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河川流域の生活文化(平成6年度)

(3)峡谷を渡る橋

 ア 赤岩橋と学校

 **さん(喜多郡肱川町赤岩 大正4年生まれ 79歳)
 「わたしは、昭和16年(1941年)に、この赤岩の住人になりましたが、当時、菅田小学校(現大洲市)に勤めていましたので、この家の前の渡しを、毎日利用して通勤しました。
 当時の宇和川(うわがわ)村は、肱川の流れによって南北に分かれ、村内に橋は一つもありませんでした。赤岩は村の中心で役場・農協をはじめ雑貨店・散髪屋・酒屋・飲食店・鍛冶屋・宿屋など一通り生活物資をまかなうことができましたから、公私ともに人の往来が多いため、村営の渡し場がここ赤岩にあり、村民は無料で往復が出来たのです。しかし、平水の時はまあいいとしても、一旦大雨で増水すれば川留(ど)めになって対岸との交通は全く途絶してしまいます。
 肱川筋には、渡し場があちこちにありましたが、渡し守(もり)は大抵高齢のおじさんでした。最初は、声がかかれば一人でも舟を出していたのに、『渡し守は三日すりゃ耳が遠うなる。』と言われるように、なれてくると、ある程度の人数がまとまるまで舟を出さない。
 当時、対岸の県道(現国道197号)に大洲-鹿野川(かのかわ)間のバスが通っていましたが、赤岩河原でヤキモキしながら待っているのに舟は出て来ない。遠くの曲り角にバスが見えたが舟よりバスの方が速い。無情にも通り過ぎたバスを眺めて、河原にはアーアーという溜息が残る。バスに乗りそこねた人は、次のバスまで待つか日程を変えるか、ということになる。
 わたしの場合、朝は平水で出掛けても帰りには増水して舟が出ない時、目の前100mに我が家を眺めながら上流の鹿野川大橋か、下流へ回って坊屋敷(ぼやしき)橋へ重いペダルを踏んで大回りしたものでした。洪水の朝、遠回りする余裕が無い時は、舟を操る名人として知られた、隣の鍛冶屋のおじさんに頭を下げ、その持ち舟で渡してもらったことも度々でした。
 そんな環境の赤岩に、戦後の学制改革に伴う新制中学校の設置が決まりました。昭和22年(1947年)4月、宇和川中学校の誕生です。建物は元の青年学校の校舎を使いましたが、校舎の前庭は朝礼に生徒が並んだら一杯になり、バレーボールのコートがやっとの広さです。小学校は川を隔てて南と北にそのままで中学校は両方の卒業生が集まります。育ち盛りの生徒を収容する施設として充分でないことは誰が見ても明らかです。初年度の運動会はその狭い庭でなんとか工夫して済ませましたが、これではいかんと、できたばかりのPTA・生徒・教職員が総がかりで、対岸の上流1kmほどの高砂(たかすな)に運動場をつくることになり昭和23年に直線100m、トラック200mのものが完成しました。戦前は川上(かわかみ)区(肱川上流の河辺村・宇和川村・大谷(おおたに)村・大川(おおかわ)村)はレベルが違い過ぎるということで郡の競技大会には参加しなかった時期もありましたが、この運動場ができてからは郡の大会でも度々優勝者を出すようになり、児童生徒の意気も盛んになりました。しかし、これで問題が解決したのではありません。学校から川を渡って1kmという距離にあるため、体育の時間は2時間続きの時間割編成をしなければならず、渡し場へ一度に詰め掛けると時間はかかるし、渡し守には嫌われる、思案の揚げ句、わたしが役場へ行って頭を下げ、役場の持舟を借りることにしました。体育の先生が船頭役で調子よくやっていたのですが、ある時、夜中の増水で目が覚めて見たら舟は流されてしまって、とうとう見付かりません……(始末書ものでした。)。
 登下校の時は、大勢の生徒が一度に集中すると、渡し守には喜ばれず、男子生徒の中には寒風の中、霜の朝でも浅瀬をぞぶって渡る者もでてきました。こんな様子を目にして学校周辺の若者10名ばかりと語らって、渡し場付近の大岩伝いに橋を架けようや、という話しになり、早速、校区内の有志に集まってもらって、橋の話を持ち掛けると『金の工面や細かいことも考えずに人を集めてどうするんぞ』と叱られながら、『それを考えてもらうために集まってもろうたのよ』とねばった結果、力を貸していただくことになり、役場の協力も得て、昭和24年(1949年)に木造の流れ橋が出来ました。
 旧宇和川村の南北を初めて結ぶ橋ということで、中学生だけでなく地域をあげての画期的な出来ごとでした。しかし、この橋も洪水の度に流れる仕掛けであるため、架け直すのが大変です、流れる度に橋脚を少しずつ高くしましたが、しょせんは流れ橋でした。
 昭和34年(1959年)町内4か所の中学校を統合するという時、その条件として赤岩の流れ橋を永久橋とする。との一項目が加えられ、実質統合から4年目の昭和40年8月、流れない、いつでも渡れる橋が完成したのです。現在は、歩道と2車線の橋を、との計画が進んでいます。
 『正山(しょうざん)小学校沿革史』によれば大正のころ『赤岩河原で合同大運動会、参観者無慮(むりょ)3,000人』とあります。普段の河原はむしろ干しや洗濯物で彩られ、人が集まる語らいの場であり、子供の遊び声に満ちたところでした、今は護岸工事が進んで『いざ!』という時にも川に走り出ることもできなくなってしまいました。川と人との結びつきが気になることしきりです。」

 イ 道野尾橋の架橋

 **さん(喜多郡肱川町道野尾 昭和12年生まれ 57歳)
 「わたしの住んでいる道野尾(どうのお)は、その昔は陸の孤島と呼ばれていて、非常に不便な所でした。子供のころ、特に不便に思ったのは、肱川を挾んで対岸の萩野尾(はぎのお)に農地が多くあって、農作物を運ばなければならないことでしたが、その運ぶ苦労は大変なものでした。そこで、各戸では川舟を持つようになり、この川舟は、物資の搬送のみならず対岸から大洲方面へ行く交通手段として大いに活躍したものです。しかしこの川舟も日常の管理は大変でした。肱川上流は急流ですから、梅雨どきの集中豪雨や台風のシーズンになると川が増水し、ことに洪水ともなれば寝ずの番でした。うかつにいると長浜まで流してしまいます。その後、昭和30年代後半からオートバイ、ティラーの普及によって川舟を使う頻度がだんだん少なくなり、川舟は昭和40年ころから姿を消していくようになりました。昭和40年代半ばから車の普及が始まり、当時としてはその便利さは夢のようでした。しかし、地理的な条件は少しも変わらない訳ですから、大洲方面へ行くにはやはり対岸へ渡らなければならない。
 そこで、車なら上流の赤岩橋か坊屋敷橋(昭和12年架橋、18年流出、27年永久橋に復旧)へ回るのですが、いずれも距離にして4kmの回り道になります。すぐ前の対岸が渡れないばかりに4kmの回り道というのはやはり不便です。また、わたしの住んでいる地域は、広域的には名荷谷(みょうがたに)、中居谷(なかいだに)という広い地域で小学校もあるのですが、地域全体を見ても交通条件は整っているとはいえず、道路も車の離合ができかねるような幅でした。このように交通上大変不便な地域ですから、年々過疎化現象が強まって若者が定住しない。従って小学校(正山小学校)もだんだん児童が減少し一時は複式の学級編成を余儀なくされました。そこで、20年来架橋の陳情を続けてきました。昭和63年3月、やっと念願の道野尾橋が開通しました。架橋と同時に幹線の道路整備も進み、大洲、内子が通勤圏となりました。そして、かつて陸の孤島と言われたこの地域が一挙に肱川町の玄関口となり、福祉センター、保育所などの公共施設の設置、公営住宅の建設や分譲宅地の造成、農地開発など産業基盤の整備が進み、小学校の複式学級も解消され、今町内で最も輝いている地域に生まれ変わったのです。もともと、この名荷谷の瓜畦(うりうね)や正山は昔の往還(おうかん)(街道)で、戦前は内子や松山へ行く場合、多くの人がこの地域を通ったらしく、往還沿いにはたくさんの茶堂が残っています。この茶堂では今も変わらず念仏などをやっていますが、地域が発展し地域外から多くの人々が移り住むようになると、地域の人達が受け継いできた慣習や伝統行事も次第に影を潜めていくようになり、ややもすると個人主義が強く地域連帯の意識が薄れていくのではないかと心配です。道野尾橋の架橋はこのように地域発展に大きな効果をもたらしましたが、一方で、受け継いできた、いい意味での生活文化も大事にしながら、ますます地域が進展していくよう願っています。」