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愛媛の景観(平成8年度)

(1)岩陰に遺跡を発見

 ア 遺跡発見のころ

 **さん(上浮穴郡美川村上黒岩 昭和5年生まれ 66歳)
 **さん(上浮穴郡美川村上黒岩 昭和8年生まれ 63歳)
 岩陰遺跡が発見された土地の所有者であった**さんに遺跡発見当時の様子をうかがう。
 「上黒岩岩陰遺跡は、久万川と面河川の合流地点の御三戸(みみど)をさらに約2kmさかのぼった久万川右岸、高さ約20mのびょうぶ状に切り立った石灰岩壁の岩陰部にあります(写真3-3-1参照)。海抜397mで、久万川の現河床面との比高は約10mです。半洞窟の岩陰で、幅は広いところでも4m、奥行きは10m程度の空間です。わたしの家は、農家で、遺跡のあるヤナゼと呼ばれる川沿いの土地はみなわたしの家の所有でした。祖父の代から洞窟の石灰岩を掘り出し、それを焼いて石灰粉を作り肥料にしていましたが、わたしの代には、石灰焼きはやめていたので岩陰を倉庫代わりに利用し、草や収穫したトウキビなどをたくさん保管していました。
 昭和36年(1961年)6月の暑い時でしたが、少しでも田んぼを広げようと、岩陰の周りの整地をしていたところ、たくさんのカワニナの貝殻に混じって、焼き物の破片が出てきました。それを見つけた息子が、『ひょっとしたら学校で習った貝塚などからでる土器片ではないか。』と言うので、学校に持っていくことにしました。わたしたちの受けた教育と違って、戦後の社会科の授業を受けていたことが、遺跡発見のきっかけになったのです。息子の言うのには『学校で社会科の授業の時、先生に縄文土器(じょうもんどき)(*1)を見せてもらっていたので、もしかしたら発見した土器もそうなのかもしれないと思った。学校に持っていったが、友達はみんな、それほど大したものとは思わず、別に気にしていなかった。わたしの持っていった土器片を見た先生の方が驚いて、村の教育委員会へ連絡しました。』とのことでした。
 村の教育委員会から連絡を受けた県の教育委員会の手配で愛媛大学の西田栄先生がこられました。貝塚から出た土器を見て先生は、『この四国の山に縄文時代の遺跡がでるとは思わなかった。これは、押型文土器(おしがたもんどき)(*2)という、今から8千年も前に使われた土器で、これは大したものだ。』ということで、早速、村の教育委員会が警察署長名の立入り禁止の立札を立てました。
 その年(昭和36年)の10月に第一次発掘、いわゆる、予備調査が県教育委員会が主体となって行われました。8千年前の地層から5体の人骨やハマグリなどが出ました。
 周辺に住む人たちは、山里の信心深い人たちですから、発掘当初、むしろ、冷ややかな目で見ていたように思います。親せきにさえ、『よけいなことをするな。』と言われたりしました。また、『昔のお墓を掘っているが、今にたたられるぞ。』と言う人の声さえ聞こえてくるほどでした。社会全体でも、遺跡について今ほど関心の高くない時代でした。
 昭和37年7月20日から30日まで、日本考古学協会洞窟遺跡調査特別委員会の発掘調査として、第二次の本格的調査が行われました。押型文土器と同じ地層から10体の人骨がでてきました。さらに掘り下げていくと、1万2千年前の第9層(*3)から世界最古の土器といわれる、隆起線文土器(りゅうきせんもんどき)(*4)や日本でも初めての石の女人像が発見されました。これで、上黒岩岩陰遺跡の名は一躍有名になりました。地元の人たちも、『これは郷土の誇りだ。』と言ってくれるようになりました。
 そのころ、わたしは伐採、搬出の林業に従事していましたが、仕事の方は雇い人に任せ、わたしは、暑い最中に仕事を休んで発掘にかかりきっていました。」

 イ 遺跡発掘のころ

 今度は、**さんの奥さんの**さんに話をうかがう。
 「わたしのうちが、発掘調査の休憩所になりました。家の改築をしていた最中で、座を張ったばかりの所で、お茶を飲んでもらいました。暑い時で、今のようにジュースもなく、お茶を冷やしておいて、みんなに飲んでもらうのが、わたしの仕事でした。考古学者に混じって大学生、高校生、地元の中学生も手伝っていました。お茶も1日に大きなやかんで12、3杯も沸かしました。
 この岩陰遺跡のことを書いた『岩かげの女神石(③)』という本が、昭和46年(1971年)に出版され、この上黒岩岩陰遺跡考古館(美川村立)でも販売していました。古い遺物に興味を持った少年が、祖母と一緒に両親の故郷、松山に帰省する途中で、著者と会い、岩陰遺跡の発掘の現場を訪ねるというストーリーです。わたしの屋敷内で発見された岩陰遺跡の発掘の様子や、第一発見者としての主人や長男のこと、そしてなによりも女神石に託されたであろう、当時の人びとの喜びや祈りなどの心の動きや、遺跡発掘に携わる人々の感動などが、生き生きと描かれていました。この本を15冊ほど購入して、遺物の絵はがきと一緒に、遠くは北海道にいる兄弟や親せきにまで送りました。そのころ考古館を見学にきたお年寄りの方が、孫の土産にと言ってまとめて5冊も買っていったこともありました。
 今でも、小学生の1年生と6年生の孫が、『ばあちゃん、土器掘りしよう。』と言います。田んぼの拡張の時に取り除いた土を盛った家の表の道路端から、今でも貝殻に混じって土器のかけらが出てくるんですよ。
 はるか昔の祖先の住んだ遺跡は、出土した人骨、土器などの遺物を通して、太古の時代に生きた人々の姿をわたしたちに見せてくれました。今年(平成8年)7月、岩陰遺跡に隣接するわたしの私有地に社を建立しました。それは、岩陰での永い眠りを覚まさせた祖先の霊を祭る思いからです。」


*1:縄文時代に製作・使用された土器。表面に縄目の模様のあるものが多い。焼成温度が低いため黒褐色や赤褐色を呈する
  が、時期、地域による形式の差は大きい。
*2:山型や米粒のような形を押しつけて模様にした土器。木の棒状のものに、刻みを入れ、その棒を軟らかい粘土のうえに転
  がすと刻みを入れたところが反対に盛り上がる。
*3:1963年アメリカのアイソトープ研究所でC14 (原子量が14の炭素)の放射能の半減率による年代測定をした結果、上黒
  岩岩陰遺跡の第6層と第9層出土の木炭は、それぞれ、約1万年前と約1万2千年前と測定された。植物や動物の遺骸に含
  まれるC14は約5,600年で半減、1万1千2百年たつと、4分の1になる。
*4:粘土を細く紐状にして土器の表面につけて模様を浮き出したもので、わが国最古の土器といわれる。土器の発明で煮沸が
  可能になり、それによって繊維が固くあく抜きの必要な木の実などの植物もたべることを可能にした。持ち運びが便利で、
  煮沸の熱効果がよい底のとがった土器がつくられた(②)。

写真3-3-1 岩陰遺跡全景

写真3-3-1 岩陰遺跡全景

平成8年7月撮影