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愛媛の景観(平成8年度)

(2)仰ぎ見る山①

 石鎚山の麓には、様々なくらしがある。ここでは、日々、お山(石鎚山)を仰ぎ見ながら生きてきた人々の姿を通して、石鎚山のもう一つの顔を浮き彫りにしようと試みた。

 ア お山に支えられて-ふもとの平野のくらし-

 (ア)お山は漁師の情報源

 **さん(東予市河原津 大正12年生まれ 73歳)
 「わたしは、長年にわたって燧灘(ひうちなだ)でサワラ網漁に従事してきたが、海を生活の場とするわたしら漁師は、お山に支えられて生きていると言っても過言ではない。
 お山には、5歳のときに祖父に連れられて行ったのが最初で、以後、海軍にいた時代を除いて毎年欠かさずお詣(まい)りを続けている。海軍では特攻隊員として出撃したり、漁に出て、船の故障や大しけに危険を感じたりしながらも、そのたびごとに助かったのはお山のおかげと思い、たいへん尊敬をしている。だから、漁に出るときは、必ずお山の方を向いて拝み、帰ったときも、お山に向かって必ずお礼をいうことにしている。
 わたしら海で生きるものにとって、この河原津とその沖合一帯は、どのような大きな台風が来てもあまり風が吹かず、安全な漁場になっている。よその港に行っているときは、どこからどんな風が吹いてくるかわからず、恐ろしい思いをするが、その点、ここは本当に安心できる。これも、お山が大風を止めてくれるおかげである。
 お山は、わたしたちにいろいろなことを教えてくれる。わたしたちは『南が出る。』と言っているが、お山の向こう(南)側から頂上を越えて雲が湧き出てくると、必ず雨が降り、南西の風がものすごく吹く。また、上空を薄い雲が東から西に、よく目をこらさないとわからないくらいの速さでゆっくりと動くと、やがて大風になる。これをわたしらは『落としが来る。』とよんでいるが、この風は、秋の日暮れ時の、宵(よい)満ちとよばれる満潮のころに、満ち潮といっしょに吹いてくることが多い。昼はきれいに凪(な)いでいても、急に東の風が吹き荒れるので、漁師たちは絶対に出漁しない。わたしは今でも、朝起きるとまずお山を見る。すると、今日はどんな天気になるかがすぐにわかる。これは、自分の生命や生活をかけた長年にわたる経験から必死で身につけた、直感的に閃(ひらめ)く勘(かん)のようなものであって、決して理屈で説明できるものではない。
 わたしの祖父は、初ドン(節分が終わって初めて鳴るドンドロ〔雷〕のこと)がお山の方で鳴ると、サワラやタイが豊後水道から上ってくるので大漁であり、お世田(せた)(*7)の方で鳴ると、播磨灘(はりまなだ)から下ってくるが、このときは漁がない、とよく言っていた。昔の人は、このような経験から得た知識を非常に大切にしていたが、それがまた、よく当たった。昔の人が言っていることは、決してうそではない。
 漁師にとって、お山はヤマアテ(*8)の大切な目標である。わたしは、漁を始めて以来、少しでもたくさんの魚がとれるよう、漁に出た日は必ず詳しい日記をつけ、そこにヤマのさし絵を入れてバ(漁場)を記録してきた。こうして、山と山の重なり具合や離れ具合を頭の中にたたき込み、広い海の中でも、季節や時間、天候などによって、どのバがよく魚がとれるか、どこそこの海底はどうなっているか、などを正確につかめるようになった。わたしらの漁は、網を海に落として(入れて)一度港に帰り、あとでそれを取り(上げ)に行くというものだから、海の上で自分の位置が正確につかめないと、やっていけない。わたしも、最近はあまり沖に出ないが、それでもお山さえ見えれば、今でも網の位置を間違えることはない。これも昔から養ってきた勘だが、お山が見えるからやれることである。お山には言い尽くせないくらいお世話になっている。
 わたしらが今までやってこれたのは、お山のおかげよ。」

 (イ)お山を借景に

 **さん(東予市福成寺 明治44年生まれ 85歳)
 「わたしは、この家で生まれたが、子供のころ父に連れられて外地(日本の旧領土)に出たので、戦前のお山については何も思い出はない。戦後引き揚げて来てこの家に住むようになって、父から『あれが石鎚山だ。』というような話を聞くうちに、お山のことに関心をもつようになった。
 わたしの家の庭は、昭和21年(1946年)ころ父と二人で作った。お山がよく見える庭にしようと思い、なるべく、お山に面した方角には、大きな木を植えないようにした。また、石や木の配置は、お山の位置を考えて決めた。庭そのものはわたしら素人(しろうと)が作ったものでたいしたことはないが、わたしがこの庭を自慢するのは、お山を借景(しゃっけい)としていることで、これが何ともいえずいい。お山が見えるときに来た人は、だれもがすばらしいとほめてくれる。
 ここからは、昔は大明神(だいみょうじん)川の松並木がよく見えた。その向こうに『こうかさん』(玉甲々賀益(たまかぶとかがます)八幡神社)の鎮守(ちんじゅ)の森があり、その森の中にちょこっと神社の赤い屋根が見え、その奥にお山が見えるという、何か日本の農村を代表するような景色だった。松並木が松枯れでやられてしまって、1本もなくなってしまったのは惜しまれるが、そのほかの景色は、わたしが庭を作ったころとほとんど変わっていない。
 ここから見るお山の美しさというのは、稜線(りょうせん)の美しさだろうと思う。見る場所によっては、お山よりもほかの山の方が高く見えるところもあるが、この辺りから見ると、お山が山並みの真ん中になるので、一番高くまことに堂々として見える(写真1-1-3参照)。わたしがこちらに帰ってきたころには、このあたりのお年寄りは、朝起きると手を合わせて朝日を拝み、次にはお山を拝んで、一日が始まっていた。最近はそういう人はいなくなったが、ここから見るお山の姿には、人にそうさせる何かがあるように思う。
 お山が美しいのは、秋から冬にかけてであるが、なかでも、雪をかぶる冬が一番きれいである。雪をかぶった姿はまことに美しく、まるで信州の山々を眺めているようである。雪をかぶっていないところが、時間の経過とともに、青から藍(あい)、藍から紫、群青(ぐんじょう)、さらに鈍色(にびいろ)へと次々に変化し、見ていてあきることがない。雪の白色とのコントラストがとてもよい。
 わたしも今は職を退き、毎日5時間も6時間も庭越しにお山を眺めながら、晴読雨読の生活である。隣の部屋には、一人の老人が松の木の根もとに寝転がっている掛軸(かけじく)を掛けているが、これがまさに今のわたしの心境である。朝起きたら、まずお山が一番よく見える特等席に座る。今日は見える、今日は見えないなどと言いながら一服やって、それから朝ごはんである。そのあとも、一日中お山と向かいあいながら、きままに過ごす。これほどのぜいたくはないと思う。お山が見えない日はやはりさびしい。
 今は、前の田に家が建たないことだけを願っている。お山が見えなくなったら、この家の良さがなくなってしまう。」

 (ウ)お山詣りの思い出

 **さん(東予市周布 大正2年生まれ 83歳)
 「わたしが、初めてお山に登ったのは昭和6年(1931年)のことだった。お山へは、『一度は来い。二度来るな。二度来るなら、年々来い。』と言われ、男と生まれたら、一度はお山に詣らなければ、という空気が強く、父にも『一度はお詣りさせてもらわないかんぞ。』と言われていた。
 お山詣りの準備として、まず、近くの密乗院(みつじょういん)というお寺に10銭持っていき、1文銭(寛永通宝。1銭で10文。)と換えてもらった。これは、オハライ銭とよばれ、お山でやむを得ず大小便をしたときに、その場においてくるためである(*9)。
 出発当日は、誘い合わせて壬生川(にゅうがわ)の浜に行き、海水で禊(みそぎ)をした。いったん垢離(こり)をとると、汚れたらいけないということで、決して畳の上には上がらせてもらえなかった。白装束を着てわらじをはき、予備のわらじを1足腰に下げて、午後2時ころ先達(せんだつ)に率いられて出発した。その日は、小松町の大頭(おおと)から湯浪(ゆなみ)を経て横峰(よこみね)寺まで行った。今と違って道路もなかったので、一生懸命歩いても、到着は午後の5時半か6時くらいだった。そこでお参りをして、夕食に持参した焼いた握り飯をいただき、お通夜をした。当時は、握り飯や白装束の準備は母親にはさせず(*10)、祖母か父親がすることになっていた。わたしのときは、祖母がしてくれた。
 翌日は午前2時ころに起きて、横峰寺を出発し、モエ坂を下った。途中、大きなオンビキ(カエル)につまづいたり、1尺(約30cm)もあろうかという青ーく光ったミミズをまたいだりしながら、加茂川の谷に下り、そこから黒川まで登った。黒川には行場があり、ここでまた、先達の命によって水垢離をとった。7月はじめの夜も明けきらないときで、水はたいへん冷たく、心身ともにシャンとしたのを覚えている。そのあと、朝食をいただいて、いよいよ本格的に坂を登り始めた。
 成就社で一服すると、いよいよ、頂上を目指すことになるが、当時は、成就社から上は女人禁制(*11)だった。お山詣りでは、道々、『ナンマンダ』『ナンマイダンブ』などと唱えたり、行き交う人々に『お上りさん』『お下りさん』などと声をかけあったりするが、試しの鎖のある前社ケ森(ぜんじゃがもり)(*12)(写真1-1-4参照)では、先達から『ここは無言の場所だから、ものを言うな。ここには天狗がいて、ものを言うとつまみ落とされるぞ。』などときつく言われて、全員が黙って歩いた。一の鎖の下で、今まではいてきたわらじを脱ぎ、新しいわらじにはきかえて、古いわらじはそこに1文銭とともに置いておいた。みんながそうするので、わらじの大きな山がいくつもできていた。
 帰りは、同じ道を帰った。日中暑いときにモエ坂を登るのには弱った。午後2時ころには横峰寺にもどり参拝をした。小松町の大頭まで帰ると、家族らが握り飯などをもって坂迎え(*13)に来てくれていた。当時は、あんな高い山から無事で帰れたのは不思議だと思うような時代だったので、みんなが『元気でようもんた(もどった)。』と喜んでくれた。そこで握り飯などを食べて腹ごしらえをして、周布(しゅう)へ帰った。家に帰り着くのは夕方で、お山をかけてきた汚れたわらじのままで畳の上に上がって、家中歩き回った(*14)。わらじは、その後も破れるまで田んぼに行ったりするときに、はかせてもらった(*15)。お山の土産はシャクナゲやニッケ(*16)などで、これを近所に配った。お山柴とよばれるシャクナゲは、葉を1枚ずつカヤの芯(しん)にはさんで田んぼの水口に立てて、虫除けにした。
 昔は、お山に登る考え方が、今とは根本的に違っていた。わたしが登ったころは、お山は、村の男がだれでも一度は登らなければならないところであり、『これから先、元気で無事過ごさせてくださいますように。』という信仰一筋の気持ちからだった。わたしは今も、初めてお山をかけたときの杖を大事に持っている。あれ以来、わたしは、ずっとこの杖に支えられてきたと思っている。」


*7:世田山(標高339m)。東予市・今治市・越智郡朝倉村の境にあり、来島海峡、今治平野、周桑平野が一望できる要衝の
  地で、中世には城が築かれていた。
*8:漁師たちは、広い海上で自分の位置を決めるのに、ヤマを利用してきた。ヤマとは、陸にあって目標となるもので、その
  2点を一直線に見通し、さらにこれとは別の2点を同じように見通し、その二つの線の交わりによって、自分の位置を決定
  した。これを、ヤマアテ、ヤマミ、ヤマダテなどとよぶ。一般によく使われる「ヤマをかける」とか、ヤマカンなども、こ
  のヤマから来ているといわれる(⑤⑥)。
*9:昔は、頂上での大小便は畏れおおいということで、鎖を登る前に用をたすのが一般的であったため、鎖の付近には、それ
  がおびただしく山のようになっていたといわれ、お山開きのころ山に降る大雨のことを「お山のおおぐそ流し」とよんだり
  していた(⑦)。
*10:石鎚信仰に関しては、女性に関する禁忌が多かったが、その底には、生理のある女性はけがれているという考えがみら
  れる。
*11:戦後の男女平等の考え方を受けて、昭和21年(1946年)6月30日から激論を戦わせた結果、7月4日になって、7月
  6日からは女性の登山を解禁することが決められた。その後、昭和36年(1961年)からは禁制期間を7月1日と2日に縮
  め、さらに、昭和57年以降は、お山開き初日の7月1日だけとなった(⑦)。
*12:現在、ここには、上りが48m、下りが19mの鎖がかかっている。
*13:伊勢参宮や四国遍路など遠方の社寺参詣の旅をした者が帰参するときに、家族らが村境まで出迎える風習のことで、石
  鎚登拝の場合は、お山迎えともいう。地域によってさまざまな民俗がみられるが、共通点としては、特定の場所に酒食を用
  意して出迎え、そこで共同飲食をすることである(⑦⑧)。
*14:こうすることによって、家が浄められ、悪事災難か除かれると考えられた。なお、岡山県や広島県では、今でも、帰宅
  した石鎚登拝者に家族や親戚一同が踏んでもらうという習慣の残っているところもあるという。
*15:お山がけをしたわらじには呪力があるという俗信もあり、そのわらじで田の畦を踏むと作物がよくできるとか、モグラ
  除けになるなどの伝承も残っている(⑨)。
*16:そのほか、助け猿とよばれた縫いぐるみの小猿や、胃腸薬、強壮剤、痛み止めの薬として知られる陀羅尼助(ダラニス
  ケ)などが有名である。このうち陀羅尼助は、キハダの樹皮にアオキの葉を加えて煮つめた黒っぽい塊で、修行僧が長い陀
  羅尼経文を読むときに、口に含んで睡魔を追い払ったところからこの名がついたといわれる(⑨)。

写真1-1-3 東予市方面から見た石鎚山

写真1-1-3 東予市方面から見た石鎚山

手前右端に「こうかさん」の森が見える。平成9年1月撮影

写真1-1-4 前社ヶ森

写真1-1-4 前社ヶ森

手前の岩山が前社ヶ森。遠くの建物は成就社。平成8年10月撮影