データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

河川流域の生活文化(平成6年度)

(2)川と海をむすぶ人々

 ア 講を中心とした金山出石(きんざんしゅっせき)寺参拝団

 **さん(喜多郡長浜町豊茂 昭和10年生まれ 59歳)
 「山口県大島郡(屋代島(*3))には、毎年喜多郡金山出石寺へ参拝する習わしがあり、大島郡内の出石講を中心に団体を組んで参拝に来ている。」と出石寺住職**さんは語る。
 「出石寺の灯火が伊予灘航行の目印になり、そのお礼にと大島郡久賀、大島、橘、東和の4町から参拝したのが始まりと言われているが定かではない。
 大正6年(1917年)、この寺が開創されてから1,200年目の記念にあたるので、その時の記念行事として照暗灯(しょうあんどん)というミニ灯台をつくった。そこへ火を入れた。当時それほど強力な火が入るわけがないので、油かなんかではなかったかと思います。それが果たして海から見えたかどうか、非常に疑問が残るのですが、今と違って非常に暗いときですから見えたのかも知れません。照暗灯をつくったのは、海から見えるからと言うわけではなくて、お寺に灯明はつきものですから、山を登ってきたときの景観の問題もあるし、夜お参りする人も灯火があった方が良かろうといった思いつきにできたものだと思います。
 それであそこの山の上に灯火があるとか、寺があるとかいう話が広まってきて、お礼参りということよりも、お参りしようじゃないかという観音信仰が芽生えてきたのだと思います。大島郡の参拝のはじめというのは、沖家室(おきかむろ)島という長浜に近い島がありますが、ここから始まって本島の方に信仰が広まり、大島全体が信仰の対象になってきたのです。最初にお参りしたのは、沖家室島全体が漁業の一番盛んなところでしたからみんな漁民だったと思います。大島の漁民の人たちにとっては、自分の家を守ってもらったり、豊漁を祈るという意味合いが強かったことと思います。また、中島の津和地周辺の人たちの話によると、漁場を設定するのに一つの目印となっていたそうです。このあたりには高い山が少ないので、壷神山と出石寺とは、夜の航行もさることながら昼間もかなり目印となったのではないかと思います。
 広島県竹原市の忠海には、出石寺観音講ができています。これは忠海から長浜の櫛生(くしゅう)あたりに漁に来ておったときに、浜辺で石を拾って帰った。この石が丁度靴脱石に良いと考えて使っていたら、あまりにも不幸が重なるので拝んでもらった。そしたらこの石が霊験あらたかな石だということで、家の近くにお堂を造って石を祀(まつ)り、この石は出石寺から出てきたものであるということから、忠海に出石寺観音講ができ、参拝が始まりもう100年近くになる。ところが大島郡にはこのようなはっきりしたものがないのです。
 大島郡で、毎年一回はお参りに行こうと隣近所に声をかけあって参拝が始まったのは大正の初めだと思います。現在のようになったのは、昭和に入ってからで、講ができてからです。」と語る。
 『愛媛県史民俗上(⑬)』によると、講あるいは講中と称する結社集団は、大別して信仰的な講と、経済的動機で結集する講の二つがある。信仰的な講はさらに、著名な社寺の信者集団からなり、代参を伴う崇敬講と、代参を伴わない山の神講、日待講といった原初的な民間信仰から成立した講とがあるという。
 出石講は、オイヅシ講とか、イヅシ講と呼ばれる喜多郡長浜町出石寺の講で、信仰的な講(崇敬講)に分類できる。金山出石寺は、養老2年(718年)6月、猟師が金山の山頂で発見した千手観音と地蔵の石像を祀ったという伝承のある郡内最古の寺であるという。
 出石寺講は講員数こそ戦前には及ばないが、現在も続いている。県内では東は越智郡菊間町から、西は西宇和郡三崎町、南は南宇和郡城辺町までの間に、また、県外では広島県竹原市、山口県屋代島、大分県佐賀関、宮崎県延岡市、高知県幡多郡などの四国西部、中国西南部、九州東部に講が分布している。講の母胎は、郡部で大字・小字、市部では町内会などとなっている。一つの講の人数は、大洲市平地の6人からはじまり、山口県大島郡東和町伊保田の220人の大集団までみられるが、大半は10人余りで組織されている。
 「大島郡の講はよく整理されていて、毎年正月に各世話人が集まって、その年の参拝団の取り決めをして、毎年5月に船を借り切って実施している。多いときは7日間(船の都合で)毎日200人くらい来ていた。少なくとも各戸に一人は参加していたようだ。それは地元に観音さんがあって、観音信仰の厚いところだからです。それと安芸門徒の系統で、他宗とちがって、安芸門徒は信仰心が強いと言われています(写真3-1-16参照)。
 この5~6年は、3日間で600~700人くらいに減少しているが、しかし、この参拝団が長く続いているのは、今では参拝が年中行事のようになって、一回はお参りに行かないと気がすまない、そんなふうに習慣になっているのと、世話をする人の努力も大きいと思う。それに今は高速艇ができていますが、その前は不便でどうしてもまず柳井まで行って、それからぐるぐる回って三津浜へ、それから松山へ、そして出石寺へと非常に遠い道程であった。そのため個人では思い付きが悪いが、団体で行くのであれば便乗しようかとなって参加している。信仰というものははっきりした目的があって参拝する場合もあるが、ある程度習慣みたいなものができて、一年に一度は行こうかということで、習慣的に参加している人もかなりあると思います。
 夜はお寺で法話をするほか、長浜町商工会主催の歓迎行事をしています。以前は出石寺の宣伝をかねて幻灯をしてみたり、ビデオを見せたりしていたが、5年くらい前からは商工会が寸劇やカラオケなどをしている。大島の人たちは、長浜の歓迎を大変感謝しているようでその効果はあるようである。
 翌日は、長浜でお土産を買って帰っているようで、野菜、日用品、菓子などかなり売れているとか。昼食をして帰る人も多いらしく、長浜にしてみれば、ある程度の経済効果はあると思う。
 参拝に来られる人は毎年同じ人が来ているようですが、ここでも高齢化が進むとともに年々減少してきているようです。」と語る。

 イ 町をあげての歓迎行事

 **さん(喜多郡長浜町長浜 昭和16年生まれ 53歳)
 「毎年山口県大島郡内4町より金山出石寺に参拝団が来られ、長浜町では町をあげての歓迎行事で交流を深めています。」と商工会会長**さんは語る。
 「この参拝団は70年ほど前から行われていますが、その由来は、かって出石寺の灯が伊予灘航行の目印となり、お礼参りしたのが始まりと言われていますが、定かではありません。参拝団のある婦人は、ここは子宝に恵まれると聞いて来ましたと語っていましたが、皆さんそれぞれ願掛けに来られているようです。
 昔は漁船で、その後機帆船で商いや参拝に5~6人のグループで来られていたようですが、現在は4町内に『講』ができて『講』を中心に団体で来られるようになり、今年(平成6年)は5月に約600人の方が、3班に分かれて一泊二日の日程で来られました。
 小さい港に着けなくてはいけないので、200~250人くらい乗りの船を、防予汽船よりチャーターして海のなぎの時をみはからって、例年5月に来られています。一日目は1班の方を乗せて長浜へ、その日は空船で帰り、翌日2班の方を乗せて来て、午後1班の方を乗せて帰る。このような形でピストン輸送しています。
 長浜港に来られるようになったのは、10年ほど前からだと思います。最初ころはおいでても接待など何もしていなかったのですが、現在は、関係者がお迎えして、お茶とお菓子の接待を商工会の婦人部の方が中心になってやっております。今後は港で嵐太鼓などでにぎやかにお迎えしてはとの考えもあるのですが、参拝団の方たちは、早く出石寺へ上がりたいとの希望もあって、現在はできるだけ行事を控えて、直ちにバスで上がってもらっています。
 昔は松山へ大型船を着けていたそうですが、松山ですと買物など便利ですが、長時間バス(2時間)に乗るということで、バスに弱い人などのためにできるだけ短時間で出石寺へ上がりたいとのことで、それではぜひ長浜へ(1時間で出石寺へ)と商工会でお願いして長浜港へ着けてもらっています。しかし、いつまで長浜港へ着けていただくか心配です。それは、年々参加者が減少して(多い年は1,500人くらいあったとか。)参加費用が高くなってきたことです。そのため大型船で一度に来られるようにすれば費用も少しは安くなるのですが、それでは現在法律の関係で長浜港には着けることができなくなるのです。そのため関係機関に働きかけてはいるのですが。また、参拝団はお年寄りの女性が中心で若い人が少なく、そのためこの参拝団もいつまで続くか心配だとの声もあります。若い人を多くするためには買物や娯楽施設など便利な松山へ着けるようになるのではないでしょうか。何はともあれ、現在長浜港へ着けていただいていることはありがたいことです。このように多数の方が長浜へ訪れてもらうことはほかにはありません。長浜の町の活性化のためにも、長浜にとって大切なお客さんです。そのために、いつまでも長浜に降りていただくように町をあげて参拝団の方々に喜んでいただくよう努力しています。
 出石寺では、**住職の法話を聞かれた後、夜に入って商工会が歓迎行事で接待しております。今年は地元の愛好家らがユーモラスな寸劇や踊り、手品の出し物で会場をわかせました。また、カラオケでは参拝団側もマイクを握り、自慢ののどを披露しあいました。賞品として参拝団の方には砥部焼の『お皿』を差し上げていましたが、今年は住職さんにお願いして色紙を書いていただきました。
 出し物については、以前まで町内のアマチュアのグループにカラオケ、寸劇、豊年踊りなどこちらでお願いして今年はこれにしようと計画をしていましたが、今は、参拝団側からこれをやってほしいとか、あのときのあの人がいいからぜひ今年もやってもらってくれと希望があり、希望どおり喜んでいただくよう皆さん頑張ってくれています。参拝団側から花束贈呈があったり、また、カラオケ道具も参拝団の中に電気屋さんがおられ寄付してもらったり、本当に和やかなムードのなかで行っております。
 翌日は朝食を済ませると、バスで10時ころには長浜へ下りてこられ、14時ころまでの自由時間を楽しんでおられます。商工会では沖浦観音で知られる瑞龍寺(ずいりゅうじ)の国・重要文化財『木造十一面観音立像』や日本唯一の開閉橋『長浜大橋』を見学してもらったり、フェリー乗り場に特設販売店を設置して買物ができるようにしております。町内商工会でも、たまたま休日の日でも営業してもらったり、また、大島郡には野菜の少ないところもあって大型スーパーで野菜を買って帰る人、参拝には毎年来られている方が多く、そのため地元の人たちとも顔なじみになって、長浜へ来られたら必ずその店で買物するとか、食事するとか、また、飲み屋さんも昼間から店をあけて歓迎するなど町民との交流も頻繁に行われています。
 大島郡では、毎年1月7日に参拝団のお世話役が集まって、その年の参拝団の打合せをしておられます。この会には長浜からも必ず出席させていただき話合いに参加して、今年もぜひ長浜へとお願いしています。
 今後ともいつまでも長浜へ訪問していただくようそのための努力は惜しまない。」と**さんは語る。


*3:山口県南東部の屋代島は、瀬戸内海で三番目に大きな島で、大島郡大島、久賀、橘、東和の4町から成り、昭和51年大
  島大橋が完成して本土とつながった。東和町の伊保田港へは松山の三津港から高速艇で40分余り。

写真3-1-16 山口県大島郡内よりの寄付石

写真3-1-16 山口県大島郡内よりの寄付石

平成6年7月撮影