データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

河川流域の生活文化(平成6年度)

(3)川に流す

 「三尺流れて水清し」とよくいわれる。これは、流水(川)の浄化作用を表現した言葉であるが、同時に、川は、罪や穢(けが)れまでも流して消してしまうことを意味したものである。わたしたち日本人にとっては、長い間、川は此岸(しがん)と彼岸(ひがん)の境であり、俗界と聖界の境であり、そしてまた、それ以上に自分たちの住む村と外の世界(異界(いかい))との境として強く意識されてきた。このような意識のもとで、川は、村から異界へさまざまなものを送り出す道筋として、長く村の諸行事の舞台になってきた。
 愛媛県内でも、伝統行事として、七夕飾りや盆燈龍、虫送りの幡(はた)や人形などを川に流している地域や、新たに、そうした行事を復活させようとしている地域がある。本項では、そのような例をいくつか取り上げて、川と生活文化のかかわりを考えてみた。

 ア 雛(ひな)流し

 **さん(東宇和郡宇和町卯之町 昭和16年生まれ 53歳)
 雛祭りには、二つの形態があるといわれる。雛壇(ひなだん)系と流し雛系である(⑤)。
 本県では、雛祭りというと、雛壇系を指すのが一般的で、豪華絢爛(けんらん)たる雛と調度の品々を飾った雛壇が、容易に想像される。また、八幡浜市穴井(あない)地区には、座敷雛(ざしきびな)という豪華な雛飾りの風習が今も残っている。これに対して、流し雛系の雛祭りは、元来、人形(ひとかた)や形代(かたしろ)に相当する紙雛に罪や穢れを託して川に流すことによって、禊(みそぎ)をしようとするもので、鳥取地方のものが全国的に知られている。特に八頭(やず)郡用瀬(もちがせ)町では、今も、毎年旧暦の3月3日に、町内の幼い女の子が千代川の右岸側で、稲わらを編んで作った桟俵(さんだわら)に夫婦雛を乗せて、川に流す光景が見られ、町では、付近一帯を「ふれあいの水辺」として整備するとともに、全国各地の雛人形を常設展示する「流し雛(びな)の館」を建設し、町の活性化を図っている(⑥)。
 本県では、古くから雛流しを続けている地域は見当たらないが、ここでは、新たな伝統づくりに向けて、毎年雛流しを続けている保育園の例を紹介したい。

 (ア)雛流しのはじまり

 わたし(**さん)の保育園で、雛流しが始まったのは、昭和43年(1968年)のことである。以来、保育園が移転し、雛流しをする場所が変わったりしながらも、行事は継続されて、今年度は27回目を迎えようとしている。雛流しの行事を最初に思いつかれたのは、当時、主任保母をされていた先生で、日本の美しい伝統行事を伝えるとともに、子供たちの創造力を養い、やさしい心と夢が育つことを願って始めたものである。
 はじめのころは年長組だけの行事であったが、次第に拡大され、現在は情操教育の一環として園をあげて行われるようになった。雛人形も最初は折り紙だけの、子供の手作り雛であったが、その後、各種容器などを利用した立ち雛になった。しかし、やがて川の汚染が問題になり始めたので、一時期、紙雛に戻したが、10年くらい前からは、回収することを前提に、さまざまな材料を用いるようになった。人形には、ユニークな発想のものや奇抜なアイディアのものも多く、子供の独創性がよくあらわれていておもしろい。雛人形も、以前は、園でみんながいっしょに作っていたが、今は、親子の交流や会話を深めるため、家庭で作ったものを持ち寄るようにしており、保護者にも好評である。一人でいくつも作ってくる子供もいて、昨年は約120組の雛人形が集まった。
 雛人形は、園のホールに飾られ、3月3日に雛祭りが行われたあと、3月4日に園の前の河原から宇和川(肱川上流)に流される。河原では、保母が子供たちに、「川の向こうにあるお雛様の国へ、これからお雛様を流しますが、そのときに、みんなのお願いもいっしょに持っていってもらって、みんなのすこやかな成長をいつまでも見守ってもらいましょう。」などと、雛流しの趣旨を話しながら流すことにしている。
 子供たちのほとんどは、この行事をたいへん楽しみにしているし、また、喜んでくれている。卒園した子供たちもいつまでも懐かしんでくれて、園に遊びに来ると、「今もやっているのか。」とか、「この前、テレビで見た。」などと、しきりに話題にしてくれる。多くの卒園者が、雛流しのころになると、ぼつぼつニュースに出るのではないか、という期待感と、今年も無事行われたという安心感のようなものを感じてくれているようである。地域にも確実に定着し、今では、宇和の早春の風物詩として俳句の会などの対象にもなっている。
 このような昔の伝統的な行事が、みんなの心が変わらずに、いつまで続けられるだろうか、という不安がないわけではないが、直接世話になる父母の会の役員たちも、いい行事だから続けなければならないという気持ちで、喜んで参加してくれているので、押しつけや重荷になったりしないように配慮しながら、今後も継続していきたいと考えている。

 (イ)保母として生きて

 今年(平成6年)は、わたしにとって、保母生活20年目である。この20年を振り返ってみると、保母という仕事は、言葉でも技術でもなく、心と体の体当たりである、という信念をもって、無我夢中で走ってきたという感が強い。
 わたしの保母生活は、二人の子供の子育てとの両立であったが、成長した子供が「親として魅力があった。」と言ってくれ、保母を続けていてよかったと思っている。ただ、3歳、4歳、5歳という時期に、どうしても身に付けさせておかねばならないことを、園では保護者によく求めたりするが、自分の子供についてはおろそかになり、あとから、しまったと思ったことも多かった。自分の経験から、今、保護者の皆さんには、「子供というものは、すぐに大きくなってある日突然、抱くことができなくなるものだから、今のうちに、しっかり、膝(ひざ)の上に乗せて、本を読んだり、触れあったりすることを大切にしておいてほしい。」というようなことを言い続けている。親は、あるとき、急に子供に触れることができなくなってしまう。したがって、お父さん、お母さん、とにかく、今のうち、今のうちと、ついつい言いたくなってしまう。
 長い間保母を続けていると、卒園者の保護者から、「子供もいよいよ二十歳(はたち)になり、これからは大人として頑張っていってくれると思う。子供が結婚をする時には、是非、式に出てほしい。」などといわれることもあり、そんなときには、保母冥利(みょうり)に尽きる思いがする。保母は、どちらかというと下積みであり、社会一般には、小学校に入ってからが本格的な教育だという考え方もあるが、人の一生を考えると、「三つ子の魂、百までも」という言葉が示すとおり、この時期が最も大切なのではないかと思う。子供たちの明るい笑顔を見ていると、この子たちが大きくなっても、この笑顔をいつまでも失わないでほしいと願わずにはいられない。そのためにも、これからも頑張っていきたいと思っている。

 イ 虫送り

 虫送りは、村落共同体において、主にイネの害虫を追い払うために行われるもので、呪術的な性格が強い。イネが伸びる半夏(はんげ)(夏至(げし)後11日目から小暑(しようしょ)の前日までの5日間)や土用(小暑のあと13日目から、立秋の前日までの18日間)のころに行われるのが一般的であるが、盆行事と関連づけて行われる地域もある。
 虫送りの形式には、「虫祈禱(きとう)」、「土用祈禱」などとよばれる、幟幡(のぼりばた)を立てて、念仏を唱えたり鉦(かね)や太鼓をたたきながら、村落内の水田を巡回して村の境まで行き、そこで、幟幡を焼き捨てたり、川に流したりする形のものや、「実盛(さねもり)送り」と称して、侍姿のわら人形をかついで村の中を歩くものなどがある。このうち、「実盛送り」は、平安末期の武将斎藤別当(さいとうべっとう)実盛が、戦いの最中にイネの切り株につまづいて転び非業の死を遂げたため、その霊がイネの害虫になったという故事によるもので、県内では、肱川の上流域や北宇和郡で今も行われている。虫送りは、夕方から行われることが多く、たいまつがよく用いられるが、これは、たいまつに害虫を集めて焼き捨てることによって害虫を駆除しようというねらいで、ここに虫送りの原型があると考えられる。
 虫送りは、近年、農薬の普及などによって虫害が減少してきたことから、行事自体も消滅した地域が多いが、県内では、今なお続けられている地域や、新たに始められた地域もある。ここでは、「川に流す」という観点から、中山川(周桑郡丹原町長野)、肱川(東宇和郡野村町野村)、広見川(北宇和郡松野町蕨生(わらびお))の虫送り行事を紹介したい。

 (ア)長野の土用祈禱-丹原町

 **さん(周桑郡丹原町長野 昭和2年生まれ 67歳)
 丹原町長野では、虫送りを土用祈禱とか虫祈禱とよんでいる。いつごろ始まったかは明らかでないが、**さんが子供のころにはすでに行われていた。かつては、土用に入って3日目に行われていたが、最近は、土用になって最初の日曜日に行われるようになった(平成6年は7月24日に行われた。)。この行事は、神仏の威光により農作物及び人体の外敵を降伏させるというもので、以前は、イネの虫除けという性格が強かったが、最近は、夏の間の健康を願うという側面が強まっている。
 **さんの住む西長野の土用祈禱は、以下のとおり行われてきた。
 まず、土用祈禱の朝、賄(まかな)い番にあたった組の者が、地域の各家庭を回り、米・銭などを集めて、それで黄粉(きなこ)をつけた茶碗2杯分くらいの大きなおにぎりを作る。黄粉をつけるのは、夏のことでもあり、栄養を考えてのことと思われ、このあたりにも昔の人の知恵が感じられる。
 午後の適当な時刻に、大光庵(だいこうあん)という小庵で、お神酒とおにぎりを仏様に供えて和尚さんに祈禱をしてもらい、そのあと、大人たちは、地域の問題などについて協議や相談をしたり、お互いの親睦を深めるために料理や酒を飲みながら歓談をする。その間に、6人の子供たちが、笹竹の先に白紙を吊るした幡(はた)や鉦をもって、虫送りをすることになっている。幡の数は4本で、それぞれ「諸佛菩薩常共護持」、「降伏一切大魔最勝」、「天下安全干戈不起」、「諸荘田園如意豊稔」などのような、祈禱の回向(えこう)文からとった文字が書かれており(文字は、毎年異なる。)、一般に、四本幡とよばれている。また、鉦の数は2個とされている。子供たちは、二手に分かれて、鉦を打ち鳴らし、「イーネノムーシ、ノーキャーレ(イネの虫、除きゃれ)。」と大声をあげて、幡でイネの葉先をなでながら、田を一巡りし、中山川の上手で合流したあと、金比羅(こんぴら)橋付近の川原に下りて、幡を笹竹からはずして、あたかも虫を包み込むように幡をまるめて、それを川に流して、虫送りを終了する(写真1-1-11参照)。
 **さんが子供のころには、幡や鉦を持つ6人のほかにも、地域の子供たちが総動員で出て、幡や鉦のあとについてにぎやかに川まで行き、幡を流したあとは、身を清める意味で、みんなで川に入って泳いで帰った。帰ると、大きなおにぎりがもらえるので、それがたいへんうれしく、ほとんどの者は、おにぎりをもらうのが楽しみで集まってきていたそうである。最近は、昼前に子供たちを大光庵に呼び集め、そこでおにぎりを渡しているが、子供の参加が少なくなり、6人を集めるのがやっとの状況である。
 なお、中長野地区では、同じ日に、和尚さんに祈禱をあげてもらったあと、お寺から借り出した「お般若(はんにゃ)さん」(大般若経の入った唐櫃(からびつ))をかついで各戸をまわり、家族全員にその下をくぐらせるという行事が行われている。

 (イ)伝統行事の復活をめざして-野村町

 **さん(東宇和郡野村町野村 昭和9年生まれ 60歳)
 現在行われている野村町野村の虫送りは、今から15年前、昭和55年(1980年)に始められた。当時、野村小学校中屋敷愛護班の役員をしていた方が、「いろいろ昔から伝えられてきたものが、最近はとぎれがちになっている。伝統文化を形を変えながらでも、伝承していこうや。」と、虫送りの復活を提案したのが、きっかけである。最初は、中屋敷愛護班だけの行事であったが、いずれは町の夏の代表的な行事として定着させていきたいと思い、公民館などにも協力を要請してきた結果、多くの人々の熱心な協力や、多くの愛護班の参加が得られ、今年(平成6年)は満15周年を迎えることができた。
 虫送りが始まったころは、**さんは愛護班の役員として参加していたが、子供が小学校を卒業したあとも、虫送りだけは1年も欠かさず参加し、今では、「虫送りのことは、**に聞け。」とまでいわれる、虫送りに欠くことのできない人物になった。
 **さんは旧渓筋(たにすじ)村(肱川支流稲生川流域。昭和30年野村町と合併。)の生まれであるが、子供のころはまだ農薬などもなかったので、どの村でも害虫駆除には、さまざまな工夫があったという。一例をあげると、水をいっぱい張った田に朝早く菜種(なたね)油をまいて、イネの葉や茎についたウンカなどの害虫を、竹などで水面にはたき落としていくという方法があった。虫は、朝露にぬれて飛ぶことができないため、水面に落ちて油の層の中で動けずに死んだ。ウンカなどが発生すると、朝早くから、田に行かされて、害虫をはたき落とすのをよく手伝わされたそうで、これなども、今は懐かしい思い出となっている。
 このような時代であるので、当時は、どこの村でも、虫送りは、大切な行事として、村中総出で行われていた。たいまつの明かりをかざし、鉦や太鼓に合わせて、「ナムマイダー、ナムマイダー。ナムマイダーブツ、ナムマイダー。」と唱えながら、大きな行列を作って村中を歩いた記憶が**さんにもある。それは、少年時代の夏の夜の思い出の一つにすぎないが、今、こうして虫送りの復活に一生懸命になれるのも、やはり、心の中のどこかに、そうした少年の日のふるさとの行事への愛着があるからではないかと、**さんは当時を懐かしむ。
 例年、虫送りは、夏休み最後の土曜日に行われることになっている(平成6年は、8月27日に実施。)。当日は、子供が主役であることはいうまでもないが、ホテ(たいまつ)を扱い危険なため、必ず保護者にも参加してもらうようにしている。また、三世代交流というねらいで、老人クラブにも参加をお願いし、鉦や太鼓、あるいは、唱え言葉を入れてもらったり、昔の様子を語ってもらったりしている。今年は、150名余りの子供たちを含め総勢400名余りの参加があった。
 虫送り行事の目玉になるホテは、老人会が1m50cmくらいの長さの青竹の先に、布をまいて作っていたが、今は、竹と鉄材を利用した、半永久的なものを愛護班ごとに50本くらいずつ準備している。
 行列は、昔の形を踏襲して、先頭に幡、続いて鉦、太鼓がこれに続き、その後に子供たちが続く。ホテを持てるのは、小学校3、4年生以上の子供で、小さい子供たちは、各自、何か音の出るものをたたかせながら歩かせる。行列は、夕方うす暗くなったころに、木落(こうとし)地区や山本地区から出発し途中で中継しながら、川沿いに下り、天神橋で合流したあと、肱川の堤防沿いに児童館まで歩いて解散することになっている。昔は、最後は川に流していたが、今は、川の浄化ということを考えて、全部集めて焼却するようにしている。
 遠くからチンチンドンドン、チンチンドンドンという鉦や太鼓の音が聞こえ始めると、肱川の堤防を何百mにもわたって、点々と炎が闇に浮かび上がる。それは、あたかも過去から未来へと受け継がれていくかのように、近づいてきては、やがて遠ざかっていく。元気に炎を振る子、高く炎を掲げる子、……。
 一つ一つの炎には、それをもって黙々と歩く子供の姿があることを思うと、**さんの胸には、ジーンとこみあげてくるものがあるという。まさに、夏の夜のロマンに満ちあふれた光景である。
 **さんは、自分の人生を振り返るとき、本当にいろいろな人に世話になってきたと思うそうである。なかでも、28歳で松山に出たときに勤めた会社の社長さんには、かわいがってもらい、結婚をするときは、親がわりのように世話をしていただいた。しかし、結果として、その恩に報いることができず、それを考えると心が痛む。人生において、恩を個人的に返すということがむずかしいとすれば、それを社会に返すしかないことに思い至り、今はできるだけいろいろな活動に自分の生涯をかけることにしている。奥さんからは、「うちの仕事を、そのくらい熱心にやってくれたら、今ごろは大きなビルが建っているのに。」と笑われるそうだが、「これも自分の選んだ道であり、後悔はしていない。これから先も、悔いの残らないよう、人に喜ばれるいろいろな活動を続けていきたい。」と語る**さんの活躍の舞台は、まだまだ広がりそうである。

 (ウ)蕨生(わらびお)の虫送り-松野町

 **さん(北宇和郡松野町蕨生 昭和8年生まれ 61歳)
 蕨生の虫送りは、毎年8月16日に行われる。この日は、午前中に仏さんの送り念仏を行った後、夕方から虫送りが行われる。虫送りがいつ始まったという記録はないが、**さんが子供のころには行われていたので、歴史は古いと思われる。
 蕨生には、鳥居、鈴井、真土(まつち)、谷口、延行(のびき)、奥内という六つの組(集落)があるが、そのうち、奥内は他の組と離れているので、単独で虫送りを行っている。また、延行は、組境で下流の谷口にバトンタッチをすると、そのまま帰ってしまうが、他の四つの組は、広見川にかかる真土橋(*7)に集まることになっている(写真1-1-14参照。平成6年は、蕨生を含めた吉野地区の伝統行事をビデオに記録しようという企画があるので、虫送り行事を盛大に行うため、全部の組が真土橋に集まった。)。
 虫送りは、各組とも、寺と神社の世話人(任期3年)が、組長(任期1年・順番制)に依頼をしてやってもらっている。準備としては、ホテイづくりがある。ホテイとは、たいまつのことで、よく燃える乾いた竹をたたいて割って束ねたものである(最近は、竹の束に灯油を入れて、それに布をつけたものがよく利用されている。)。組長から虫送りの連絡を受けると、それぞれの家がホテイを作ることになっている。
 虫送りの当日は、各組とも夕方7時ごろ集合して虫送りの行列が出発する。幡を先頭にして、そのあとに、ホテイを持った参加者が、鉦と太鼓のリズムに合わせて「ナムマイダ、ナムマイダ」と唱和しながら、広見川までやってくる。8時過ぎには、各組とも真土橋に集合し、そこで鉦や太鼓をたたいてお施餓鬼(せがき)を行って、虫送りの行事を終わることになっている。幡は、今は、河原に集められて焼かれる。
 川に流すといえば、蕨生では、以前は燈籠(とうろう)を川に流していた。新仏のある家は、8月のはじめに燈籠を飾り、月じまいに、それを麦ワラでつくった船に乗せて川に流したが、それも今は、河原で焼くようになった。現代は、川に流すということが容認されない時代になっているので、かつては、川に流していたものも、今は、ほとんどが焼かれるようになった。
 午前中の送り念仏も、以前は、どこの組でもやっていたが、今は、鉦や太鼓をたたける人が少なくなってきたため、一部の組しかやっていない。**さんは、鉦も太鼓もどちらもできるので、方々からよくよばれるが、鉦と太鼓のリズムが合わなければならないので、簡単そうにみえて、実際はなかなかむずかしいそうである。今は、伝統行事を残すために、7月になると小学生を集めて鉦と太鼓の練習をさせている。
 昔は、虫送りには地域のほとんど全員が参加していた。別に強制されるわけでもなかったが、だれもが、何となく出ないと気がすまないという感じだったようである。今は、どの家も必ず一人は出ることになっているが、過疎になって人口が減少してきたので、全般的に参加する人が少なくなってきた。ただ、子供たちはちょうど夏休みでもあり、喜んで参加してくれている。また、時期的に都会から帰ってきている人も多く、物珍しさも手伝ってか、参加者も多い。このように子供の参加が増えているのは、伝統行事を継続していくうえで、心強い。
 **さんは、小さいころからずっと蕨生でくらしてきたので、地域の人から頼りにされて、いろいろな仕事を引き受けざるをえない立場にいる。虫送りも小さいときから、ずっと参加してきたし、そのほかにもほとんどの行事にかかわってきたが、昔と比べると、最近は行事そのものが少なくなり、寂しくなったそうである。蕨生では、8月だけでも、白岩様、施餓鬼、送り念仏、虫送り、山の神様、お大師様というように、いろいろな行事があったが、いまでは、それらをすべて行う組はなくなってしまい、全部の組がやるのは、虫送りくらいになってしまった。伝統行事が若い人たちに受け継がれることなく、古老たちがいなくなってしまっているせいである。盆踊りなども、口説(くどき)がたくさん伝えられていたが、今は歌う人がいなくなってしまった。残念ながら、歌詞もほとんど残っていないという。
 **さんによると、地域が大きく変貌し始めたのは、高度経済成長期以降のことである。この時期に、自給自足を中心とした農村的な生活様式に代わって、都市的な生活様式が浸透し、現金収入がないと生活できなくなってしまった。その結果、人々は、現金収入を求めて外に出るようになり、山や畑が荒れていった。**さんの家でも、それまでは、牛を1、2頭飼って、その畜力を利用しながら田で米と麦を作ったり、山での炭焼きや養蚕でわずかな現金収入を得て生活をしていたが、昭和35年(1960年)ころになると、石油の時代になって木炭が金にならなくなり、炭焼きを続けることができなくなった。その後、シイタケ栽培をはじめ、いろいろなことを試みたが、結局、およそ20年前から仕事に出るようになった。
 **さんたちの世代が集まると、話題は後継者のことばかりだそうである。だれもが、子供を地元で結婚させて落ち着かせたいという強い希望を持っているが、若い人たちは、農業には関心が薄いうえに、農業だけでは生活がむずかしいことから、外へ働きに出る者が多い。幸いなことに、**さんの家では、子供が二人とも地元に落ち着いてくれており、**さんは、それをたいへんありがたいと思っている。現代の最大の親孝行は、子供が地元に残り、そこで結婚して、落ち着いてくれることであり、さらに欲を言えば、伝統行事などにも参加してくれれば、というのが**さんたちの考えである。

  ウ 燈籠流し-野村町野村地区

 **さん(東宇和郡野村町野村 昭和2年生まれ 67歳)
 **さん(東宇和郡野村町野村 昭和18年生まれ 51歳)
 毎年8月25日夜8時を過ぎるころになると、野村町の中心部、宇和川(肱川)に架かる三島橋に、この1年間に家族をなくした方々やその親せき、知人など、たくさんの人が、2m以上もある大きな盆燈籠(とうろう)を先頭にして集まって来る。まもなく、伝統の燈籠流しが始まるのである。
 一般に、盆は、7月(旧暦、したがって現在では、8月)13日か14日夕刻の迎え火に始まり、15日、または16日の送り火で終わる。しかし、新仏の家では、新盆といって、7月(新暦8月)1日に位牌(いはい)を出して盆棚を飾り、盆燈籠に火をともしたあと、25日のうらぼん(盂蘭盆)まで、それを続けるしきたりとなっている。うらぼんの行事は、「トボシアゲ」とよばれるが、野村町野村の安楽寺(あんらくじ)の檀家(だんか)では、いつのころからか、三島橋に全部を集めて、燈籠流しを行うようになった。
 盆燈籠は、橋上にくると、欄干に立てかけられ、集まった人たちによって、故人の思い出話などがひとしきり、交わされる。やがて、時間がたち、昼間の熱気もようやく冷め、秋の気配を漂わせる肱川の川風に乗って、線香の煙が流れるころになると、橋の上は、人、人、人で埋め尽くされる(写真1-1-15参照)。
 午後9時、安楽寺(*8)の和尚さんの読経が始まり、それが終わると、やがて、中央の燈籠に点火され、大きな燈籠が一瞬のうちに、炎に包まれる。火は、次々に隣へと移されて、30余りの燈籠は、炎を川面に降り落としながら、水面を赤く染めて燃えていく(写真1-1-16参照)。以前は、燃やした燈籠は、そのまま、川に流していたが、現在では、回収するようになった。
 燈籠流し(現在では、燈籠送りという)を、三島橋の上で行うようにしたのは、安楽寺の先代の育我(いくが)和尚である。それぞれの家が、ばらばらに「トボシアゲ」を行っていたのを、和尚が三島橋の上でまとめて行うことにしたそうである。安楽寺の総代長を、長年務めている**さんによると、「いろいろと古老に聞いてみたが、大正15年(1926年)には三島橋で行ったとか、昭和9年(1934年)にはもっと上流で行ったとか、いろいろな話があるので、少なくともその時点では、現在のように統一されてはいなかった。」育我和尚が住職に就任したのは、昭和5年(1930年)である(安楽寺和尚**さんの話)ことを併せ考えると、昭和10年代の中ごろから、三島橋の上で行われるようになったのではないかと考えられる。
 燈籠流しの世話は、すべて**さんをはじめとする4人の総代さんたちの仕事である。当日は、幅員約5mの三島橋上に人があふれて、自動車の通行はもとより人の通行すら困難になることから、警察署に出向き道路の使用許可をとるのも、総代さんの仕事の一つである。夕刻から、マイクの準備やライトアップの準備、また、特にきまりがあるわけではないが、一般に、肱川の西岸(左岸、商店街側)の家は、橋の中央から西側に位置し、東岸(右岸)の家は、橋の東側に位置することが多いため、どうしても檀家の多い西側に燈籠が集中して危険であることから、それを分散整理するために汗を流すのも総代さんたちの仕事である。終わったあとには、あとかたづけもあり、当然のことながら、帰宅するのは遅くなる。「世話をするものは、うまくできて当たり前で、失敗は許されんから大変よ。」と言いながらも、この行事は、今や檀家だけでなく、地域にも定着しており、これからも続けていかなければ、という思いが、**さんたち世話をする人に強く、このような気持ちが、燈籠流しを通じて、野村町の人々と肱川を結び付けてきた一つの力にもなっている。


*7:もとは、板橋であったが、昭和35年(1960年)に国鉄江川崎線(昭和28年、吉野生・江川崎間が開通。同49年、窪川
  まで開通し予土線となる。)の真土駅が開設されたのをきっかけに、昭和37年に改修され、現在の橋となった。現在の真
  土橋は、出水時には、水面下に沈む構造(沈下橋)となっている。
*8:同寺にある「泉貨居士の墓」は、この地方の特産品として知られる泉貨紙の製法を創案したとされる兵頭太郎右衛門の墓
  で、県指定史跡となっている(第2章第2節1(5)野村町の泉貨紙作り参照)。

写真1-1-11 虫送りの少年

写真1-1-11 虫送りの少年

夏空に幡がはためき、水田に鉦の音が響く。平成6年7月撮影

写真1-1-14 広見川と真土橋

写真1-1-14 広見川と真土橋

平成6年8月撮影

写真1-1-15 三島橋に集まった燈籠

写真1-1-15 三島橋に集まった燈籠

平成6年8月撮影

写真1-1-16 燃える燈籠

写真1-1-16 燃える燈籠

平成6年8月撮影