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愛媛の景観(平成8年度)

(1)開拓にかけた人生

 ア カルスト高原にかける

 **さん(東宇和郡野村町大野ヶ原 大正10年生まれ 75歳)
 **さんは、戦後いちはやく大野ヶ原に入り、以後、現在まで一貫して開拓のリーダーとして、大野ヶ原とともに歩んできた。

 (ア)山に入る

 「周桑郡庄内村(現在は東予市)で生まれたわたしは、昭和14年(1939年)大きな夢を抱いて、大陸(旧満州、現在の中国東北地方)に渡ったが、夢なかばにして、昭和21年(1946年)日本に帰ってきた。
 帰り着いた日本は、人の心は乱れ、弱肉強食の様相を呈しており、これからどのように生きたらよいのか、ずいぶん悩んだ。そのとき、わたしは、中国でロシア人が乳牛を飼うのを指導した経験があったので、『国破れて山河あり』で、戦争には負けても山はあるだろうから、山を開拓してやろうと思い立ち、県庁(*27)に相談に行った。そこで小学校時代の恩師と出会い、大野ヶ原の話を聞かされ、現地調査に参加した。中国では大平原に住んでいただけに、最初は猫の額みたいにせまいとがっかりさせられたが、ススキとクマザサが繁茂しているのを見て、これならば自分が考えている牧畜ができるのではないかと思い、これからの人生を大野ヶ原に捧げようと決意した。そして、その年の5月、当時開拓者養成の目的で松山市東野につくられていた開拓訓練所の第一支隊の支隊長として、ふとんとリュック1個だけという軽装で、隊員15名とここにやってきた。開拓用地は、わたしたちが入る前に、地元の警防団が国有林の一画を1町6反(1.6ha)ばかり火入れをしてくれていた。
 大野ヶ原は、それまで無人の荒野で、気象状態やどんな作物が適しているかなど、何もわからなかったので、まず、松山の測候所から観測器具を借りて気象観測(*28)をするとともに、試作農場を作り、農作物の試験を始めた。わたし自身は、最初から牧畜をやりたかったが、当時は食糧難の時代で、開拓そのものが食糧増産を目的としていたので、とりあえず、トウモロコシ、大豆、小豆、陸稲、ライ麦などの雑穀栽培をやった。しかし、標高の高い寒冷地だけに冷害や台風の被害が大きく、少しばかりとれた歯抜けのトウモロコシを、カナヅチで割ってごはんに混ぜるというような状態で、十分な収穫は望めなかった。
 食糧は配給を受けていたが、若い血気ざかりの隊員ばかりで、腹一杯食べないと満足できず、フキ、ウドなどの野草や野イチゴなどを食べたりしていたが、それでもいつも栄養失調気味だった。飲料水も、カルスト地形のため乏しく、小松池(ドリーネの底に粘土が堆積し、水がたまった池。写真1-1-12参照)のたまり水を使った。番茶みたいな色で、夏はオタマジャクシがウジャウジャしていた。それを追い払っては水をくんでいたが、暗がりの中でくんだりすると、お茶やごはんの中にオタマジャクシが入っていることもしばしばあった。
 住居は、最初は大きなテントを2張り張って、そこで生活をした。しかし、やがて梅雨に入ると、テントでは住めなくなったので、龍王(りゅうおう)神社のお宮に修験者などといっしょに寝泊まりしながら、現在の農協の近くに10坪ほどの家を建て始めた。床下には、舟戸(ふなと)川から運び上げた薄い石を敷き詰めて、オンドル(*29)も作った。完成したのは12月の中ごろで、さっそくオンドルに火を入れたが、最初のうちは、炊き口近くは床がこげるくらいに熱いのに、端の方は霜柱が立つくらいに寒かったのを覚えている。
 最初の越冬は、交通も途絶え、食糧も不十分で、悲壮な気持ちだった。軒まで雪が積り、水くみにもいけなくなり、窓から雪をすくって、それをとかしたこともあった。こうした山でのきびしい生活の中で、隊員たちは夢と現実の生活の隔たりに耐えられず、一人去り、二人去りして、越冬したのは、入植を希望している隊員4名と気象観測員、それにわたしの6名だけだった。翌春、明るい日ざしの中で迎えた雪どけのうれしさは格別だった。」

 (イ)山を開く

 「昭和23年(1948年)開拓増産隊(*30)が解散となり、農林省の実験農場に看板替えした。それと同時に大野ヶ原でも7戸の実験農家を入植させ(増産隊員2戸と新規希望者5戸)、わたしは、常駐営農指導員の肩書のもと、実験農場の経営を担当することになった。
 昭和25年には農林省から認可されて正式に開拓地になり(*31)、入植者には4町(約4ha)の土地と1反(0.1ha)の宅地が割り当てられることになった(*32)。入植者は、市町村を通じて募集したが(図表1-1-14参照)、応募者が第一次募集の30戸に達しなかったため、申し込んだ者は、即入植適格者として入植が認められた。しかし、申し込み者の中には、土地が安くもらえるとか補助金が出るなどの甘い言葉に誘われて、安易な気持ちで申し込んだ者もおり、一度も現地へ顔を見せなかった者や数日で下山した者なども出た。
 入植後数年間は、道路もなく、電気もなく、飲料水にも事欠く(*33)ような生活環境にくわえて、国の食糧増産政策に基づき、雑穀栽培中心の営農経営が取り入れられたため、強酸性(pH4~5)で生産力の低い火山灰土に、冷害や台風の害が重なり、収穫は見るべきものがなかった。ただ、ダイコン(美濃早生大根)だけは良質のものがとれたが、これも道路がないため出荷できず、ふもとの四万川(しまがわ)(高知県梼原(ゆすはら)町)や小屋(野村町)などの集落まで急な山道を背負って運び、少しばかりの食糧や日用品と交換したりしたが、生活は極度に困憊(こんぱい)した。その結果、営農資金も生活費に消え、種子を食用にまわす家も出た。要保護家庭が全体の80%に及び、開拓意欲は著しくくじかれ、離農者が相次いだ(図表1-1-15参照)。わたし自身も、何度か意志がくじけそうになったが、開拓地のリーダーとして、大野ヶ原の将来性を力説し、夢を語り続け、辛抱を説き続けてきただけに、後半生をここにかける気持ちでやらねばと、自分に言い聞かせながら頑張った。
 昭和29年(1954年)待望の道路が開通した。雨が降ると、ぬかるんで車の通行がままならないような状態だったが、それでも開拓地のくらしは、大きく変わった。翌30年には電気が通じ、それまでのランプ生活から解放されるとともに、ラジオが聞けるようになり、一躍文化生活を楽しむことができるようになった。(*34)」

 (ウ)ダイコンから牛へ

 「車が来るようになったおかげで、ダイコンが出荷できるようになった。病虫害もなく、しかも、平地よりも早い8月に収穫できたので、松山や高知などの市場で、『大野ヶ原大根』の名で引っ張りだことなり、反当たりの収益は、平地の水田と変わらないくらい高いものとなった。まさに『大根様様』で、これによりみんな息をつくことができたが、やがて生産過剰になり、青果では処分ができなくなった。そこで、急きょ漬物工場を建設し、酒屋から古い酒樽を譲り受けて、タクワン加工を行ったりもしたが、加工賃を差し引くと、あまり収益はなかった。
 大根は連作をしていると、病気が出て質が低下する。そこで、今のうちに何か対策を講じなければならないと思い、時期早尚の声もあったが、昭和34年(1959年)乳牛の導入に踏み切ることにした。当時、各家とも黒牛(黒毛和種)を育てていたので、それを全部売って京都の丹波(たんば)まで乳牛を買いに行った。わたしの計算では、黒牛2頭に対してホルスタイン1頭の計算だったが、たまたまホルスタインが値下がりしたため、ほぼ1対1の比率でホルスタインを40頭買うことができた。やっと確保した貨車に牛とともに乗って、わらを積みこんだり水を飲ませたりしながら、4日がかりで大洲まで連れて帰ったときには、顔は蒸気機関車の煙で真っ黒だった。翌年、県から資金を出してもらい、さらに30頭を導入した。牛乳を出荷する場合、量が少ないと、運送費が高くなり、採算がとれない。わたしの計算では、その採算ラインが70頭であった。
 わたしは、最終的には酪農80%、大根20%というような構想を持っていたので、大根にこだわる家にも、強引に乳牛を割り当てた。しかし、いざ酪農を始めてみると、飼料基盤がないため、牛が成育不良になったり、酪農に必要な高い飼育技術にそぐわない農家がかなり出たりした。そのため、牧草地の改良に努める一方で、大根と育成牛(牝(めす)の子牛を育てて、妊娠させて酪農家に売る。)の兼業を考えざるをえなくなった。ほかにも、当時の問題点として冬季の牛乳の輸送があった。ブルドーザーを導入し、積雪時にも道路を確保するように努めてはいたが、昭和38年(1963年)の豪雪時には、完全に孤立してしまった。牛乳を負い子で背負ったり、木製のソリに乗せて下まで運んだりもしたが、最後は雪の中に流した。酪農が苦農であった時代である。
 わたしもはじめは酪農をしていたが、開拓農協の組合長として外の仕事が多く、人手が不足することから育成牛に切り替え、さらに昭和47年(1972年)ころからは、乳牛の牡(おす)牛の肉が売れるようになったので、生まれた牡牛の肥育をするようになった。現在は、肉牛を180頭ほど飼っている。牛肉の輸入が自由化されてからは、いい肉をつくらなければ採算がとれないので、全部黒毛和種に切り替えた。放牧はせず、畜舎で1桝に8頭ずつ入れて飼育している。飼料は牧草のほか、トウモロコシや大麦、フスマ、大豆粕などを購入し、それを攬伴(かくはん)機(一度に1t以上が処理できる。)で配合して与えている。
 牛は、生後9か月くらいのものを購入して、1年半くらい育てて出荷する。購入したときの体重は250~280kgくらいだが、出荷時には600~700kgくらいになっている。わたしのところでは、月に2回、一度に5頭ずつ大洲市春賀(はるか)にある経済連の食肉センターに出している。また、3か月に二度、一度に2桝分(16頭)ずつ、鹿児島県(曽於(そお)郡、ここに全国有数の家畜市場があり、毎月市が開かれている。)から購入している。牛の輸送は、現在はトラックで行っており、昭和34年に、乳牛を貨車で丹波から連れて帰ったことを考えると、隔世の感がある。
 現在、大野ヶ原には22戸がくらしている。酪農をしている者が14戸、ダイコン・蔬菜(そさい)・花卉(かき)などの専業が3戸、肉牛が1戸である。幸い、ここはみな後継者がおり、ほとんどの家が2代目の時代に入っている。わたしも今では経営を長男に譲り、のんびりさせてもらっている。わたしが初めて大野ヶ原に足を踏み入れて以来、風雪50年。ようやく乳牛が緑の草を食む、牧歌的な風景が実現した。思えば長い遠い道のりだった。」

 イ 酪農にかける

 **さん(東宇和郡野村町大野ヶ原 昭和4年生まれ 67歳)
 **さんは、大野ヶ原に入植以来、原始林を開拓し飼料畑や牧野の造成につとめ、酪農で県内トップクラスと言われるほどの営農実績をあげる(⑰)にいたった。

 (ア)牛を育てる

 「わたしが大野ヶ原に入ったのは昭和24年(1949年)で、酪農を始めたのは昭和34年(1959年)のことである。最初は牧草がなかったので、クマザサを山から刈ってきて飼料にしていた。だから、『大野ヶ原の牛は、尻に角があるのか、頭に角があるのかわからん。』と獣医に言われるくらい、やせて骨ばっていた。そこで、生活をダイコンで支えながら、飼料基盤の整備を進めるため、原野を開墾し牧草を植えた。今振り返ってみると試行錯誤の繰り返しで、とても計画性のあった開拓とは言えず、ずいぶん高い授業料を払ったような気がする。
 現在わたしのところには、40頭の成牛と25頭の育成牛がいる。全部自家製で、小さい時分から育てており、牛に対する愛情は深い。それぞれ個性があり、えさをやると、まず隣のえさを先に食べ、それから自分の前のものを食べるような牛もいる。
 牛は、以前は自由にさせていたが、今は畜舎につないでいる(写真1-1-14参照)。つなぎ飼いでは、運動不足から牛の足が弱くなることがある。大野ヶ原の場合は、初産までは外で放牧されているので、下(平野部)に比べるとその割合は少ないが、足は重量がかかっているだけに、牛にとっては致命傷となることが多い。また、紫外線に当たらないことからビタミン不足になりがちで、ビタミンの補給も必要である。最近は、ルーズバンとよばれる、牛をえさで習慣づけて、自分で搾乳(さくにゅう)室に入れ、餌(えさ)を食べたら外に出すというような形が増えてきた。わたしのところも、労力的なものを考えると、将来はこうした飼い方に変えていく必要があるだろう。
 乳牛は、普通生後15、6か月で種付けをする。それから10か月すると出産し、乳が出るようになる。出産後60日くらいで再び種付けをし、以後、出産、種付けを繰り返す。わたしのところでは1頭の牛が、平均5、6回出産している。
 牛乳は温泉郡川内町の酪連の工場に出している。毎朝4時ころ、大型のタンクローリーが牛乳を集めに来る。大野ヶ原全体では、1日に8t近く出しているのではないかと思う。ここの牛乳は、カルストの高原牛乳ということで、1ランク上の評価を受けているが、乳質には特に神経を使っている。乳質は、細菌数(清潔さ)、脂肪、無脂固形(これが牛乳のこくとなる。)、タンパクなどで左右され、牛の体質や管理により変わるので、酪農には細かい配慮が必要である。
 酪農家の朝は早い。5時半(夏は5時)に起き、牛に飼料をやったり、バルククーラーの洗浄をしたりして、6時ころから搾乳を始める。搾乳は機械で行い、約1時間で終わる。それから畜舎のそうじをしたり、濃厚飼料を与えたりして、人間の朝食である。夏(5月下旬~10月下旬)は、それからサイロづめである。夕方になると、5時くらいから飼料をやり、6時半ころから搾乳を始める。搾られた牛乳は、バルククーラーに集められて4℃に保たれるので、乳質は全然かわらない。夕食はだいたい8時を過ぎる。だから、酪農家の夜の会合は、いつも8時半からになっている。
 かつては、1頭の牛が1乳期(305日前後)に出す乳量は5,000kgくらいだったが、最近は牛の能力が高くなり、7,000kgから8,000kgくらい出すようになった。それだけ、牛が自分の体を傷めているということなので、その分、質のよい飼料を与えないといけない。3年前の長雨のときは、サイロの状態が悪くなり、飼料の質が低下したため、その後遺症として、一昨年、相当の牛が体調を崩した。
 質の良い飼料を作るということは、基本的には、土をいかに作るか、ということである。土の中の栄養分を草が吸収し、それを牛が食べ、さらにそれが牛乳となって人間に入る。だから、牛作りの前に土作りが大事となる。その点、大野ヶ原の土は、これだけ石灰岩があるにもかかわらず、雨が多いのでpHが高く(酸性)、石灰類を十分に補給してやらねばならない。ただ、牛、特にホルスタイン種は寒さには強いが、暑さに弱いので、下の方で問題になる夏バテ対策については、ここではあまり考えなくてよく、年中コンスタントに乳が出る。」

 (イ)草を育てる

 「飼料は、牧草と配合飼料を使っている。牧草は刈り取ると、すぐにサイロづめし、終年サイレージ(*35)の形で与えている。また、牛の能力が高くなり、牧草だけでは限界があるので、購入したトウモロコシと大豆カスなどを混ぜた配合飼料を併用している。購入飼料はほとんどが外国産で、アメリカあたりの穀物の貯蔵が減ってきたということで、値上がり傾向にある。すべて自給というのはむずかしいだろうが、せめて粗飼料だけでも自給できるようにすべきではないかと思う。
 わたしのところでは、牧草として、チモシー、オーチャード、メドフェックス、クローバー、イタリアンライグラスの5種を混播(こんばん)している。これは、永年性で、3、4年に一度更新をしてやればよく、労力も少なくてすむ。それ以外にも、水田ミレット(ヒエ)と冬作でライ麦を作っている。牧草地は13haくらいで、65頭の牛に対しては不十分だが、育成牛を毎年6、7頭カルスト牧場に預けているので、何とか間に合っている。牧草地が20haくらいあれば、飼料の生産から糞尿(ふんにょう)の牧草地への還元まで、理想的な畜産経営ができるようになると思う。スイスあたりでは、公害防止のため面積あたりの頭数の限界を設定し、糞尿は必ず畑に還元するというシステムを作っていると聞いている。ここでも最近は道路が整備されて、お客さんが増えてきた。夏場にはわざわざ野菜を買いに来る人もいるほどで、畜産と観光をどのように調和させていくかが今後の問題だと思う。畜産農家にとっては家畜が生活の糧であることに変わりはないが、これからは生産物の販売など、観光を視野に入れた経営も必要になるのではないだろうか。
 牧草が伸び始めるのは、4月中旬ころからである。5月中旬には、ライ麦を刈り取ってサイロづめをし、そのあとに水田ミレットをまく。6月上旬ころから1回目の牧草の刈り取りとサイロづめが始まり、8月上旬ころから2回目が始まる。9月には水田ミレットを刈り、サイロづめをする。牧草の3回刈りをする場合は、10月上旬ころに行っている。牧草は、開花前後が一番栄養価が高く、牛の嗜好性(しこうせい)も強いので、その時期に刈り取りができるかどうかが最大のポイントである。
 牧草は、2本のサイロに70tくらいつめ、あとはロールベーラー(*36)の形で保存している(写真1-1-15、16参照)。以前は、サイロづめは家族総出で一日かけて、3、40a分の牧草がいいところだったが、今はロールベーラーになったので、1人が1日に2haくらいは処理できるようになり、浮いた労力で野菜を栽培する農家が増えてきた。ただ、大型機械の導入が草を傷め、成長を阻害するようになったのは問題である。
 開拓第一世代はすでにほぼ引退し、今は第二世代が中心になっている。幸い大野ヶ原ではほとんどの家に後継者がいる。若い者がここで頑張ろうとするのは、ここには広い土地があり、将来に希望が持てるからではないかと思う。苦労した親の背を見て育ったということも大きいだろう。とは言え、今の酪農は、昔のように鍬(くわ)と鎌でやるわけにはいかない。昔のようなことをやれと言っても、だれも残るまい。若い後継者が定着するには、やはり投資が必要である。現在、酪農を取り巻く環境は、生産調整や国際的な競争の問題など、なかなかきびしいものがあり、投資をしても投資効果があるかどうか、疑問もある。しかし、国内の牛乳の消費量は伸びており、しかも、生乳だけは外国から来ないという強みがある。下の方では公害問題で牛が飼えないという状況も起こりつつあるが、その点もここはまだまだ将来が明るい。また、冷涼な気候も下にはない強みである。若い人たちには、このめぐまれた条件を生かし、わたしたちが大野ヶ原に追い求め続けた大きな夢を、さらにふくらませるために頑張ってほしいと願っている。」


*27:開拓事業に関する事務は県では農務課経済更生係が担当していたが、昭和21年7月末、経済部開拓課が設置された。ま
  た、開拓事業の直接担当機関として、知事を支部長とする農地開発営団愛媛県支部があり、県経済部長や農務課長が要職を
  兼務していた(⑰)。
*28:年平均気温は9.5℃(最低気温は-18.1℃、最高気温は29.0℃)、年間の降水量は3,000~4,000mmで、冷涼多雨気候
  である(⑱)。
*29:朝鮮半島北部や中国東北地方にみられる民家の暖房設備。床下に石造の煙道を設け、一方の炊き口から火をたいて、床
  全体を暖める。
*30 : 昭和17年に設立された食糧増産隊が昭和21年に名称変更された(⑰)。
*31:昭和24年に、作成された開拓計画書によると、面積は747.7haで、120戸の入植を計画している。昭和24年から29年ま
  でに開拓計画書が作成された県下の開拓地の中では、最も大規模である(⑰)。
*32 : 土地は入植者に売却され、年賦で償還されたが、8年以内に80%以上を農地化することが義務づけられていたため、そ
  れが守られていないとして離農勧告をせざるをえない家も出た。
*33 : 水道ができ、完全に水の心配がなくなったのは、昭和33年(1958年)である。
*34 : 昭和34年には、学校にテレビが入り、火曜日と金曜日の夜には、一般に公開された。また、37年には組合に冷蔵庫が入
  り(精液貯蔵用)、39年ころから個人の住宅にも入り始めた。洗濯機は、37年に入っている。なお、学校については、昭
  和27年に惣川村立小松小学校と惣川中学校大野ヶ原分校ができ、これが33年にそれぞれ野村町立大野ヶ原小・中学校に
  なった(⑱)。
*35:牧草、青刈り作物など、高水分の飼料をサイロの中で乳酸発酵させて貯蔵したもの。
*36:牧草を刈って、集めて、ある程度乾燥させて巻いてラッピングしたもの。1つのラップが乾燥重量で300kgくらいで、
  完全に密閉しているので、サイロにいれているのと変わらない。作業は、すべて機械で行う。

写真1-1-12 小松池

写真1-1-12 小松池

かつては水をたたえていた小松池も、最近は水がなくなってきている。平成8年11月撮影

図表1-1-14 大野ヶ原入植者の出身地(都市別)

図表1-1-14 大野ヶ原入植者の出身地(都市別)

『大野ヶ原開拓誌(⑱)』より作成。

図表1-1-15 入植戸数と離農戸数

図表1-1-15 入植戸数と離農戸数

『大野ヶ原開拓誌(⑱)』より作成

図表1-1-16 大野ヶ原における牛乳とダイコンの収益

図表1-1-16 大野ヶ原における牛乳とダイコンの収益

『大野ヶ原開拓誌(⑱)』及び野村町農協の資料により作成。

写真1-1-13 大野ヶ原(小松地区)

写真1-1-13 大野ヶ原(小松地区)

遠景は源氏ヶ駄馬。平成8年11月撮影

写真1-1-14 **さんの畜舎

写真1-1-14 **さんの畜舎

平成8年11月撮影

写真1-1-15 刈った牧草を集めるトラクター

写真1-1-15 刈った牧草を集めるトラクター

平成8年11月撮影

写真1-1-16 サイロとロールベーラー

写真1-1-16 サイロとロールベーラー

左側、2本の高い円筒がサイロ、右側、白く7ラップされているのがロールベーラー。平成8年11月撮影

図表1-1-17 大野ヶ原の牛乳生産量の推移

図表1-1-17 大野ヶ原の牛乳生産量の推移

野村農協の資料により作成。