)な水田地帯が一望できる。北宇和郡三間町は、昭和29年(1954年)、三間、成妙(なるたえ)、二名(ふたな)の3村が合併してできたもので、北部の高森山山系と、南部の泉が森山系に囲まれた三間川(広見川の支流)流域の沖積地(ちゅうせきち)には肥沃な水田がひらけ、三間米と呼ばれる良質米の産地となっている。寛永4年(1627年)に工を起こし、幾多の辛酸(しんさん)を経て同7年造成された24万t貯水の農用池である中山池のほとりには、池造成の際の人柱となることを自ら申し出たと伝えられる太宰遊淵(だざいゆうえん)(?~1638年)の墓があり農業の町の古い歴史を物語っている。

 (ア)鎮守の森から見守る里

 **さん(北宇和郡三間町土居中 大正11年生まれ 74歳)
 清良(せいりょう)神社の350年祭(昭和53年〔1978年〕に実施)の実行委員を務めた**さんに語ってもらう。
 「土地の人から『清良(きよよし)さま』と親しみ敬われている鎮守(ちんじゅ)のお社があります(写真3-3-18参照)。それが清良神社です。鬼北地方随一の穀倉地帯である三間盆地を一望に見渡すことができ、盆地のなかにそそりたつ大森城(土居氏居城)と対じし、あたかもこの地域の豊穣(ほうじょう)のさまをじっと見守っているようです。
 清良神社は、清良公が隠棲(いんせい)したといわれる北宇和郡三間町土居中(どいなか)にあります。土居清良公の33回忌の法要の年に当たる寛文元年(1661年)の創建であるといわれます。清良公を主神に、家臣の松浦宗案公を合わせ祭っています。300年祭にあたる昭和3年(1928年)から、祭神増加許可願いを提出していましたが、昭和20年(1945年)にやっと許可になり、その年の11月23日に、氏子全員が参列して宗案公御追祀(ごついし)(あとからお祀(まつ)りする)の式典が行われました。」

   a 300年祭の思い出

 「昭和3年の300年祭の時、社殿、境内の一大整備が行われました。前年に、社号碑、大鳥居、灯籠(とうろう)、こま犬、石段、注連柱(しめばしら)などが建造され、現在の景観がつくりあげられました。清良神社境内に現存する事物を通じて、過去300余年村人の尊崇と誇りの中で神社はいかにして祭られてきたか、この神社に寄せる人々の熱い思いを知ることができるのです。
 300年祭が行われた昭和3年は、わたしが小学校へ入学した年でした。わたしの祖父がお祭りの委員をしていました。今でも、そのころのにぎわいをかすかに覚えています。神社の境内には売店も来ており、いろんな催(もよお)しもあり、楽しくて、楽しくてたまらなかったのを覚えています。『今から50年たったら、また、このような祭りがあるそうだ。』と聞いていましたが、子供の時分に聞いたその場に、はからずも350年祭の委員の一人として御奉仕できたことに、深い感慨を覚えたものです。」

   b 350年祭の取り組みについて

 「町外の先輩から、『清良神社の350年祭が近づいてきたが、清良公はこの地方を代表する武将だから、土居中の土俵だけで相撲をとるようなことを考えるな。構想を雄大にもて。』との助言を受け、氏子にも相談して委員長を町長さんにお願いして、町をあげてのお祭りにしようということになりました。早速、町長さんにお願いしたところ快諾していただき、広い範囲の協力を得ることができました。
 記念行事の基礎的財源として、神社所有の山の一部の材を売却してこれに充てました。しかし、それのみでは不充分でしたので、地区内はむろん、町内外の多数の方に御寄附をお願いしました。その結果、多額の浄財をいただくことができました。お陰で記念事業として、社殿の屋根替えや参道周辺の整備のほか御祭神の業績の顕彰に記念誌を発行することができました。また、当初無理だと思っていた記念碑や参道たたみ石なども完成させることができました。祭神2柱の名を刻んだ社号石も建てました。清良公、宗案公の御神徳が今日の世相のなかでも脈々として生き続けていることを強く感じました。
 350年祭当日の昭和53年(1978年)4月14日は、拝殿で神事を行い、神社下に位置する菩提寺の龍泉(りょうせん)寺本堂での行事の後、祝宴やもちまき・伊予神楽(いよかぐら)(*22)もにぎやかに催されました。毎年の祭礼は、春は4月14日、秋は11月14日に、神社前で神社総代と区長、副区長が参加して厳粛に祭典を行い、土居中だけでお祭りを行います。しかし、50年に1回のこの大祭には、できるだけ広範囲の人に呼びかけ、一緒にお祭りをしてもらいました。一般の町民の方も大勢お参りしてくれ、相当にぎやかでした。記念行事の一つとして発行した記念誌も、祭神の遺徳をしのぶ意味で好評を得ました。また、祭神お二人の遺品展を地区の公民館で行いました。今までにない試みだったので、みなさんに大変喜んでもらいました。
 清良公は、幾多の戦いにも不敗を誇りました。それも、終始郷土防衛のための戦いでした。その強さと同時に、農業を振興して国を興すという宗案公の意見を聞きとどけ、善政を行い、常に民とともにあったその姿には心打たれるものがあります。月1回の朝市『みまの清良市』や、若者の和太鼓の社中『清良太鼓』など、清良公の名は三間を代表する名前になっており、清良公、宗案公は、今も町民みんなの心の中に生きて、三間町の発展の支えになっています。」

 (イ)三間の子われら

 **さん(北宇和郡三間町小沢川 昭和5年生まれ 66歳)
 **さんは、大森城のふもとに生まれ、勤務や農業のかたわら『清良記』全30巻をだれもが読めるように、活字版本(現代字)化を実現した。その取り組みなどについてうかがう。
 「松浦宗案公は、地元の永い間の願望がかなって、終戦の年、清良神社に土居清良公と一緒に祭られるほど、この地方では人々の崇敬の念は強いのです。
 それは、この地方で善政を施した土居清良公に仕え、若いお殿さんの国の振興策についての質問に答えて、『親民鑑月集』を書き、当地の農業発展に尽くしているからです。幕末の農政学者佐藤信淵(さとうのぶひろ)(1769~1850年)も『珍しい農書で宇和島地方の模範とすべきだ。』とまで言っています。また、『清良記』を参考にして吉田藩の地方役人が農村を巡回して指導するために、手帳にメモ書きしていたものが残っていて、それを、吉田町教育委員会が、昭和57年(1982年)に『郡鑑(こおりかがみ)』という本に編集しました。明治維新まではこの地方の農業手引書でした。このことからも、『清良記』がいかに優れていたかが分かります。
 この地方における最初の小学校として、明治6年(1873年)宮野下に第九番学校がおかれました。これに起源を持つ三間町立三間小学校にわたしは入学しましたが、清良神社に全員で参拝したり、遠足にも出かけました。高学年になると、みんなで、学校から大森城(土居清良の居城)の山頂まで競争で登ったりもしました。この小学校には、昭和初期に土居清良公の唱歌がありました。戦前、戦中を通じて、土居清良公を村人のかがみとし、誇りと望みを持てと三間人を励まし、育てた歌でした。昭和一桁(ひとけた)生まれの同級会で最後に合唱されるこの校歌は、三間に育った誇りを与えてくれ、また、わが道の標(しるべ)とした歌でもあったのです。
 昭和20年(1945年)の戦争終結により、学校行事としての清良神社参拝は中止され、伝統ある懐かしい校歌も廃止されました。しかし、村のお殿様、文武の誉れある土居清良公と、農業の神様といわれる松浦宗案公を慕う村人にこたえて、昭和35年(1960年)の7月10日の開校記念日に、清良公、宗案公のお二人のことが歌いこまれている三間小学校校歌が復活しました。
 北宇和農業学校に進学すると、土居清良公、松浦宗案公を尊敬する先生が何人もおられました。先生に清良公や宗案公について書いてある書物はないのですかと尋ねたら、宗案公のことについて書いている本だと渡してくれたのが、北宇和郡教育会で発行した『親民鑑月集』でした。今の中学校で言ったら3年生の時のことです。借りて少しは読んではみたが、とにかく難しい。4、5日してそっと返しに行きました。郷土の偉人として、清良神社に祭られている土居清良とはどんな人か、農業学校の全校生徒が毎年参拝する松浦宗案とは何をした人かを知りたいと思ったのもこのころでした。
 三間町が合併した昭和29年(1954年)の記念文化祭に、『清良記』が展示されていました。毛筆で書き写された古文書で、全30巻もありました。当時のわたしにはとても読めるものではなかったが、なんとかして読みたい一心でまず転写を志しました。テレビが普及し始めたころで楽しみの一つでしたが、それも朝夕のニュースを見るだけに我慢して、勤務や農業の合間をみて、夜遅くまで頑張りました。そんな生活を3年あまりも続け、ようやく転写を終えることができました。
 活字版本にすることを勧めてくれる人があり、その後、先輩の諸先生の御指導を受けたり、関係資料を収集してやっと清書し、昭和50年(1975年)に自費出版にこぎつけました。およそ6万5千字に及ぶ『清良記』全30巻の活字版本化は、これが初めてのことでした。『清良記』は原本が不明で、30種類にも及ぶ写本があり、それぞれ違っているところもあり、表現にも苦労しました。今まで、第7巻のみが出版されていましたが、全巻を読むことによって、はじめて清良公と農民の関係を知ることができ、ひいては、第7巻の農業のことも真に理解することができました。
 『親民鑑月集』には、『農業の振興を第一の国是(こくぜ)とせよ、農民が豊かになれば自然年貢も多くなる』と農政の基本方針を述べています。領主から農民までが一致して国を守り、国を興すことが基本なんです。
 清良公の活躍した戦国時代末期(16世紀後半)には、毎年秋の収穫時になると、土佐(高知県)や豊後(大分県)の兵が農作物の奪取に来ていました。これは『刈田』という戦術の一つで敵方の農産物を収穫することによって自分の兵糧を豊かにし、同時に敵方の戦力をそぐ方法です。これに対して、早稲(わせ)種の栽培などを奨め、敵に奪われる前に確実な収穫を奨めています。また、1,008種にもおよぶ作物の品種をあげ、それぞれの播種(はしゅ)、植付け、収穫などを詳しく述べています。穀物ではイネ96種、ムギ24種、アワ、ソバ、ヒエなどをあげ、その栽培方法を詳述しています。肥料のことでも、にわかづくりでなく不断の土つくりを説き、今日の課題である土つくり運動にも通じる内容が記されています。岡本城(土居氏東の備え、土居垣内)の焼け跡から、他では出ないような大粒の米が出てきます。収量の多い品種を選んで作っていた事実がうかがえ、三間の米づくりはハイレベルであったことが推測されます。
 稲を作っても早稲も晩稲(おくて)も作って田畑を有効に使い、一年中継続的に仕事をしていく仕組みを考えています。いわゆる、『清良記農法』、『せんぐり農法』です。他方、百姓も働くだけではやる気をなくすので、楽しみを与えなければいけない。それには、百姓が親しみをもてるようにお田植えから収穫までを振り付けた百姓踊りを領内みんなでやろうというようなことも書かれています。東宇和郡城川町の泥んこ祭り(*23)の起源は実は『清良記』にあるのです。三間町から城川町に養子にいった人が伝えて現在の盛況になったと言われています。
 地域の自然と風土に根ざし、農業の基本的な姿を追求している先人の知恵と工夫が記された農法からいま学ぶものは実に多いのです。その内容の豊富で明確なことは今日でも十分活用しうると思います。」

 (ウ)献上米を作って

  **(北宇和郡三間町田川 大正13年生まれ 72歳)
 三間米のふるさと、三間盆地に入ると「日本一うまい三間米」の看板が迎えてくれる。『各駅停車全国歴史散歩愛媛県(㉑)』に「藩政時代三間の殿田(とのでん)(吉田藩主への献上米を作った美田)で作った米を使っているので、宇和島の某旅館のめしは抜群にうまい。10万俵(1俵は4斗で約60kg)作れるなら、町の米を全部引き取ってもいいと言ってきた酒屋があったなどというような三間米のおいしさについての話は、トッポ話も含めていくらもある。」とある。
 『三間町誌(⑳)』に、「古来三間米として声価が高く、品質佳良で美味なことは人のよく知るところである。戦国時代から江戸時代にかけて、『親民鑑月集』に見られるような稲作技術の浸透によって、当時三間地方は米の品質、生産力で同時代の水準をはるかに抜いていた。明治以後も長く稲作を基本として、名実ともに南予の穀倉地帯としての誇りを堅持してきた。藩政時代の献上米や近年の新嘗祭(にいなめさい)(天皇が新穀を神々に供え、自身も食する)の献穀にも度々奉仕している。」とある。
 **さんは、専業農家として特に米作りに専心してきた。**さんに献上米への取り組みについてうかがう。
 「平成2年に献上米を作りました。献上米は、愛媛県をえと(十二支)にちなんで12の地区に分け、それぞれの年に該当の地区に生産が割り当てられます。北宇和郡は午(うま)年に当たっていますが、米の外に献穀物にはヒエ、アワもあるので、米は郡内の各町村には36年に1回しか回ってきません。ですから自分一代のうちに1回しか回ってこないと思い引き受けました。
 町内には、農協(現在のJA)にも献上米栽培の経験者がいないので、前年担当した所へ様子を聞きに行ったり、そこで、ビデオを借りたりしました。
 苗はコシヒカリを育てました。6月5日のお田植え祭には、2畝(約2a)に注連飾縄(しめかざりなわ)を張ってお清めをすませ、早乙女役に役場から3名、農協から2名の未婚の娘さんがきてくれました。わたしたち夫婦は田植縄を引きました。
 お田植え祭も珍しいので見学に沢山きました。それから、化学肥料や農薬を使わないで、うまい三間米づくりに努めました。この年は大嘗祭(たいじょうさい)(天皇即位後初めて行う新嘗祭)を行うということで、警察の方もたびたび立ち寄ってくれました。鎌で刈り取られるとか、わやく(乱暴)をされて献上できなかったら県代表の役目が果たせなくなります。気がかりで、毎日田んぼを見回っていました。
 10月に刈り取りをしました。できた籾米(もみまい)を農協で2斗(30kg)精米して、それを胚芽(はいが)の付いているものを1粒1粒選び出して、2升つくりました、そのうち1升(1.5kg)を10月31日に宮中に献穀しました。
 田川の米のうまさの秘密の一つは、田が粘土質で土が深いことです。普通の水田でしたら、水をためてなんぼこぶっても(いくら泥田をねっても)足をとられるようなことはないのですが、田川の田は、早乙女さんも足が抜けないと言って困っていたほどです。農作業は苦労ですが、それだけ、お米にも粘りができるのです。荒起こしをしても、田の土がかなり乾いた時でないと小土(こまかい土)にならないのです。また、田川の北部の山に分布する石灰岩から流れ出る水もよい条件になっています。昭和22、3年(1947、48年)ころまでは、夏に山の地区共有の草刈り場で草を刈り、山に積んでたい肥にし、秋に牛肥と一緒に田に入れたりしていました。有機質の肥料をふんだんに使っていたので、本当にうまい米づくりができていたわけです。」


*19:人物について異説があり、また墓所についても広見町愛治地区西野々以外に異説がある。
*20:戦国時代の宇和郡の小領主。現在の東宇和郡宇和町を本拠地として宇和郡一帯を支配していた西園寺公広の家臣で、三
  間町元宗の大森城を本城とした。清良一代の事績を記したものが、『清良記』で土佐の一条氏や長宗我部氏や、豊後の大
  友氏などとの合戦にめざましい働きをする清良の姿が詳しく描かれている。『清良記』の著者は、宮野下村の三島神社神
  主土居水也といわれる。
*21:鬼北11か村(成妙、三間、二名、好藤、旭、泉、三島、愛治、明治、吉野生、日吉)。
*22:宇和島市及び北宇和郡一帯の各神社の春秋の祭りに舞われるものである。別に「おかんこ(男神子)神楽」とも呼ばれ
  ているように神職のみによって奉納されるもので、四国地方の神楽の中心をなすものである。昭和56年(1981年)に国
  指定重要無形民俗文化財となる。
*23:東宇和郡城川町土居の三嶋神社で毎年7月(第1日曜日)に行われる御田祭。明治14年(1881年)ごろから田休みの行
  事として、地区の青年たちが始めた五穀豊穣を祈念する神事である。牛10頭による「しろかき」、青年たちがどろんこに
  なって行う畦豆植えのしぐさなど、素朴でユーモラスな祭りに各地から大勢の参拝者がある。

写真3-3-16 西野々の里

写真3-3-16 西野々の里

平成8年9月撮影

写真3-3-17 宗案公のお墓と伝えられる祠堂

写真3-3-17 宗案公のお墓と伝えられる祠堂

平成8年9月撮影

写真3-3-18 清良神社

写真3-3-18 清良神社

平成8年7月撮影