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河川流域の生活文化(平成6年度)

(2)うちぬきの めぐみを 受けて

 **さん(西条市禎瑞 昭和4年生まれ 65歳)

 ア うちぬきに魅せられて

 西条の郷土史に詳しい**さんも、うちぬきが大好きで、昔から自宅にあった2本に加え、つい最近、先述の**さんに3本目を抜いてもらったばかりである。お宅を訪ねると、まず屋敷内に点在するそれぞれのうちぬきのところへ案内された。
 「生まれてからずっとここで育ちましたからね。うちぬきは当たり前の存在で、どこの家庭でも自噴するものだと思っとった。西条中学へ入学して、町の友達の家に行くまでずっとそう思っとったわけです。子供心に『それにしても、もったいないもんだな。どうして止まらないんかな。』という感じはもっておりました。」
 **さんは、九州大学工学部に進学して資源工学を学び、卒業後は技術者として九州の炭鉱で仕事をしていた。エネルギー革命の影響でその炭鉱もつぶれ、地質に関係の深い仕事を求めて商社系土木会社への転職を考えていたが、帰省したときに「地学が初めて必修科目になるが、先生がいない。ぜひ教師として西条高校に来てくれ。」と請われて、当時県内で6人しかいない地学の教師になった。
 そんな経歴の持ち主である**さんが、どういうきっかけでうちぬきの研究を始めたのかを伺った。
 「以前から興味はありましたよ。いろいろ読んだり聞いたりはしよったけど、西條史談会に入れてもらったり、古文書をみて調べるようになったのは、10年くらい前からです。
 きっかけは、(地元のいろいろなことについて)あまりにも知らないから。それに、歳とってから何か趣味持たんといかんなあという感じもありました。
 史談会でお寺へ行っても、やや視点の違う話をするんですよ、僕は。地形的・理学的な史学とでも言うんでしょうか。だから、うちぬきについても、水がなぜおいしいのかとか、ミネラルとはとか、地下の構造とか、どういうようにして掘ってきたとかいうのは、僕じゃなけりゃできないところがあると、自分では思っているんです。」
 **さんの論文『「うちぬき」の歴史(④)』には、先述の**さんの話にもあった工法の変遷について、明治から昭和にかけて活躍した親方衆からの聞き取りも交えながら、詳しくまとめられている。地質などの専門の知識を元に、当時のうちぬきの工法が詳細に記録されていることに敬服するとともに、このような地域固有の「生活文化」が時代の流れに埋もれないよう調査研究を充実する必要があることを、あらためて深く感じさせられる。

 イ うちぬきの水は若くてうまい

 西条高校の研究報告『西条の水について(⑤)』によれば、西条のうちぬきの水の特徴として、①水温がほぼ一定(13~15℃)、②軟水(硬度18.2~57.4)、③含有イオン総量が少ない(海岸に近い一部地域では海水の浸透の影響でC1⁻イオンが高い。)等が記されており、一般的な「おいしい水の条件」に照らしてもおいしい水であると言っても差し支えないと、結論している。
 そこで、**さんに、「おいしい水」について尋ねてみた。
 「わたしは、自分のうちの水が一番おいしいと思とんですわ。3本の中でも古い井戸が一番ええんです。これを飲むことによって、ああふるさとへもんたなと思う。というのは、いつでも飲んでおるでしょ、慣れなんですねえ。おふくろの味と同じような。この間抜いた新しいほうは、全然味がないんです。新鮮だけど、個性がないように感じる。きっと、古いのは管や底に、水中の微生物がおって、微妙な味の違いが出てくるんでしょうな。
 西条のうちぬきが、名水百選に選ばれたというのは、皆さんがそれに個性を見出しとるんだと思うんです。名水というのは、標準的なミネラルをもった軟水であるとは限らない。水質というのは、標準的な成分である程度は示すことができるでしょうが、それにプラス個性、化学的分析では測定できない何かがあるように思います。
 例えばヨーロッパの水は、2国、3国の間を流れてくるし、極端な例ではオーストラリアの大鑽井盆地(だいさんせいぼんち)の水は850kmを100万年かかって来ていると言われている。ミネラルをよけ(多く)持っているが、長いだ行くほど水自体が非常に年をとって、O₂等の新鮮さを失っていくんです。沢の水がおいしいというのは、空気に触れてO₂をたくさん持っておるから、新鮮だということなんです。そういう点からいうと、西条の水は、地下水としては非常に若い、生きがいいと言える。潜った水が地表に出るまでの期間は、一般的な日本の水が数十年と言われています。わたしの実感では、西条の場合は数年くらいじゃないでしょうか。霊峰石鎚に降った水が、急流となり、伏流水からうちぬきで抜かれるまでの距離が短いので、それだけ若い、おいしいということです。」

 余談であるが、数時間お邪魔をしている間に奥様が出してくださった飲物は、いずれもうちぬきの水をそのまま使ったという「水出しのお茶」、「水出しの麦茶」、「水出しのコーヒー」で、時間をかけてじっくりと引き出された香りと味わいは、ほのかに甘みを含んだ絶品であった。

 ウ 秋の楽しみ、乙女(おとめ)川の川狩り

 **さんの住む禎瑞一帯は、天明2年(1782年)に完成した干拓による水田地帯である。
 加茂川と中山川に挟まれ水が豊富な禎瑞地区には、干拓の際残された遊水池(乙女川)が生じ、かつては運河として舟が行き来して米なども運んでいたし、樋門(ひもん)からボラ・セイゴ・イナといった沖の魚が入り込んでよく育ったという。藩政時代には「御免打(ごめんう)ち」といって、秋に、殿様や家老たちが舟を浮かべ網入れして楽しむ時、地区農民にも開放されたという伝統行事「川狩り」について、なつかしい話を聞かせてもらった。
 「10月15、16日、稲刈りの前後ですが、大潮の日にねえ。僕ら子供のころは、たくさん人が来ましてねえ。土手で皆、芸者衆さん連れてきたりして、一杯飲みよるわけですわ。寒いから毛氈(もうせん)敷いたりしてねえ。これが祭りの前でね、この取った魚で、禎瑞の秋祭りをしよった。
 親父(おやじ)がとても上手でしてね、もう名人じゃったんですわ。舟が四角の田舟なんですけどね、うしろの人が舵子(かじこ)といって棒立てて、親父は前で(網を)打つんですわ。
 皆があちこちで打ちよっても、所々に一瞬、網を打ってない水面の静かな所ができるでしよ。そこめがけて親父が『行けっ!』と合図すると、舟が勢いつけて矢のように前進し、ころあい見てサッと腰を振って前へ投げますと、惰性で網はより前へ、手網(てなお)が空間に飛んでいくんですよ、ビューッとね。下に魚がおるでしょ。これが空中に広がりましてね、バアーッと開いて向こう側から落ちていくんですよ。へたくそは(網が)こっち側から落ちていくんで、魚は向こうへ逃げてしまうんです。
 投網ちゅうのは、網の端に『いわ』いう鉛の玉が等間隔に付いとります。親父のは180から付いとりましたので、重いですよお。180も付けるということは、ぐるっと開いたときの円周が大きいということです。そいでおまけに、今みたいな(化
学)繊維のやつじゃなしに、昔は綿糸で編んだあとを渋かけたりしてねえ、それでやるんですから。ぐーっと伸びていって、ピュウッと広がっていくんです。これはもう、じつに見事なもんだったね。
 当時は、たくさん、何百隻も行っとんですからね。そん中でも群を抜いて飛ぶんで、僕はいっつも『うまいねえ。』って、親父に言よったんじゃが。『どうして、そんなに上手なん。』と聞くと、『この家が貧しかったからよ。』と言よりました。親父は代々の大工で、『レントゲンが通るんか。』と言われるくらい胸が厚くてねえ。昔は大工ばかりじゃ食えんかったから、満ち潮がよい時は毎日行きよった。取った魚は西条まで売りに行きよった。そのかわり、30年くらい前、取れんようになったらすぐやめたねえ。
 現在は、人が集まらないから10月10日の体育の日が祭りとなり、その直前の日曜日に川狩りをやるようになりました。休みでないと、もう見に来る人も減りましたのでねえ。わびしくてねぇ、田舟も100隻を大きく切りました。なんとかして、昔の姿を甦(よみがえ)らしたいですねえ。」