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河川流域の生活文化(平成6年度)

(2)開田と田んぼの復元

 旧藩時代から、石高(こくだか)を上げるために、大洲藩も松山藩も開田を奨励したことが、まだ特定されない川の、河原や草原の耕地化が各市町村誌の中でうかがえる。ここでは、昭和18年の災害当時に絞って、肱川流域の五郎地区と重信川流域の拝志地区を取り上げる。前者は農家のくらしを安定させるため桑園を田んぼに、後者は流失した田んぼを復元するために汗を流した記録である。どちらも戦時下の、食糧増産という国策に即したものであった。

 ア 自給自足の産米地域へ

 **さん(大洲市五郎 昭和10年生まれ 60歳)
 **さんを2度目に訪ねた際に、豪農をしのばせる立派な邸宅の横の、これまた立派な石碑が建っていることに気付いた。**さんの案内で訪問した目的は、洪水に備えて造られた川舟を撮るためであったから、初めは気にも留めなかったのである。
 「開田記念碑 吉春書」と刻まれた碑の撰(せん)文を手帳に書き写した。しばらくして、洪水の記事を古い新聞で追っているときに、目に付いたのが「桑園開田部落を描く~水喧嘩も解消大洲町五郎~」の記事であった。早速、**さんに電話で問い合わすと、「えぇ。碑を建てたのがわたしの父ですけど。」という。思いがけず、クワからイネに変わった農業のいきさつを知ることができたのである。
 昭和18年(1943年)7月22日付で報道された五郎の稲苗は、実は、豪雨を受けて、2日後には冠水の運命にあった。
 「明治生まれじゃけんな。もう高齢でいけませない。」と言うお父さんは、**さんの、水泳部で1年先輩であった。「あちこちから、よう撮りに来る。」洪水対策用の舟は、75年前に造ったものである。地域の人々が共同で使ったもので、昭和18・20年の洪水では役に立ったという。当時は川縁(べり)の小屋につながれていた。大きなチェーンで釣り上げられたこの舟が、再び下ろされることもなかろうと言う。家財道具と人とを乗せても転覆しないように、底を平たくした小型の和船だ。
 家と記念碑の裏を肱川の堤防が五郎橋から畑の前橋まで続く。屋根とほぼ同じ高さだ。これなら大丈夫と思ったのである。
 堤防沿いには、タル土で覆われた野菜畑が広がり、きめ細かい表土の砂がうす茶一色に整地されていて、次の植え付けを待っている。境木のマサキはつややかな緑で、この風景に強烈なアクセントを付けている。畑に沿った20haの水田は、北へ畑の前橋まで続き、見事に株の張ったイネが風にそよぐ。ゴボゴボと音を立てて汲(く)み揚げられるかんがい用水は、**さんの倉庫を起点にして水路一杯に流れている。百年に一度の渇水(中予地区)が、ここにはない。

 イ 田んぼが違う

 **さん(松山市大橋町 大正15年生まれ 68歳)
 地域の老人会のお世話をしている**さんは、昭和19年(1944年)に、拝志地区の耕地整理に当たった。19歳という若さであるが、前任者が応召(入隊)したために、急きょ、工手(こうて)として採用されたのである。戦時下の、食糧増産に向けて、災害復旧が急がれた時であった。

 (ア)川と住民が認めあった氾濫原

 聞き取りの予定日までに1週間の余裕があった。誠におそれ多いことながら、**さんは、その間にある古老を訪ね、聞き取りの調査をされていたのである。その内容は、①重信川の由来、②氾濫原の特質、③水害の原因、④決壊の日時と災害家屋(下林)、⑤改修工事であった。これらを要約すると、おおよそ次のようになる。

   ① 伊予川(現重信川)は、藩制時代に足立重信によって大規模な改修工事がなされた(慶長2年〔1597年〕ころ)。
    それまでは一定の流路がなく、豪雨のある度に氾濫して、両岸の田園は被害甚大であった。
   ② 伊予川の辺り一帯は一面の草原で、開墾した田畑がわずかに民家の周辺にあったと考えられる。氾濫原の津吉(良質
    の舟着場)、中野(中州)、河原及び廣瀬は、すべて川と関係のある地名で、この筋が川であったことを示し、東に位
    置する上村、宮の段、仙幸寺の県道わきまで水がきていたとの言い伝えがある。
   ③ 普段の重信川は瀬も細く、晴天が続くと水がれ状態になるが、地下を伏流する水は豊富で、いわば天然の暗渠(きょ)
    になっている。したがって、数日も雨が降り続くと、多量の濁水を吐き出す暴れ川の一面も併せもつ。明治32年
    (1899年)から昭和24年(1949年)の50年間に、洪水は62回を数えた。

 これらのことから、堤防の南側は、川と住民とが暗黙のうちに、「ここは非常時には瀬になる。」と認めあった土地の感があると古老は語るのである。

 (イ)堪(こら)え性(しょう)のない山

 さらに、昭和18年の水害は、地元に与えた衝撃が大きかったとして、その原因を次のように述べている。

   ① 7月21日から24日までの4日間に、平年の5か月分の降雨量540mmという集中豪雨があった。
   ② 伊予川の改修に当たって、城下町のある右岸堤防が高く、水が氾濫すれば南に流れるようになっていた(と穿(う
    が)った見方をする人もあった。)。
   ③ 戦時体制下で、山林資源を乱費したつけが回ってきた。

 この中でも、山に堪(こら)え性(しょう)が無くなって鉄砲水が出やすくなったことを強調している。
 堤防の決壊については、下林地区で「上(かみ)の現場」と呼んでいた森之木が約260mにわたって昭和18年7月23日の午前9時20分に、「下(しも)の現場」の開発が翌24日の午後6時に決壊したことがはっきりした。開発の方が小規模であった。
 また、当時拝志村役場がとりまとめた災害家屋調査(下林地区)では、流失・倒伏11棟、床上浸水23戸、床下浸水24戸、器具や家財の流失15戸となっており、上流域の決壊地域での水勢が強かったことを示している。
 田畑の流失面積については、翌年の耕地整理に当たった**さんからみると、少し正確さを欠いているようで、「下林地区で、300町歩(300ha)と言っている。」と付け加えた。「根拠となる資料が得られなかった。」と言う**さんは、昭和19年9月に、「伽藍 (がろ)・上村から荏原(えばら)の境まで4km余りを、『全部、土地台帳と照合して測量せい。』と命じられて」実施した耕地整理の担当者である。

 (ウ)現地に立って

 耕地整理を担当した拝志地区の現場へ立ってみて、頭をひねったと言う。「田んぼが違うんです。幅が違うたり、長さが違うたり、膨らんだり、いろいろしとらいな。」と。
 学校を卒業して、18年(1943年)の災害の後、19年1月に荏原耕地整理組合へ勤め始め、その年の9月に工手(こうて)として公務員に採用されての拝志地区担当であった。技師の下で何度も図面をかかされた**さんであるが、「自分が(図面を)こしらえてね、やらした所が、20年の災害で流されとりましてね。それでやっと分かったんです。」と言うのである。
 同じ場所(森之木と開発)で、18年7月、18年9月、20年9月、21年7月と、都合4回の決壊が続いて起きていた。「やっては流れ、直しては流しで、土地の人も疲れてしもとったらしい。」担当者もその間に入れ替わり、**さんは本庁勤めになっていた。
 拝志地区の人々は、度重なる災害で深刻な不安と脅威にさらされて、「より強固な堤防の築造を中央へ請願する。」運動が展開された。その結果、災害国庫工事として認可され、22年2月着工の運びとなる。開発の堤防は請負工事、森之木のは県の直営工事となり、26年3月に復旧工事をほぼ終えて、県は臨時災害復旧工事事務所を閉鎖し、残余の事業は、26年7月、土地改良法の施行に伴って発足した下林土地改良区に引き継がれた。

 (エ)トロッコによる運搬

 肱川が出水に伴って、恵みの「タル土」を田畑へもたらしたのと逆に、重信川は多量の砂れきを、流し去った表土の代わりに運び込み、幅200m、長さ4kmの河原ができた。
 昭和18年の災害復旧は、急を要する稲おこし、通信網の復元、道路復元(南久米のタル土撤去)に勤労隊をさし向け、同時に、1、2年稲作が見込まれない流失田と堤防の修理には、屈強な若者が動員された。
 温泉郡町村会の第2回災害地対策会議(昭和18年8月6日)では、各町村50円あて計1,500円の義えん金拠出を決定した後、「砂・石塊の取除け~山の粘土を利用~」の見出しが示す、拝志・荏原両村一帯の流出砂石の処置について協議している。
 その記事によると、「拝志村一帯で被害の最もひどい箇所は、重信川の支流と南吉井川の出合い口に向かっているので、ここへ上流から流し込んだ砂や石塊を取り除くとて、人力では容易なことでなし、たとひそれができても次期稲作の収穫は一両年では得られぬ。それよりも、重信の南側の山から、山土の粘土をトロッコにより連搬するのがよい。運ばれた粘土によって、耕地が水流より高くなりはしないか。そうなると灌漑(かんがい)が不可能だ。」とし、その対策を次回に持ち越している。軌道を敷設して、トロッコで運ぶことを決定したようだ。
 **さんが拝志地区を担当した19年(1944年)9月には、それら一連のことが取り決めされて、耕地整理のために山土が搬入される時であった。「レベル(水準器)を持って行ってな、あらかた石ころを除けた後を均(なら)して、その土へ表土を盛らすのよ。均しておかないと、水を引いてから傾くので、割合丁寧にな。『ここは良し!』と許可して。」と、きっちり仕事をさせた。小村町の**さんは、ちょうど荏原地区の工事に出ていたが、「日当はなんぼじゃっとろ。そんな丁寧なことはせなんだ、凹凸があるまま、土をドンドン放り込んで均した。」と言う。しかし、念入りにしたこの工事は次の出水で流される運命にあった。
 重信川上流部は、石手川流域と接する一部に花崗岩(かこうがん)地帯がみられ、これより南へ向かって古生層が連なる。この古生層は断層によって和泉層群(いずみそうぐん)と接し、北から南へ順次新しい地層が現れ、多くの断層や褶曲(しゅうきょく)によって複雑な構造となり、著しい土砂流出の原因となっている。昭和30年代には、良質の天然砂利として流出砂傑が採取されたが、河床保護のため昭和38年(1963年)12月以降は、機械による採取が全面禁止となった。また、支流の表川及び林川(拝志川)が合流する地点(河口より17km)以北の上流は建設省直轄の砂防区域になっている。