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河川流域の生活文化(平成6年度)

(2)肱川をこえる大洲の長大橋

 ア 祇園大橋周辺のくらし

 **さん(大洲市米津 大正9年生まれ 74歳)
 「この祇園(ぎおん)橋は、昭和7年(1932年)に土橋ができたんですが、それまでは、渡し(舟)で、大洲から自動車道ができるまでは、上須戒(かみすがい)村から人が出るには、唯一の道でした。八多喜(はたき)の町は、旧上須戒村や春賀(はるか)村、柳沢(やなぎさわ)村の物資の集散地で、たいがいの店は大洲に行かんでもそろっており、昔は製糸工場も三つほどあり、対岸の人が八多喜に出るのに、橋は不可欠のもんじゃったようです。しかし、何度も流出して、3回ほど橋脚から作り直したようで、最近までそれぞれの橋脚の跡が残っとりました。この橋が完成した時の碑文を見ると、経過が良くわかります。『祇園大橋は、昭和7年12月に粟津(あわづ)村長、土橋式に架橋したに始まる。爾来(じらい)、粟津、上須戒を結ぶ交通産業上の大動脈であったが、肱川の増水ごとに幾度か流出し、その復旧に悩まさる。これが永久橋への架橋は両村民の熱望と思い~中略~、昭和21年粟津村長、上須戒村長の奔走で、災害工事として査定せらる。~中略~22年11月、国庫補助を仰ぎ、県営を持って工事は建設省に委託、工事の進捗(しんちょく)に村民労力をささげ、ついに総工費2,400万、延長198m、上路(じょうろ)式、プレートガーター橋として昭和24年完成す』(写真3-2-4参照)
 ここらあたりのはやし歌として、『柴(しば)の ひょこたん、日浦(ひうら)の おらび、伊洲子(いずし)・八多波(はたなみ) ほごかろい、岩津土手根(いわつどてね)の 蚊のえじき、多田(ただ)の たんこぶ、春賀の 荷こぶ、河内(こうち) 念仏、小谷(おだに)の 太鼓、加屋(かや)の けんかに、小野(おの)の よせ』というのがあります。『日浦のおらび』というのは、対岸の柴や日浦は農地が狭いんで、こちら側に渡って農業を営んでおったのですが、以前は電話もありませず、何かある度に対岸に『おらぶ』(叫ぶ)必要があったからですな。実際、母(米津生れ)の話によると、わたしの曾祖父は対岸の柴から用事がある度に、『しし鼻の佐七よう』と呼ばれておったと、笑い話にしておりました。また、わたしの家もそうですが、以前は、洪水(「おおみず」と呼んでいる)が毎年ありました関係から、ここらあたりの家はすべて山際(ぎわ)にあったんですが、岩津だけは昔からの堤防で保たれ土手に沿って竹やぶがあるので、『土手根の蚊のえじき』という言葉になったんでしょう。この岩津には『潮(しお)ごり祭』で有名な、祇園神社があります。伊洲子・八多波は山際で上須戒から八多喜へ来る人も多く、山道をかさをさしても歩けるような丈の短かいこじんまりした独特のオイコ(背負いかご)をかるう(かつぐ)ていたので、また春賀は平坦地なので担(にな)い棒(ぼう)でものを運んでおったのが、歌の文句になったんでしょうなあ。
 米津は、肱川を遡(さかのぼ)る潮の干満のある最上流でして、江戸時代には海船がのぼってきて、わたしの祖先らが塩問屋を営んでおったと聞いております。大洲藩の番所がすぐ下の須合田(すごうだ)にあって、川舟に荷を積み変えて、さらに上流まで物資を運んでおったようです。須合田村の庄屋が、米津村も兼任しておりました。わたし自身も、叔父の手伝いをして、長浜まで肥舟(こえぶね)に乗ったことが何度かあります。魚を食べているので、長浜の肥を使うと確かに麦のできが違うておりました。こぼさないように肥たごを担ぐのも、なかなか技術がいるものですが、上下に揺れるあゆみ板(陸上から船に渡る板)を渡るのは、もっと難しいものでした。もっとも、舟にこぼしたことはありませんでしたが。大洲市(いち)や長浜の祭りの時は、この舟をきれいに洗うて、皆で乗り合わせて行ったもんです。昔は花嫁さんも舟で行きました。
 明治の中ごろ、わたしの家から双海町の串(くし)に嫁(とつ)いだ人がいますが、これは手成の西禅寺が非常に古く格式のある寺で、長浜や双海町も含め18の末寺を持っておる関係じゃないでしょうか。この近辺の人は、案外双海町の山奥や旧柳沢村に縁戚があるんです。また、地理的には肱川を川舟で下り、岩津から八多喜・手成・成川を経て双海に達する陸道は、平野部の道路が発達するまでは、松山方面への重要な街道であったことも、縁戚のつながりとして残っているのでしょう。」
 **さんの話から、祇園大橋を挟んで、肱川下流域の村々が様々な形で密接に結びついていたことがうかがえる。

 イ 五郎の橋と渡し

 **さん(大洲市五郎 大正7年生まれ 76歳)
 **さん(大洲市五郎 大正13年生まれ 70歳)
 **さん(大洲市五郎 大正12年生まれ 71歳)
 **さん(大洲市五郎 大正12年生まれ 71歳)
 「五郎大橋が永久橋になったのは、昭和28年(1953年)でしたか。実は、橋脚ができたのは、昭和14年(1939年)で、起工式を2回やっとるんですよ。ところが、戦争が激しくなって物資不足が深刻になったもんじゃから、途中で中断しまして、わたしらは橋脚を横目で見ながら、渡し船に乗って学校に通い、いつも『橋があればのう』と腹を立てておったもんです。ようやく橋ができた時も、まだまだ資材不足の時期で、橋桁等の鋼材は、戦災で焼け残った山口県光(ひかり)市の旧海軍工廠(こうしょう)のものをもらってきて、使ったそうですな。じゃけんど、戦前に計画されて橋脚を作ったもんじゃから、幅が狭うて、車が離合できん。それで、信号をつけて朝は交互に進入するようにしてはおるが、昼は点滅式のため、まん中でかちおうて立ち往生し、どちらが先に入った、入らんと争うため、『けんか橋』という名前がついとりますよ。橋桁がかかる時に、あと30cm幅を広げるべきじゃと役所に頼みに行ったが、橋脚が一時期放置されとったため材質が弱っておって、できないと言われたらしいです。
 戦後すぐまでは、渡し舟でしたな。小学校は、対岸の若宮(わかみや)にある大洲村尋常高等小学校に通っとりました。実は明治の時代には、この五郎に分教場があったんじゃが、統合するかわりに橋を架けるということになっておったのに、なかなか架からんと、当時地域の世話をしていた父が、わたしにこぼしておりました(五郎分教場廃止は大正15年〔1926年〕)。
 そのころ、水が出そうになると、『五郎の者は早う帰れ』と帰らしてもらいよったんで、『おまえらはええのう』と、他の校区の者からうらやましがられておりました。舟渡しに印を刻んだ杭があって、『中水(ちゅうすい)』『大水(たいすい)』『川止(かわど)め』の目安としており、『中水』までは通学しておりましたかなあ。渡し守の費用は五郎地区の『やぶ(*2)』や共有山からの収入でまかなっておりました。渡し舟は緊急時に大変でした。終戦直後に、真夜中に妻が産気付き、対岸の産婆さんを呼びに出掛けました。真夜中では船頭さんを起こしにも行けず、自分で竿を使い舟を出しました。流されそうになりながらも、何とか迎えることができたことを思い出します。精米所に行く時はリヤカーごと船の舳(へ)先にひっかけて対岸に渡してもらいました。
 昭和24年(1949年)ころに、今の橋よりやや下流に板橋を架けたんです。市の助成もあって、冨士(とみす)山のお殿様の木(旧藩の山で当時は市の所有地)を、橋桁の材に貰って、ピーヤ(橋脚)を立てる測量と発動機の設置だけは業者にやってもろうて、製材から橋板をかけるまでの労力はすべて五郎の者でやりました。橋桁は、『なげ(*2)』の頭から材木をだして、川の増水時に舟に乗せて、ピーヤに上げました。これはなかなか命がけの仕事でした。桁の上には、長さ1間(約1.8m)、幅3尺(約0.9m)、厚さ1寸2分(約3cm)ほどの橋板を、200m近くつけんといかんのですけん、これも大変な手間のかかることです。当時は、戦争から復員してきた若い者が村にようけおったからできたんでしょうなあ。現在と違って、日役(労賃)もけがしたときの保険も一切無しで、毎日100名ほど出て、取りかかってから1か月ほどでできたんじゃなかったろうか。できた言うても沈下橋で、ちょっと水が出たら橋が流れて、『こないだ架けたろうが』と言いながら、ひどい年には13べん半(修復に)出たことがありますわい。半と言うのは半分だけ橋板が流れたということです。旧の『畑の前橋』も板橋で、同じころにできたように思います。慶雲寺橋や峠橋は、もっと早うに戦前にできておったように思います。
 この五郎は、大洲盆地でも低いところで、今の堤防が出来るまでには、多い年には10回近く水が出て、田畑がつかりよったんですよ。ですから、戦前は養蚕が中心で、田んぼはそれほどなかったですなあ。計画生産はできませない。養蚕は、春蚕(はるこ)・土用蚕(どようこ)・秋蚕(あきこ)・晩秋蚕(ばんしゅうこ)とありまして、春蚕・土用蚕の時には出水が少なかったから養蚕ができたんです。もっとも、水が出ると1尺(約30cm)くらいの肥沃なタル土がたまって、おかげで地味が豊かで、ここのゴボウは大洲ゴボウと呼ばれて、県下一の評判を得るくらい太く育ちましたから、悪いことばかりじゃないですが。とにかく、農業中心の土地で店もありませんけん、繭(まゆ)を出すにも何をするにも、川を渡る必要があって、橋を架けることは長い間の夢でしたし、五郎大橋は村全部の生活道路でした。鉄道と立体交差になって、新しい橋ができるようですが、わたしら年を取った者にとって、高い勾配のある自動車道はかえって不便で、生活道として、この橋を残していただけたら、大変ありがたいのですがなあ。」

 ウ 肱川大橋とくらし

 **さん(大洲市本町 明治34年生まれ 93歳)
 「昔は、この店の前の本家に住んでおったのですが、わたしが7歳ころですけん、明治40年(1907年)でしょうか、父がこの薬局を開きましたのよ。この店は、わたしらの前は精米所じゃったそうですが、売りにだされて銀行と頼母子(たのもし)で2,000円のお金を借りて、店を開いたんです。わたしが女学校に上がる前に、肱川大橋ができまして(大正2年〔1913年〕)、盛大な式をやって、おおにぎわいじゃったのを覚えております。橋がかかると、店が橋の前ですけん非常に繁盛するようになりまして、現在に至っておるわけです。
 橋が架かる前は、今の橋の上手の油屋旅館さんから対岸の渡し場まで、浮亀橋(うききばし)いうて舟を浮かべてそのうえに板を渡したものがありまして、通行料は1銭5厘じゃったでしょうか。内子や新谷(にいや)から中学校(大洲中学、現大洲高等学校)に通う生徒さんらは、それを惜しんで、ぞぶって(水につかって)渡る人もおりました。ぞぶって言うても、ここらあたりが大洲の中では一番浅いところで、お城下や今の臥龍苑(がりゅうえん)(国民宿舎)のところは深い淵があって危のうて行かれんゆうて、夏には皆ここで水浴びをしよったんですのよ。当時のことですけん水着などはのうて(なくて)、皆素肌でな。橋の向い側に大きな二本松があって、内子の方からくる人は皆それを目印にして来よったんですが、あの松はどうなりましたか。橋が架かってからは浮亀橋は、今の臥龍苑のある亀山公園に移されて使われておりました。
 当時は、橋の上から見ても小石まで見えるくらい、川がきれいでした。わたしの小さいころは、ネンボチャン言う小さい魚をすくうて遊ぶのが楽しみでな。アユが泳ぐのがよう見えて、川底をほうて(はって)いるカジカやドンコは手づかみで取れました。城近くに大ナゲ、小ナゲがありまして、その石垣のところに魚が集まって、魚釣りをしよいでた方が多かったです。本町通りを行き着いたところに桝形(ますがた)がありまして、そこの郡役所にはようお使いに行かされました。片原町の、今ホテルが建っておるところは、10歳ころまでは魚市場がありまして、テーテーテーテーナンボ言うて売り買いしよるところを、よう見物に行ったもんです。そこは夜回り(夜警)さんの集まる場所でもありましたな。また、10年に1回くらいは大水が出まして、桝形の方から水が上がってきて、あっというまに水がザーと入って怖かったですが、そのようなこともダムができた今はなくなりましたですね。肱川橋を架け直す時に、だいぶ土を入れてこの近辺の土地も高くしたんですよ。
 わたしが小さいころは、川舟の船頭さんは、比地(ひぢ)町(*3)で陸に上がって弁当を食べられよりました。うどんなどの店屋も多かったでず。志保(しお)町(*3)も菅田(すげた)の方から買いに来る人が多うて、手広く商売をしておられました。橋が架かって道路が宇和のほうに抜けてから、町の商売の様子もだいぶ変わりました。この本町通りは、学校がたくさんあって役場もあるんで昔から店が多いですが、ここの店は年寄りがやって、跡継ぎがバイパスの抜けた中村の方に、新しい店を出すことが多いです。お医者さんでもそうですけん。
 わたしの家は娘ばかりでしたんで、主人は五十崎の山根屋さんから養子に来てもろうたんです。また、薬剤師さんが大きな風呂敷にくるんで上須戒の方に売薬に行っておりました。昔は回りの村には店という店が無かったですけん、菅田も南久米(くめ)も平野(ひらの)の人も皆、祭や何やで町中にでてきた時に買物されよりましたが、今は各集落に店ができました。また、この店の横に河原から上がる道がありまして、田口(たのくち)の農家の人が中村の方から舟でさかのぼって肥を取りに来られてました。」

 エ 神様も遭難した川

 **さん(大洲市菅田町父 大正12年生まれ 71歳)
 「この父の集落は、見てもらったらわかりますように、背後の根太山(ねぶとやま)と肱川に挟まれておりまして、昔は、ちょっと大水が出れば道が全部水につかってしまい、どこにも出られなくなってしまいます。現在でも川があふれたらそうなります。父を含めた小倉(おぐら)や本郷(ほんごう)等の大竹(おおたけ)地区はだいたいそうです。わたしが新谷小学校勤め、父親が農業組合長をしておる時に、道が水没して家に帰れず、二人で臥竜苑に泊まったこともあります。戦後、わたしが教員となった時も、まだ父には渡し舟がありまして、それに乗って対岸の県道に渡り学校に通っておりました。かなりの大水でも教員としては出勤しないわけにはいかず、そんな時は船頭さんがおらんので、一人で舟を漕いで川上にさかのぼってから対岸に向けて下ったことが、何度かあります。漕いでいるうちに手がしびれて、ずっと下まで流されたりして、もうだめだと思ったこともあります。昭和30年(1955年)に板橋の沈下橋ができましたが、一度流されると、上にひっぱり上げるのに骨がおれ、集落総出でやっておりました。
 今の永久橋になったのは昭和43年(1968年)です。そんな不便さもあって、昭和24年までは、大竹に菅田小学校の分校がありまして、4年生まではそこに通っておりました。田畑も毎年6割ほどは水につかるものと考えて、農業をしておったように思います。
 この大竹には少彦名(すくなひこな)神社(*4)があります。少彦名さまが対岸に渡られる時に、ここでおぼれて亡くなられたと伝えております。冠(かんむり)岩は、その時少彦名さまの冠が川上に流れついた所とされ、昔川舟やいかだ流しが盛んな時には、船頭は必ず木切れなどを投げ込んで清酒等を供え『手向(たむ)け』とし、航路の安全を祈っておりました。」


*2:「やぶ」「なげ」については第4章第1節参照。
*3:旧城下町の東端にあたり、鳥坂峠を越えた宇和地方からの通行者が多く、また川舟の停泊地として大正初期まで大洲の商
  業中心地であった。現在は静かな住宅街となっているが、古い町並みが残され、観光コースともなっている。
*4:少彦名神は体の小さい神で、神話では大国主神とともに国土経営にあたったとされ、県下にもその伝承が多い。神社は、
  昭和7年(1932年)建立。神社のある梁瀬山は古来から少彦名命の神陵であると伝えられてきたが、藩の政策から「入ら
  ずの山」とされていたため、建立が遅れた。

写真3-2-4 新旧の祇園大橋

写真3-2-4 新旧の祇園大橋

後方の新しい橋の橋脚が完成しているのがわかる。平成6年8月撮影