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河川流域の生活文化(平成6年度)

(1)川と海をむすぶ長浜

 肱川河口の長浜町は、県の中西部、喜多郡の西部に位置し、東は伊予郡双海町、南は大洲市と八幡浜市、南西は西宇和郡保内町に接し、北は瀬戸内海の伊予灘に面している。北東から南西に連なる伊予灘の断層海岸のほぼ中央部にあって、喜多郡・大洲市を南東から北西に貫流する肱川河口の両岸にまたがって立地している。近世以来肱川の水運と瀬戸内海海運との接点であった港町長浜を中心として発展した町で、県都松山から約40km、J R予讃線で40分余りかかる。東に隣接する大洲市へ16kmで肱川沿いに走る予讃線で20分余りかかる。伊予市から予讃線と並行して走る国道378号は、長浜以西は海岸沿いに西宇和郡保内町を経て、八幡浜市に達する。長浜町は、四国山地の西端にあたり、肱川本流と10余りの支流の各地域に狭小な平地があるにすぎない。海抜50m以下の平地は、全面積の10%にも満たず、200m以上の高地が全面積の70%を占めている。肱川北岸の壷神(つぼがみ)山(標高971m)、南岸の出石(いずし)山(標高812m)をはじめ、500mを超える山が七つを数える。

 ア 長浜港の移り変わり

 **さん(喜多郡長浜町長浜 大正4年生まれ 79歳)のロ述と文献でまとめる。
 「港の繁栄に画期的な影響を及ぼしたのは、元和3年(1617年)米子から伊予国大洲へ城主6万石に転封された加藤貞泰であった。」と語る。
 近世初頭まで肱川河口部は村を形成せず、突出した州先に葦(あし)が生い茂り人家もなかった。この地を、大洲の城下の外港として建設しようともくろんだ貞泰は、ここにはじめて大洲藩の御船奉行(おふなぶぎょう)、御船手組(おふなてくみ)を置き、船数の増加を図り、江湖(えご)(現在長浜中学校の敷地となり北の隅に一部に漁船溜りを残すのみとなっている〔写真3-1-14参照〕。)と呼んでいる肱川河口の右岸の入江を藩船の停泊港とした。
 初代御船奉行に市橋新右衛門重長を任命し、禄200石を与え、長浜浦一円を治めさせた。そして、海上交通の精神的なよりどころとして、元和5年(1619年)沖浦から往吉の社を招き長浜に造った(同神社は昭和40年〔1965年〕現在の御建(おたて)山山頂に移築。)。それ以来藩主加藤家歴代の経営と、町年寄らの努力によって、船奉行所、船番所、米蔵などの藩の施設をはじめ、一般商家が建ち並んだ。
 加藤貞泰が、人もまばらな荒涼たる寒村にすぎなかった長浜に上陸してから、寛文7年(1667年)人口1,000人余りとなる長浜に生まれ変わるまでの歳月は僅かに50年。この半世紀の間に長浜は驚異的な発展があった。
 『愛媛県史地誌Ⅱ(南予)(⑤)』に、「遠見番所・船番所あり、川湊あり、西風強し、100石以上の船100隻を係船できる河口港をなし、家数208軒、船数71隻、うち46隻30石積みより370石まで、漁船25隻、291人の加子(かこ)を抱えていた。」と寛文7年ころの港勢を伝えている。
 長浜についで家数、船数が多かった須合田(すごうだ)は、白滝小学校の付近であるが、長浜から4km余り肱川を遡航(そこう)した地点にある河港で、潮汐が上る終点港の関係で、肱川沿岸各地域からの物資の集散が盛んで大洲藩の重要な物資の港で、藩の代官屋敷、塩蔵、米倉があった。それで大洲藩は、藩の役人に須合田詰めとして代官一人、手代一人が常勤する港番所を置き、長浜へ積み下げる物資には庄屋手形の改印を押すなど取り締まりに当たっていた。
 幕末に至り、肱川出水の度ごとに州先が変化し廻船の出入りが困難となったため、伊予灘に面した明神浜に新港をつくることにした。安政6年(1859年)に宇津(うづ)村(現大洲市菅田)の臘屋奥野源左衛門の寄付などにより、旧来の肱川河口を利用した右港に加え、その北方の砂洲の端に延長326mにおよぶ砂留め、西波戸(はと)(ふなつきば)を築き、以来5年をかけて新たに左港を完成させた。こうして本港は幕末以降左右両港を備えた商港として発展した。
 近代に入っても長浜港が喜多郡一円の貨客の出入りする門戸の役割を持つ港町であることには変わりはなかったが、肱川のもたらす土砂と、海岸が北西季節風に直面していることから、突堤・護岸が破壊され、港が土砂に埋没するなどの被害が度々あった。そのため港湾機能の維持は町にとって最大の仕事であって、大正初期の砂留堤・埋立地の造成、昭和2年(1927年)の防波堤・岸壁・桟橋など大改築が行われた。これによって別府~大阪航路客船が長浜へ発着するようになったが、しかし、艀(はしけ)(通い船)で乗降し、桟橋横付けではなかった。昭和7年(1932年)4月から大阪商船の大型船の紫丸・紅丸が長浜港に寄港するようになった。
 長浜はまさにこの河川と海上の交通を結んだところとして栄えた町で、河口の町として最も栄えたころは大洲より活気があったという。「この長浜に金融機関が五つもあり、広島銀行は長浜に支店を出したが大洲には出さなかった。しかし、昭和10年10月予讃線下灘、長浜、大洲間が開通するなど陸上交通が便利になってきたため、これまで喜多郡の門戸の役割を果たしてきた長浜港中心の交通体系は大きく変化して、貨客の大部分は長浜を素通りして国鉄(現JR)によって運ばれることとなり、港勢は大きな打撃を受けました。川舟や筏流しも姿を消し、長浜での積み替え地点としての意味がなくなってしまった。それにつれて町勢は次第に衰え、昭和30年(1955年)新町発足当時2万人を超えていた人口は、20年後には13,000人余りと漸減してきました。そのため町は昭和45年(1970年)から町勢を立て直すために既存の港湾を基礎に臨海工業地建設を企図し、海岸埋立て、工業用地造成、工場誘致に成功して、次第に昭和初期の活気を取り戻しつつあります。」と語る。

 イ 伊予の小丸太

 **さん(喜多郡長浜町長浜 明治43年生まれ 84歳)
 「長浜町が木材の集散地として全国に有名になったのは、長浜の地形ですよ。」と**さんは語る。
 「肱川は10余りの支流を合わせて、標高の高い急な山地のなかを流れているので水量が多く、流れも急で、道路も整備されていなかったので、肱川の沿岸地方の物資の輸送に肱川の水運が利用されました。
 特に肱川流域で生産された木材の輸送は、その地方の大勢の筏師の手によって、筏に組み、肱川を筏で流して長浜に集められていた。その木材を大正時代までは帆船に、昭和に入ってからは機帆船に積んで、瀬戸内海の香川、岡山、広島、山口県などに送って販売していたので、長浜町は全国でも有数の木材集散地となった。木材集散地は川と海の接合した地方に多く、和歌山の紀ノ川の新宮、秋田の雄物川の能代とともに有名でした。
 大正に入ると有力な山林所有者や業者により県内でも最大の伊予木材株式会社(大正2年〔1913年〕に伊予木材商会が設立され、これが大正8年に発展改組され屋号を丸一としたものが伊予木材株式会社である。)が設立され、その後次々に木材業者も活動を始めたので、長浜町は木材集散地としての基礎が出来上がりました。
 集荷された木材を販売する方法として、伊予木材株式会社とわたしの所(松田材木店)が協調して木材市場を開設していた。材木が集まると、伊予木材と申し合わせて月別に市を開いていた。ハガキで案内状を出すと同時に香川、広島、山口へと直接案内に行っていました。長浜の木材市場は買い付けに便利だったのか、地元はもちろん香川、広島、山口はじめ阪神、大分など関西一円の木材業者が『セリ』に参集していたので、戦前では本県の木材価格が西日本一帯の価格水準を決定していたほどでした。このように昭和15年(1940年)ころまでは、木材市場として長浜町の繁栄に大きく寄与していたと思う。
 さらに昭和の初期には、全国的に最大手企業の三井物産株式会社が、伊予木材株式会社を傘下におさめ、長浜の木材を掌握するために進出してきました。その事業の一つとして台湾への木材(伊予の小丸太で末口の寸法が2~3寸もの〔約6.6~9.9cm〕)移出を計画し、これとは別にわたしの所も台湾移出を行ったので、両者で行った台湾移出の量は、おびただしく全国一の量に達し、前途洋々で、当時は町内にも活気が漂っていました。」と語る。            
 『愛媛県史地誌Ⅱ(南予)(⑤)』によると、長浜は、日本の三大木材集散地であった。昭和10年(1935年)ころ長浜に材木屋が出張所を合わせて10軒あり、取り扱う6,000万才のうち、50%が伊予木材株式会社、松田が20%、その他30%であった。販路は外地が50%で、台湾へ2,500万才、大連(ターリエン)青島(チンタオ)500万才であった。小規模の材木屋は「伊予の小丸太」と称した炭坑行きの松材を取り扱っていた。長浜に集散されるものは、建築材の柱や垂木(たるき)や坑木が多く、今の輸入される巨木とは違っていた。販路は内地はもちろん、台湾や朝鮮半島から満州(現中国東北地方)の社宅・駅用に出荷された。坑木は北九州や宇部などの炭坑に送られていた。長浜は冬季、北西の季節風が強いので、台湾行きの本船は興居島の東側に停泊し、長浜から興居島まで小丸太を筏または小型船にて送り、本船に積み込んでいた。
 「当時すでに県道は長浜と大洲間、愛媛鉄道は同じく長浜と大洲間に開通していたが、長浜に集まる木材の80%以上は肱川による流送で、10%近くは便利な所で馬車・トラック・汽車を利用していました。
 昭和12年(1937年)に突然日中戦争が起こり、戦争が激しくなっていくにつれて、木材も軍需物資として大きく制約を受けた。昭和16年(1941年)に全国の各府県に木材統制会社が設立され、木材の生産は森林組合が行い、販売はすべて統制会社が行ったので、業者は生産・販売にタッチすることができなくなった。昭和19年『決戦木材供出貫徹運動』が実施され、軍用材の割当て確保に努力しました。所有者ごとの樹種・樹齢・面積等が台帳により、所有者ごとに伐採命令をだし、これらの監視、監督に森林組合があたっていた。長浜においても、戦争遂行のため昭和20年(1945年)夏まで伐採に搬出に全力をあげた。そのため先祖代々がいつくしみ育てて来た山林であっても、戦中から戦後にかけて40年生以上のものは、皆無に等しいまでに伐採し尽くされました。
 終戦とともに、これらの統制は解除されたが、昭和35年(1960年)の木材需要の内地材88%が昭和45年には44%になって、内地材の不足と、労賃の上昇等により値の安い外材(米材・南洋材等)の輸入が行われだしたのです。それに道路も全国的に整備されて、木材の輸送もトラックで各地に輸送されて、各地の外材工場へ運ばれるので、肱川の筏流しは必要が無くなり、長浜町が木材集散地としての面影は完全に消滅したのです。」と語る。
 長浜町の木材工業の衰退を象徴的に示したのが、52年間長浜町の元市場を維持してきた伊予木材株式会社が昭和45年(1970年)12月に大洲市徳の森へ移転したことである。しかし、肱川沿いには依然として松田材木店や黒川製材所などが操業していて、筏流しの遺産を今に受け継いでいる。

 ウ 木材と砂利

 **さん(喜多郡長浜町長浜 明治35年生まれ 92歳)
 「長浜は喜多郡、大洲市を南東から北西へ貫流する肱川の河口として位置していたので、肱川と瀬戸内海の接点の港町として、筏、川舟により、上流地区から農林産物や生活物資が、また、帆船や機帆船によって大阪その他へと輸送していました。」と語る。
 **さんは、子供のときから船が大好きでよく船の中で泊まっていたとか。そのせいか父から高等科を卒業と同時に「妙力丸」という新造船を造ってもらい、当時は免許がなくてもそれほどやかましくなかったので、船員二人を雇って広島や香川県に、たまに阪神方面へ木材を積んで行っていたとか。
 「川を挟んで長浜と川向こうの沖浦と二つに分かれていて、長浜は『長浜どぶね』と言い、沖浦は『大洲奴(やっこ)』と言い、瀬戸内海には全くない船型でした。また、積荷も長浜は木材と竹材、沖浦は兵庫県御影地方ヘクヌギを運ぶのと、宇部、若松、八幡方面へ坑木を運ぶ二組になっていました。長浜船は外舷は白木のままで、沖浦船は全部外舷を黒くペンキ塗りしていました。当時は免許の関係もあり皆総トン数70トンで、ただ沖永熊太郎氏所有の『住吉丸』だけは150トンでした。そのころ船名などは、日本人は敬神の念が非常に強かったから、船主の思考と願望が大きく影響していました。例えば
   栄丸  神恵丸  亀宝丸  肱栄丸  妙力丸  七福丸  伊勢丸  宝益丸
   虎丸  明宝丸  寿芳丸  朝陽丸  長栄丸  金盛丸  授財丸  円通丸
 長浜の木材は、主に広島、香川県に運び、ごく少し阪神地方にも送っていました。当時の運賃は才で呼び、長さ14尺、1寸角を一才と言い、木材も才立てでした。そして船の木材運賃は大体2年くらいで引き上げられていました。昭和の初めころの運賃は、
   呉 六厘四毛   広島 七厘二毛   大阪・兵庫・神戸 九厘六毛   高松 六厘八毛
 沖浦の大洲奴は、若松、八幡からの帰りは大洲、内子地方に製糸工場が沢山あったので石炭を積んで帰っていました。当時は移出する物ばかりで移入の主なものは雑貨でした。これは宇和島運輸が阪神へ、大阪商船が宇和島へ通っていましたので、途中長浜へ荷揚げしていました(図表3-1-11参照)。
 大正4年(1915年)ころ本格的な発動船を通わせ始め雑貨を阪神から長浜へ運んでいました。また、牛を広島へ金栄丸(焼玉エンジン30馬力35トン)で、鮮魚を浜丸(焼玉エンジン30トン)で運んでいました。大正11年(1922年)に伊予木材が始めて機帆船を造って木材を運び、その後次々に動力船ができました。」
 **さんは大正15年(1926年)に高等海員養成所に入り、昭和2年丙種免許を取得されるも、その後まもなく徴用令で陸軍の漢口(ハンコウ)機帆船事務所長に就任された。
 「肱川には良質の砂利が豊富にあって、大正の終わりころ勝手に川砂利を手すくいで、農耕用、土木用に採取していたが、自家用程度の少量であったので別に河川に影響はなかった。昭和に入って機械採取(浚渫船(しゅんせつせん))で長浜河口から次第に大和(やまと)、白滝へとさかのぼり採取していたが、満州事変に続く戦争で砂利の需要が増え、そのため乱獲され、筏の置場もなくなり、木材を運ぶ筏が漸次減りました。昭和からは、出荷も次第に木材から砂利に変わり関西一の出荷でした。
 河口付近では、浚渫船より川底からドレンジャという機械で巻き上げたものを直接貨物船に積み込んでいましたが、しかし砂利採取が白滝方面まで上がっていたため、大和橋を貨物船が通れないので、一度川舟に積んで運び、貨物船の上るところの川の中に落とし、もう一度浚渫船で上げて貨物船に積み込んでいました。
 肱川産砂利は品質が優れ、土木建築用資材として県外へ移出されていました。広島県尾道の築港も、三原の人絹工場も全部長浜の砂利で、三田尻の帝人、敷島紡もそうです。長府、下関、門司、若松、八幡、小倉などもほとんど長浜の砂利で工事をしていました。
 しかし、昭和33年(1958年)ころは、砂利船一船が一日に採取する量は30~60m³にも及んでいたので、河床の荒れ、川沿いの井戸涸(か)れ、橋脚の不安等関係地区から苦情が出るようになった。昭和40年(1965年)4月には採取量が制限され次第に下火になりました。」と語る。
 『愛媛県史地誌Ⅱ(南予)(⑤)』によると、戦前戦時中には、北九州の石炭を阪神方面に運ぶ機帆船が、帰り荷に肱川の砂利を防長や北九州に運んでいた。昭和4年(1929年)1月伊予砂利合資会社が設立された。南洋群島へも肱川の砂利を運び、帰り荷にワニを持ち帰り、長浜の水族館に入れた。肱川の河口の結晶片岩の砂利は良質で、ビルや道路工事用はもちろん、南洋の軍事施設用に運んでいた。**さんは、終戦後昭和22年(1947年)に予州海運を創業され、当時は2隻の船があって主に海難救助の仕事をしていたとか。そのころは燃料が悪いので船がよく沖に流され、その船を救助に行っていた。費用はこちらのいいほうだいだったので、適当に言って貰っていたとか。昭和44年(1969年)に浦上汽船株式会社を創立され、鋼船「朝香丸」を建造、新居浜住友にチャーターされ新居浜から名古屋ヘアルミニウムの原料を運んでいた。昭和57年に長男に社長を譲り会長になられた。
 海運業の発展も、国鉄(現JR)予讃線の開通によって大きな打撃を受けた。とくに旅客輸送にその影響が大きくあらわれた。ほとんどの沿岸航路が壊滅的な打撃を受けた。貨物の輸送でも、筏流しや川舟が姿を消すと長浜の積み替え地点としての意味が無くなって、次第に衰微していった。

 エ 繁栄した河口の町

 **さん(喜多郡長浜町長浜 大正5年生まれ 78歳)
 **さん(喜多郡長浜町長浜 大正8年生まれ 75歳)
 筏師や船頭が集まり、そして木材工業や海運業が栄えた長浜には、物資を取り扱う卸売業やこれらの人々にサービスする旅館、料亭、飲食店などもまたおこった。
 **さんは、「大正末期ころまで帆船で、昭和になって機帆船、昭和25年(1950年)ころから鉄鋼船で、主に大阪などから長浜に運びこまれた物資は、いちど長浜に陸揚げされ、それから長浜の卸商によって肱川沿いにある小売店に卸された。長浜の主な卸屋には岸本・末永・中田などの商店があり、肥料をはじめ塩、砂糖、酒、しょう油、その他の雑貨、食品などが主なものであった。このうち岸本商店は塩と砂糖の専売権を持っていて、とくに塩の卸にかけては県内で最大であった。」と語る。また、**さんによると、「明治末から大正初めころの長浜は、舟運のために大洲より活気があって、長浜の卸が野村町や日吉村にまで行っていたとか。それは長浜港がひらた船による肱川流域の水運と廻船による瀬戸内海海運との接点であったから、藩政時代からは長浜町を城下町に準じて取り扱い、広範な商品売買を特許して商品の取り引きを活発にさせ、駒手(こまて)町と本町通りを中心に市街地の発展をみるにいたったのでは。」と語る。
 また、須合田よりやや上流にある河港米津(よなづ)には、塩倉があって坂本屋、瀧下屋、滝田屋などの塩商人によって塩は川舟や牛馬に積み替えられて奥地に輸送されていたとか。     
 『長浜町誌(⑫)』に明治末期から大正時代にかけての商人の活動についての古老の話を記している。
 「長浜町は海運業と奥へ向けていく卸業が盛んじゃった。当時月給が40円くらいの時、長浜一流の商店は年収100万円くらいの商取引をしとった。末永・岸本・中田などの卸屋があったが、競争が激しく自転車で奥へ、夜が明けんうちに加屋、八多喜まで行きよったですらい。昔は盆と正月の2回が節季じゃったな。それが四季になり、2か月になり、毎月に変わってきた。長浜の盛り場は、本町2丁目の岩城屋(現太田商店)辺じゃったな。隣の清水屋(現黒田商店)がデパートみたいで何でも売っていた。平野屋(現伊予銀行)もハイカラな店でした。」
 **さんは、「川舟を利用して生産物の積み出しや、原材料、生活物資の仕入れをしていたが、なかに肥料舟がありましたよ。」と語る。
 「明治中期になると養蚕が盛んになり、それはまず蚕の飼料となる桑樹を必要としたので、肱川の土手や荒地を開墾して競って桑を植え、長浜街道沿いの耕地や山のふもとなど一帯が桑畑になった。ところが桑樹には多量の肥料が必要で、とくに葉ごえ(葉を成育するための肥料。)に窒素分の供給を必要とした。当時はまだ化学肥料など普及していなかったので下肥に頼り、桑樹や野菜の肥料としてつかわれていた。その下肥の多くは、長浜から運ばれ(約8割)、不足分は大洲からでした。長浜の下肥がとくに良いとされたのは、真偽は定かではないが、長浜の人はよく魚を食べるからだといわれていた。」      
 『肱川とむら(③)』によると、肥料舟には2~3人が乗り、ニブ木といっしょにアゲダメと小タゴをトモ(舟尾)に積んで、夜半1~2時ころに出発、下りは風と水にまかせて夜明けに長浜に到着、小タゴを荷のうて各家の下肥を汲み、それを舟まで担い、アゲダメに移し入れる。それが一杯になると、もまい風(もどり風)を待って帰途に着くのである。帰り着いたら、つぎは舟着さから小タゴを荷のうて竹ヤブの堤防を越えて桑畑までの遠い道を運ばなければならなかった。下肥の値は、大正初めころ小タゴ2はいで3~5銭であった。**さんは、「普通は野菜をお礼に持っていっていたようです。」と語る。
 **さんは、「陸上交通が未発達で貨物輸送の多くが水運に頼らなければならなかった時代、長浜は河川と海上交通を結んだところとして栄え、港に花柳界と盛り場はつきもので、長浜にも船頭や筏師相手の水商売が盛況でした。」と語る。
 「当時は、大小約40軒の料亭や飲食店に、50名の芸者衆と40名の酌婦が勤めていた。本町2丁目の岩城屋近辺を中心に、大きな料理屋として亀屋があり、筏師の常宿としての備中屋、商人の常宿として本橋旅館があり、当時としては県下でも有数の繁栄した町であったと思う。長浜には当時旅館は12軒もあった。今は5軒。」
 **さん宅は、昭和5年(1930年)から割烹旅館として「福田屋」を経営されており、子供のころの記憶として、泊まり客で一杯となり家族が休むところも無くなり、筏師さんたちと一緒に休んだこともあったとか。また、その接待のために両親は1~2時間くらいしか休むことができなかったほど大繁盛していたとか。これからも当時の興隆がうかがえる。
 「長浜の木材市場は、大正初期ころから西日本の木材業界で重要な地位を占めていたので、月に一~二週間ある木材市には、県外から特に大阪・香川・広島方面から多くの買主が当町にこられ、その人たちの接待や泊まり客で旅館は大変な盛況でした。
 また、筏師たちは、帰りに長浜でミザワや竹ざおを買い取る宿屋があったので、子供たちへのお土産代に、また、宿賃の一部として売る筏師さんもいた。買手は、ミザワを風よけの垣に、竹ざおは、タコラバッチョウ(番匠笠の別称)の骨に使っていたようです。そして筏師さんたちは片道運行の身だからこれで身軽くして自転車で帰っていた。
 河川と海上の交通を結んだところとして栄えた長浜の町も、陸上交通機関の発達によって、長浜が肱川の内陸部に入っていく唯一の玄関口でなくなったこと、交通機関の発達に伴う移動時間の短縮によって、松山との競合にさらされたことなどによって次第に衰微してきた。」と語る。
 **さんは、「長浜の昔の面影を何かの形にぜひ残しておきたい。」と語る。

写真3-1-14 長浜の江湖

写真3-1-14 長浜の江湖

平成6年7月撮影

図表3-1-11 明治・大正・昭和の海運

図表3-1-11 明治・大正・昭和の海運

『愛媛県史地誌Ⅱ(南予)(⑤)』より作成。