データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛の景観(平成8年度)

(2)遺跡は今

 ア 久万川沿いのくらし

 **さん(上浮穴郡美川村上黒岩 大正2年生まれ 83歳)
 岩陰遺跡から500mほど離れたところに住んでいる**さんに話してもらう。
 「遺跡の対岸の久万川沿いの道路(現在の国道33号)ができたのは、明治になってからだと聞いています。舗装もないでこぼこ道で、道路工夫がいつもバラスを入れる工事をしていました。小学校のころ、6、7人乗りの旅客用の馬車があり、川向こうにその馬車屋がありました。バスが通るようになるまで、久万川沿いの道と、山の道が使われていました。山の道とは、岩陰遺跡の上を通り高知へ行く土佐街道のことです。対向する相手に知らせるために、首に大きな鈴を付けた馬が、リリン、リリンと鳴らしながら行き交っていました。
 岩陰遺跡の前の久万川は、水量が少ない時でも、川を歩いて渡ることはできませんでした。川には、三次橋(みつぎばし)といって、3本の木の厚い板をつないだ橋がありました。石を積んで二つの台石を造り、その上に3本の橋板を架けた程度の橋です。50cmほどの板幅だったので、風の強い日などは、女の人や子供は、はって渡るほどでした。3本の橋板は、毎年梅雨時になると向こう岸に2本とこちら岸に1本つないでいたので、川が増水しても流されることはなかったのです。この橋が渡れなくなると、裏山を越えて、山の道を通って御三戸まで歩いていました。水が引くと、『橋を架けるぞ。』とおらんで(大声で叫んで)、みんなを呼び集めて橋板を架けていました。御三戸神社の近くの岩瀬戸橋(いわせとばし)が架設されたのは、昭和34年(1959年)ですが、橋の幅は1mほどでした。遺跡が発見されて考古館ができたので、自動車が通行できるような橋が必要になり、昭和51年(1976年)に上黒岩橋がつくられました。この遺跡の前の川では、ウナギ、コイ、イダ(ウグイ)、ズガニ(モクズガニ)、フナ、アユなどがいくらでもとれました。カワニナなど今でもたくさんいます。遺跡のかつての住人も、この川の幸の恩恵をずいぶん受けていたことでしょう。」

 イ 文化の里づくり

 (ア)考古館とともに

 考古館の開館以来その管理に当たっている**さんにその取り組みについて話してもらう。
 「考古館は愛媛大学の西田栄先生が中心となって館内の展示をし、開館は昭和49年(1974年)7月20日でした。開館以来、遺跡発見者のお母さん(**さん)とわたしの二人で、1か月を前半と後半にわけて管理に当たっています。開館当初は、年に1万人近い来館者がありました。県内外だけでなく、海外からも団体で来たりしていました。著名人では、松本清張さん、石川達三さん、團伊久磨さんなども来ました。開館の年は、村民は無料で入場できました。
 岩陰遺跡は、第1層の表土層から、地下約7mの第14層まで発掘されましたが、その結果、ここに住みついた人々の遺物のある文化層と人の住んでいなかった時代の無遺物層が、幾重にも重なっていることが分かりました。年代記を若いページから逆にめくるように慎重に掘り下げることにより、この遺跡における文化の変遷を知ることができるわけです。
 第4層、すなわち、8千年前の文化層からは、愛媛県で最も古い人骨22体が発見されています。この層から下では、埋葬の風習がなかったのか、人骨は発見されていません。その中で注目されるのは、年齢が4、50歳で身長147cmのほぼ完全な女性の人骨です。前歯が丸く擦(す)りちびているのは、歯を道具として使ったものだと言われています。また、狩をしていて仲間のやりが誤って刺さったのでしょうか、腰骨に鹿の角で作ったやり先が刺さったままの男性の骨があります。また乳歯の抜け変わっていない小さな子供の骨もあります。
 8千年前の2匹の飼犬の完全な骨は、人骨を見守るように埋葬されていました。人の良きパートナーであった犬を手厚く葬った例は、日本の縄文時代には200例ほどありますが、岩陰遺跡のものが最古のものです。この時期に多く出て来る石鏃(せきぞく)(石の矢じり)から、弓矢を持って、俊敏な柴犬型の日本犬を従えた狩人たちの姿が目に浮かびます。
 1万年前の第6層からは、小型石鏃が出て、弓矢が初めてこの時代にあらわれたことを知ることができます。
 1万2千年前の第9層からは、長さ4.5cmの薄い緑泥片岩(りょくでいへんがん)の川原石に線を刻みつけ女性裸像を描いた『女神石』(写真3-3-3参照)が出土しました。その像は、肩から両ほほに垂らした髪の毛とU宇型の乳房とその下に腰簑(みの)を着けている姿を描いていると思われます。女性は子供をみごもり、出産するという、当時の人にとっては神秘的な特徴があるので、動物の繁殖や木の実の豊作や安産などの願い事にこの石を使ったと思われます。
 女性たちの装身具とおぼしきペンダント、イヤリングのたぐいなどの出土も多いのです。古代人の苦労をしのぶため、10年くらい前に石に穴を開ける実験をしてみました。それも、芯(しん)は竹ベラを使って、砂は海砂の細かいのを使い、手でより開けたのです。糸の通るような穴を開けるのに3日もかかりました。昔も今もおしゃれ心は並々の努力ではかなわなかったのです。
 考古館とともに歩んだ日々はもうずいぶん長くなりましたが、今も考古館は、わたしの心の支えとなってくれています。わたしの俳句仲間の協力で遺跡のそばに、『露の世に輪廻(りんね)一万二千年』の自作の一句を刻んだ句碑を建立しました。」

 (イ)岩陰文化の里づくり

 **さん(上浮穴郡美川村東川 昭和6年生まれ 65歳)
 岩陰文化の里づくりに取り組んできた前美川村教育長の**さんに話してもらう。
 「昭和36年(1961年)の第一次調査以後、昭和45年まで5回にわたり綿密な発掘調査が行われました。昭和36年の秋、村内の農民祭に出土品や写真を展示して村民の関心にこたえました。また、昭和37年7月28日には、郡内小中学校社会科担当教員、地元有志、中学生も参加して第一回考古学習教室が、発掘現場と同地区内の御三戸神社で開かれ、慶応大学の江坂輝弥先生の話がありました。
 昭和46年(1971年)に国指定の史跡となり、昭和48年には愛媛県文化の里の一つ『岩陰文化の里』の指定を受けました。昭和49年には、遺跡の隣に考古館が建築されました。総工費は778万円です。各大学に研究資料として持ち帰られていたもの約50点と、地元に保管されていた50点と合わせて、約100点が搬入展示されたのです。
 文化の里の指定を受けてから、小中学生に対して、文化ということになじませなければと考えて、その方策の一つとして美川村教育委員会で『郷土の文化財めぐり』という企画をしました。これは、俳句を作ることによって文化意識を育てる取り組みで、岩陰遺跡と岩屋寺(いわやじ)(美川村七鳥(ななとり)にある。四国霊場第45番札所で、鎌倉時代に一遍(いっぺん)上人の参籠(さんろう)(おこもり〕があった。境内の寺有林は国指定の名勝。)には、小中学生のうちに必ず1回ずつ見学に行き、同時に俳句もつくることにしました。それは、子供の豊かな感性と、ものを見る目を育て、ふるさと教育にもつなげていこうというねらいからです。この企画は昭和56年(1981年)から毎年、村内にあった小中学校9校の生徒と一般の方が参加して始まりました。その活動成果を句集に納めて毎年発刊して、今年(平成8年)で17冊目になります。全国の俳句大会などにも応募し好成績をおさめました。
 岩陰文化の里整備事業の一環として、宇摩郡別子山村(うまぐんべっしやまむら)にあった国の重要文化財『旧山中家住宅』(写真3-3-4参照)を昭和50年(1975年)に譲り受け、岩陰遺跡の近くに移築復元しました。これは、江戸中期の四国山地中部の民家の様式を伝える、四国でも非常に古いと言われる民家で、解体には1か月かかり、その費用も国、県の補助も含めて約3千万円かかりました。
 移築復元工事は正確に行われ、監督官庁である文化庁から担当官が来て、完了するまで監督していました。柱一つ一つに番号を付けて、縄が使われているところは縄を、竹が使われているところは竹を使うように、すべての部分について、あらかじめ解体する前に写真に撮り、それにもとづいて正確に復元しました。くぎは地元では調達できないので、京都から取り寄せました。鍛冶屋(かじや)で打った手造りの1本20円する四角いのが使われました。
 移築後、かやぶき屋根の維持管理には苦労しました。昔は、囲炉裏(いろり)をたいていたので30年間から50年間も維持できたものが、今は10年もしたら駄目になります。戸を閉めて2か月ほど囲炉裏をたいてみましたが、煙が目に染みてどうにもならないと管理人が言うので中止しました。
 昭和53年(1978年)から55年にかけてアメリカ、カナダ両国で『日本古代文化史展』が、開かれました。当時日本では、『女神石アメリカに渡る。』と報道されました。旧石器時代から古墳時代までの、日本全国各地の代表的出土品約400点が出品されました。日本の古代文化を、総合的に初めて海外に紹介する画期的な試みで、愛媛県からは、岩陰遺跡の遺物を代表する1万2千年前の世界最古の隆起線文土器、投げやりの先端につける有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)、日本最古の『女神石』などが出品されました。わたしたちのふるさとにある岩陰遺跡から出土したこれらの三つの遺物が、日本の代表的考古資料に選ばれ展示巡回されました。岩陰遺跡の遺物が日本文化の源流の理解に貢献できたことは、すばらしいことだと思いました。出品に当たっては、貴重な遺物なので文化庁に相談するなど、陰の苦労もありました。
 国鉄(現在のJR)と交渉して、昭和55、6年(1980、81年)に、夏休み中の1か月あまり、松山-上黒岩遺跡-姫鶴平(めづるだいら)(四国カルスト五段高原、柳谷村)を結ぶ臨時バス(ヤングメイト号)を運行し、郡内の広域観光ルート作りのテストケースとして注目されたりしました。
 展示品の入れ替えなどは今後の課題です。上黒岩岩陰遺跡は、まさに、縄文人がわたしたちに残してくれたタイム・カプセルなのです。そこに、先人の生きざまを学ぶとともに、次代に受け継いでいくこともわたしたちの務めです。」

写真3-3-3 女神石

写真3-3-3 女神石

平成8年11月撮影

写真3-3-4 旧山中家住宅

写真3-3-4 旧山中家住宅

移築復元されたもの。平成8年9月撮影