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愛媛の景観(平成8年度)

(1)町の中の森

 ア 町の景色の中で

 (ア)森の思い出

 **さん(新居浜市一宮町 明治43年生まれ 86歳)
 昭和12年(1937年)6月、当時金子(かねこ)村であった一宮神社社殿において、新居浜町と高津(たかつ)村、金子村の3か町村が合併条件裁定書に調印をして、新居浜市がスタートをした。戦後、昭和28年(1953年)の「町村合併促進法」の施行により、周辺の町村との合併が活発となり、昭和34年の角野(すみの)町との合併を最後に、現在の新居浜市ができあがった(⑨)。その間、道路・住宅環境並びに産業構造の変化に伴う土地利用も変化し、町は大きく変わった。そういう中にあり、昔から変わらず鎮守(ちんじゅ)の森として周辺の人々にやすらぎをもたらしてきたのが、一宮神社の社そうである。
 大正5年(1916年)ころの一宮神社周辺の様子を一宮町に子供のころから住んでいる**さんに聞いた。
 「わたしらが小さいころには神社の境内のクスノキに登ったり、戦争ごっこをやったりしてよく遊びました。また、大きなクスノキがたくさん茂るし、周りは田んぼが広がり、湿地もあるので、ゴイサギが何羽も巣を作っておりました。しけの時などは、ゴイサギのひなが落ちて、地べたを走り回るわけなんですね。そしたら、子供が集まって、それを捕まえて家に持って帰って食べるということがよくありました。村のおいはんやおばはんに見つけられたら、しかられました。フクロウなどもよくおりました。登道(のぼりみち)を行き来する人は、ゴイサギを嫌うんですよ、ふんがひかかるから(ふんをかけられる)。鳴き声聞いたら、あつかましいぐらい(うるさいほど)おったですね。町がにぎやかになるにしたがって、沼地が埋め立てられるしで、ゴイサギの数も減ってきました。」
 一宮神社は、国領(こくりょう)川・東(ひがし)川・尻無(しりなし)川による沖積平野の上にあり、地下水が豊富で、所々に自噴井が見られるなど、湿地が多かった。現在でも、若水(わかみず)町に葛淵(つづらぶち)という清水が湧きでる広く深い淵があり、毎年1月7日の早朝に、一宮神社の若水取りの神事が残っている。しかし、飲料水を自家用井戸にたよっていた旧金子村地区でも、今は泉が少なくなっている。
 「今の神社の西の参道から履物屋の横を通って新居浜西高等学校のグラウンドの南と新居浜北中学校のグラウンドを横切って東川にぶつかる小道があったんですが、突き当たりの川原ではウナギがよく釣れていました。それ以外には、ハゼやドチンコ(黒いハゼみたいな魚)がたくさんおりました。また、東川の川原では新居浜町の子供と金子村の子供が、『金子のスジイモ食い』、『新居浜のジャコ食い(*5)』いうて悪口を言っては、石を投げてようけんかしていました。惣開(そうびらき)小学校の前には、大きな沼地がありましたが、そこにはウという黒い鳥がヨシの所によくおりまして、田舟を引っ張りだしてきてこいでとりに行ったこともありますし、バンという鳥もたくさんおりました。そこも、埋め立てられてしまいました。」
 新居浜市の住友による工場の建設は昭和初期から始まるが、海岸部の埋立てとともに平野部の埋立ても行われ、また、宅地化に伴う埋立ても急速に進展し、湿地帯はどんどんなくなっていった。「イネを作っているときには、イナゴをとって農協に持っていって買ってもらったり、苗代を立てたときにはチョウチョウがわく(発生する)でしょ、それを農協にもっていったら買ってくれました。イナゴは、焼いて食べたりもしました。手伝いもせずに遊びよったら、大人から『イナゴでも取ってこい。』なんてよく言われました。
 夏の夜、一の鳥居に集まって、境内にいろんなものを隠しておいて年上の子から『取ってこい。』言われて一人で取りにいくという、肝試しもよくしていました。ここらでは、『嫁さんの豆をもらいに行く。』言うて、嫁入りしてきた家に、翌日、モロコシのいったものやいり豆やパットライスなどが入った袋を、近所の子供たちが弟や妹を背負うてもらいに行ったり、おばあさんが孫を背負ってもらいに行ったりしていました。また、お嫁さんが親戚や隣近所に配って回る所もありました。戦争がひどくなってからは、自然とやまって(なくなって)きましたがね。」

 (イ)憩いの森

 「神社の森は、人家が迫ってきたので、枝打ちなどはしていますが、ぐっすりとは(大きくは)変わっていません。」と**さんが言うように、森は昔から大きく静かにたたずんでいる。
 一宮神社の社そうは、分類すると、立地条件は「平野部の中心に孤立しているもの」、植生からは「常緑広葉樹を主とし、クスノキが主」となる(⑫)。
 一宮神社のクスノキ群は、昭和26年(1951年)に国の天然記念物に指定され、参道の両側にクスノキが最も多く、境内には目通り(目の高さ)周囲が1m~9.4mまでのものが53本あり、中でも一番楠は目通り9.4m高さ28m、二番楠は目通り7.9m枝張り32m²にもおよび、樹齢は千年を越えると言われている。また、この森の特徴として、町中の狭い区域に大楠が群生していることと、カクレミノ・クロガネモチ・バクチノキ・ヒメユズリハ・モッコク・ネズミモチ・チシャノキ・タイミンタチバナ・ヤマモガシ・ヤブニッケイ・エノキ・ハゼなどの暖地性きょう木(高木)が密生し、200種類以上の植物が自然林のままで残っていることである(⑨)。
 昭和63年(1988年)に愛媛県下一斉に行われた巨樹・巨木林調査のデータの中に一宮神社のクスノキのデータもあり、それによると、胸高での幹周1m以上の巨木は、28本記録されている。大きな台風などによって倒れたクスノキもあり、昭和26年の記録よりも少なくなっている。
 森には天気の良いときには近くの幼稚園の園児たちが散歩や小遠足でよく来ている。また、金子小学校では校歌にも歌われており、写生大会が毎年行われている。子供たちの心の中のふるさとの風景にも鎮守の森が刻み込まれていくことだろう(写真2-1-19参照)。

 (ウ)森を調べて

 **さん(新居浜市東田 昭和3年生まれ 68歳)
 新居浜市の生涯学習センターでは、生涯学習大学を開設しており、その中で「郷土の自然ウォッチング」という講座を新居浜市「市民の森学習館」指導員の**さんが担当しており、一宮神社のクスノキ群の観察会を、この5年間続けている。**さんに、観察会の様子を聞いた。
 「新居浜市では、唯一の巨樹群ですから、市民の人たちに直接接していただいてその生命力を肌で感じてもらって、自然保護の意識を高めてもらいたいと思いまして始めました。今年は、6回の講座のうちの一回として、楠若葉といって、クスノキの新緑のきれいな5月9日に行いました。講座では、各班に分かれまして、一番楠を除いたクスノキを近くの小学校で借りた巻尺で胸高での幹周を測定し、大きなグラフ用紙にシールで各班のデータを記録していき、正確なデータとの誤差を確認しています。ほとんど誤差はないんですが、本物の自然を自ら測定し、それが正しかったらやっぱり大人も子供も関係なくうれしいようで、大変喜んでおられます。」
 昭和45年(1970年)には、新居浜市でも公害問題がクローズアップされた。当時の様子などを、**さんは、次のように語った。
 「昭和45年ころ、私は新居浜市の小学校の教師をやっていたんですが、新居浜市内にアルミニウム製造過程で発生するフッ化水素による公害問題が発生したときに、フッ化水素と植物との関係に興味を持ち、いろいろと調べました。その時は、一宮神社のクスノキ群はほとんど影響なかったようですね。クスノキなどの常緑樹はわりと公害に強いんです。
 わたしらが小さいころは、近くの山を里山と言ってみんなで守っとったわけです。というのは、燃料のためにマツやスギの落葉を採ったり、雑木を切ったりしていたので、マツタケなどのキノコがたくさん生えていたんです。ところが、戦後、石油などの化石燃料が主流になってくると、里山を人が大切にしなくなり、山を掃除しなくなったり、ゴミ捨て場になったりで、有機物が多くなり過ぎてキノコ類が生えなくなってしまったんですね。最近、大気の清浄化や生態系の保全とか、精神的な面でも自然を大切にしていこうという風に意識が少しずつ高まってきたようですね。」

 イ 杜(もり)から見た街

 (ア)杜への道

   a 村の祭り

 一宮神社といえば、勇壮な太鼓台(たいこだい)を連想するが、『西条誌』(文政7年〔1824年〕西条藩による)によると、昔の太鼓台は神輿太鼓(みこしだいこ)と呼ばれ、神輿の行列に供奉(ぐぶ)して静かに行動し、どこまでも神様のお伴の道具とされていて、単独行動など一切しなかった。また、太鼓台の他に、御船、台尻(だんじり)等があったが、現在では、豪華けんらんな太鼓台のみが伝えられている(⑨)。大正時代から昭和10年代までのお祭りの様子を**さんに聞いた。
 「市制をしく(昭和12年〔1937年〕)までは、新居浜町と金子村が一宮神社の氏子(うじこ)だったのでこの二町村が中心でした。宮出(みやだ)しのあと、馬に乗る神主を先頭に、地元の氏子たちが担ぐ神輿(写真2-1-20参照)が続き、その後ろを太鼓台が続くというふうにして、各区ごとのお旅所(たびしょ)を回っていました。御旅所では、神主がお神楽(かぐら)をあげていました。神主の乗る馬は、近所周りの農家でよく飼っていたので、それを使っていました。宮入(みやい)り前の最後のお旅所だった今の久保田(くぼた)町の東川の川原で、神輿は先にお宮に帰っているんですが、太鼓台は金子の4台と新居浜の4台が残ってかき比べをしていました。かき比べは、並んで統制のとれた動きや力強いかき方を競ったりするんです。わたしが子供のころに一度、かき比べの時、川原ですから石を投げあってけんかしたことがありました。その時はたくさんけが人がでましたね。市制がしかれてからは、一宮神社の境内で行われるようになりました。
 境内では、南の端の大鳥居から、クスノキの根っこの所の両側にびっしり御本殿の前まで出店が出ていました。出店は、食べ物屋(タコ焼きや太鼓饅頭)・見せ物(のぞき)・金魚すくいなどがありました。」神主が馬に乗っていく姿は、昭和35年(1960年)ころまでは見られた。神輿と神主は朝8時に神社を出て、9つの御旅所を回って、午後2時には神社に帰って来ていた。

   b 青年団の「ばとこわり」

 一宮神社の参道は、村人たちの生活の場としても使われていた。最近は、商店街や大手スーパーもできたためその意義が失われてしまった市(いち)の思い出を、**さんに聞いた。
 「宮(みや)の市(いち)といって、毎年旧の8月12、13日に、農具や日用品を売る特別な市が立っていました。『宮の市の粟餅(あわもち)』言うたらここらへんでは有名で、『粟餅食べに行こや。』いうてよう来よりました。昭和30年代までは、お宮から青年団に頼まれて、『ばとこわり』いうて、市(いち)に出す店の場所割をして、料金を決めて集金したりして仕切っていました。四国一円から行商人が寄ってきまして、早い人は前の日の朝あたりから準備していました。出店は、参道のクスノキの根元の周辺に出していました。青年団でも粟餅を作って売ったり、このあたりの家には、半ば強制的に売りに回っていました。」
 現在は、宮の市はやっていないが、神社としてのお祭りは「かしわ祭り」として、残っている。

 (イ)杜に住んで

 **さん(新居浜市一宮町 昭和22年生まれ 49歳)
 一宮神社の神主である**さんに、変わらぬ杜の保存の苦労話や神社の中から見た街の生活の移り変わりを聞いた。

   a 杜を守って

 「一宮神社の境内は、小さい川で仕切られており、昔とあまり変わっていません。ただ、まっすぐ南に伸びる表参道は、市役所前に通じる平和通りによって、北と南に分断されてしまいました。また、以前新居浜町から別子銅山への道になっていた登道も、一宮神社の回りは湿地であったために、家があまりありませんでした。今は、平和通り沿いの鳥居を新しくやり直しました。これを大鳥居と言いますが、道が抜けるまでは、南の端にあったのが大鳥居でした。表参道の分断された南の端は、祭りの時はお旅所になりますが、普段は子供の遊び場や老人の散歩道になっています(写真2-1-21参照)。
 クスノキの葉っぱの伸びの悪い年に、住友化学さんが化学肥料を20袋(1袋が40kg)ずつ4、5年続いてくださったことがあります。その後、市役所からもいただいたこともあります。ここらは地下水が豊富ですから、水をよく吸うクスノキの成育にとってはいいんじゃないですか。
 クスノキには、テングスムシ(*6)がたくさん発生することがあります。ぼくらの子供のころ、木からぼたぼた落ちていましたよ。昭和30年(1955年)前後に消防自動車のホースで、殺虫剤をまいてテングスムシを駆除したことがありました。わたしもテングスムシを、酢につけてテグス(釣り糸)をとって、魚釣りをしたことがありましたが、あまり強い糸ではなかったです。クスノキは、虫があまりつきにくいんですが、この虫だけがつくんです。最近は、この虫もわいていないんですが、そのうち自然の摂理でわいてくるんではないですか。クスノキの葉の清掃は春の4月から5月が、たいへんです。花が出来てたくさん落ちる7月は、花が細かいので砂つぶと混じってしまいとりにくいです。普段の日でも、毎日御奉仕で4人の方が清掃に来ていただいており、わたしらが途中から手伝いに入って汚れたところを中心にやって、7、8名で半日はかかります。集めた葉や枝は、一部は神社のやぶにまいたり、焼いたりします。枝打ちは、去年(平成7年)の春先やりましたので、来年(平成9年)の春には南の方をやらんといかんのです。周りに家が建ち混んできましたので、枝が伸びて屋根をたたきだしたら屋根をいためますので仕方なくやっています。だけど、国指定の天然記念物ですので、大きな枝を切るときには、窓口としての愛媛県教育委員会に写真と一緒に申請書を出して許可をもらわないといけないんです。
 クスノキ以外の珍しい植物は、下草が減少してきたのと、蚊(か)の発生を防ぐためというので下草を刈ってもらったときに、根っこから切られてしまったりして割と少なくなってきました。お祭りの時に、クスノキに登ったりして太鼓台を見たりします。最近は注意していますのでないですが、昔はクスノキを伝わって神社の屋根に登って見る人もいました。やぶには、イタチもおります。また、野良ネコが多いときは、イヌが少ないし、イヌが多いときにはネコが少ないということがありまして、今は、ネコが多いです。鳥は、ムク・フクロウ・ハト・カラス・スズメなどがいますし、ゴイサギも少なくなりましたが、今でも巣を作っています。」

   b 杜から見た世相史

 神社の儀式や作法はほとんど変わりはないが、周りに住む人々の生活様式は大きく変わってきている。そこで、その変化を、神社の儀式を通して話を聞いた。
 「最近(平成8年)は、結婚式を神社でしたいという若者も多くなり、年間20~25組くらいは平均してありますかね。披露宴は、別の所でされています。11月15日の七五三(しちごさん)のお祓(はら)いは、毎年500人ぐらいはやっています。最近は、男の子の方が多いです。女の子は年々派手になっています。それと、お参りに来るのが15日の前後の土日に多くなってきたです。赤ちゃんの初参りは、毎年300人ぐらいはあります。少子化の時代ですが、昔からそれほど数は変わっていないです。子供が少なくなった分、子供一人一人にお金をかけるようになったからじゃないですか。正月の初詣は、午前零時からのお参りが少なくなってきました、そのかわり1日、2日のお昼に集中するようになってきたのと、お参りする時間も短くなってきました。お賽銭(さいせん)の総額は下がってきました。不景気な時ほど、お参りのお客は多いんですが、お賽銭の額は少ないんです。景気のいい時は、お参りのお客は少ないんですが、お賽銭の額は多いんです。また、変わったお参りとしては、鳥獣慰霊祭で鳥やイノシシの霊を祭るのに猟友会とかクレー射撃協会が一体となって11月の解禁日前に猟の安全と慰霊を兼ねて御祈禱されますし、フグの供養祭といって2月9日に料理店の方々が御祈禱されます。1月に新居浜市の交通安全協会が一年間の交通安全を祈願されますし、漁師さんは1月10日に十日えびすという形で恵比須祭をしますし、各企業でも始業式という形で毎年行っています。ただし、住友五社の新年式には、越智郡大三島町の大山祇神社より大山積大神を勧請(かんじょう)した角野(すみの)の大山積神社に出張していきます。まあ、8月から9月にかけてが少し暇になるぐらいで、後の月はこれ以外に神社としての何かのお祭りや行事が入っていますので、結構忙しいですね。町は大きく変化していったんですが、氏子の方々が神域を大事にしていただいてきたので、神社はあまり変わらなかったんではないでしょうか。また、今後も変化がないようにしていかないといけないと思っています。」


*5:金子村は農村で、細い芋をスジイモと言い、新居浜町は漁村で、小魚をジャコと言って、互いにけなしあっていた(⑪)。
*6:ヤママユガ科のクスサン(楠蚕)の幼虫で別名「シラガタロウ」とも言う。成虫は、開張10~12cm、黄褐ないし紫褐
  色、各翅に一つずつの眼状紋と数本の波状線がある。

写真2-1-19 一宮神社の境内

写真2-1-19 一宮神社の境内

平成8年10月撮影

写真2-1-20 一宮神社の御輿

写真2-1-20 一宮神社の御輿

平成8年10月撮影

写真2-1-21 分断された南参道

写真2-1-21 分断された南参道

平成8年10月撮影