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河川流域の生活文化(平成6年度)

(1)古式泳法の伝統を守る

 **さん(大洲市若宮 大正6年生まれ 77歳)

 ア 神伝流との出会い

 **さんと神伝流との出会いは、いわば、自然の成り行きによるものであった。
 物心ついたころから、毎年夏になると、大洲の人間は水泳ができなければ、と言う近所の年長者に引き連れられて、肱川へ出かけ、有無を言わせず泳がされるうちに、自然に泳ぎを覚えていった。はじめは、水に慣れるということが主で、泳ぎ方は何でもよかったが、上級生が学校で神伝流を習っていたので、自然に足のあおり方や手のかき方などを覚え、いつのまにか神伝流の基本が身についていた。
 神伝流(①)は、約350年前の文禄(ぶんろく)年間(1592-95年)に、甲斐(かい)(山梨県)の国主であった加藤遠江守光泰(みつやす)によって始められたとされている。これをもとに、江戸時代の初め、初代大洲藩主加藤貞泰(さだやす)の重臣加藤主馬光尚(しゅめみつなお)( -1634年)がさらに泳法を工夫して案出したのが、今に伝わる「神伝主馬流」、いわゆる、「大洲神伝流」(以下、神伝流と記す。)である。光尚は、幼少より水泳を習い、祖先伝来の水泳術を研究していたが、ある日、河岸を歩いていて、河辺に垂れた青柳の枝が流水に浮き沈みする様子を見て、水練の極意(ごくい)を悟ったといわれ、種々の泳ぎを組織し、肱川において大洲藩士に伝習させた。そのため、大洲藩士の泳ぎのうまさは全国に知れわたり、参勤交代の際にも、さしも有名な大井川の雲助たちも大洲藩の名を聞くと、神妙になったと言い伝えられている。
 神伝流は、その後、主馬流第6世師範、蓑島(みのしま)正利の弟祐根(ゆうこん)が、松山藩士伊藤家の養子となったことにより、松山藩に伝えられ、藩の水練場である「お囲い池」(松山市築山(つきやま)町。埋め立てられて、跡地に松山市青少年センターが建てられた。)を中心に伝習され、中国地方や大分方面に広められた。
 大洲の神伝流は、明治4年(1871年)の廃藩置県のころに、一時期中絶するが、のち明治14年(1881年)に再興され、松山神伝流水泳協会から師範を招くなどして、その復興が図られた。大正5年(1916年)には、大洲村尋常(じんじょう)高等小学校(現大洲市立喜多小学校)の小森経夫(こもりつねお)校長が、昔からあった神伝流を伝承するため、小学校に水泳教科を特設され、5年生になると学校教育の一環として神伝流が教えられるようになった。また、大正12年(1923年)には、神伝流の伝承と後継者の育成を目的にして、大洲神伝流水泳協会(会長・小森経夫)が創設された。このような環境の中で神伝流を身につけた上級生から、肱川での川遊びを通じて神伝流が伝えられたので、先に述べたように、当時の子供の大半は、小学校の5年生になるころには、泳ぎの基礎を一通り身につけていた。
 神伝流には、真(しん)、行(ぎょう)、草(そう)の三つの泳ぎ方がある。真は、いわゆる、立ち泳ぎのことで、『神伝流游(ゆう)書』によれば、「天即陽の意で剛を旨(むね)とし……中略……立体の姿勢にして腕脚柔々徐々慎重に開合し水面を掻(か)き分けつつ泳ぎ、水面静かなるときは左右に小波を起こさず恰(あたか)も水中を徐行するものの如(ごと)し、極めて麗しく静粛厳正を旨とす。」とある。行は、同じく、「人を形どったもの、人は天地の間に位し中和の気を含む故(ゆえ)に遅速その度を得て中津瀬を徐行する意に形どったもので平体の游である。」とされ、静かなゆったりとした泳ぎである。また、草は、「地又は陰をあらわす。右腕は恰も船の棹(さお)の如く左腕は揖(かじ)の如く両脚は櫓(ろ)の如くして直進する平体の游である。」とあり、力強い速い泳ぎである。
 神伝流には、このほか、それを変化活用させた水上游泳術、水中游泳術、水泳武術、水泳飛術、水泳雑技など、多くの業(わざ)がある。そのうち、櫓(やぐら)業という飛び込み業は、特によく練習させられた。学校では、丙、乙、甲、二班、一班という段階があり、5年生になると、指導の先生が泳ぎ方を見て、それぞれ区分けをした。飛び込みで用いる櫓は、長楽寺の下に作られており、3段の高さがあって、そこから順次、いろいろな業の飛び込みをしなければ、上の級に上げてもらえなかった。いくら泳げても飛び込みができないと、だめだったのである。当時は、桝田(ますだ)製糸の工場に30mくらいの高い煙突があったが、櫓の上段から翡翠(しょうびん)(*5)するときは、あの煙突に飛びつくつもりで飛び込めといわれ、それを目標によく飛び込みの練習をした。

 イ 神伝流と近代泳法

 夏になると、喜多郡の高等小学校の水泳大会が長浜で行われた。**さんたちも、ターン台(長さ3m、高さ2mくらい)を作って、肱川で飛び込みやターンなど、近代泳法の練習をした。大洲から長浜までは愛媛鉄道(大正7年〔1918年〕長浜-大洲間開通)の坊っちゃん列車で出かけた。当時は、野球もあったが、水泳が一番花形のスポーツで、親たちも血肉を沸かせて、熱心に応援にやってきた。そのため、水泳大会の日は、いつも列車が満員で、応援の保護者たちは荷物を乗せる無蓋車(むがいしゃ)に乗せられて、トンネルに入るたびに石炭の粉を防ぐため、むしろをかぶったりしながら、長浜まで出かけた。**さんが中学校の時の大会では、審判が足りないので、中学校の水泳部員が審判補助に出て、ある学校の選手をフライングによって失格にしたところ、応援の若者たちからひどく怒られて、肱川の河口まで逃げていったこともあった。水泳大会というと、みんな、そのくらい、いきり立っていた。
 中学校で水泳部に入った**さんは、自由形の長距離を泳ぎたかったが、ブレスト(平泳ぎ)をせよと言われた。「神伝流のあおり足のくせがついているので、自由形にしてほしい。」と申し出たが、「みんな、同じようにくせがついており、だれかがやらねばならないのだから、おまえがやれ。」といわれ、やむなくブレストに転向した。しかし、神伝流と近代泳法の両方をやっていたおかげで、昭和29年(1954年)に水泳学校ができ、そこで指導を始めたときには、両方を教えることができ、たいへん助かったとのことであった。

 ウ 神伝流の保存に向かって

 **さんが、再び神伝流とかかわりをもつようになるのは、昭和28年(1953年)のことである。この年、第8回国民体育大会が四国で開催される際に、中学校のときの水泳部の友人から「神伝流を泳ぎに高知に行こうや。」と誘われて、10名余りで高知に行ったのがきっかけになり、翌29年9月1日の大洲市制の発足を機に、同年、大洲水泳協会が設立されると、**さんは神伝流の指導を担当することになった。同協会の活動については、先に引用した『神伝流游書』に、中小学校生徒水泳指導講師派遣、遠泳大会(肱川下り16km)、水泳学校開設(参加人員170名)、水泳大会(水泳学校最終日)、寒中水泳大会(1月15日)、水泳指導者講習会(神伝流及び近代泳法について)、母親水泳学校など、幅広い活動の様子が記されている(昭和42年)。
 神伝流は、昭和47年(1972年)7月10日、大洲市の無形文化財に指定され、保存伝承に弾みがついた。また、昭和60年8月には、**さんらの働きかけが実り、経済基盤の強化をめざして、「大洲神伝流保存会」が設立され、保存伝承活動はさらに活発化した。会は、現在、200名近い会員を有し、設立の目的は、一応達成されたといえよう。
 しかし、神伝流の将来については、決して展望が開けているわけではない。
 大洲水泳協会が設立された当初は、水泳学校にも多くの生徒を集めることができたが、その後、興味をもって神伝流を習おうとする子供は次第に減少し、生徒の確保に苦労するようになった。また、小中学校のときに神伝流を習っていても、高校に入るころになると離れていく者も多いうえ、高校を卒業してしまうと、ほとんどの者が大洲から出ていってしまうので、後継者の育成が大きな課題となっている。地元に後継者を作らなければ、神伝流の伝統が途絶えてしまうのではないかと、**さんたちは真剣に考えているが、これという名案は浮かんでいない。
 大洲神伝流保存会についても、現在の会員のほとんどが、自分は泳がないが、是非神伝流を残さなければならないという強い気持ちから、財政的に支援してくれている人たちで、実際に神伝流を泳げる人は40名くらいしかいない。一番若い人は30歳代、多くは、5、60歳代で、**さんが一番年上である。そのうち、神伝流の指導に当たっている人は、20名ほどの中高年者である。**さん自身も、最近は足痛のため神伝流独特のあおり足ができなくなってきたので、ぼつぼつだれかに代わってもらわねばと思っている。ぜいたくな話かもしれないが、実際に泳いでくれる会員の増加が、**さんの切なる願いである。

 少年時代に肱川の清流で出会った神伝流が、**さんをその後、長く肱川に結び付けてきた。これからも神伝流の火を絶やさないようにだけはしたい、と思う**さんの心の底には、少年のころ泳いだ肱川の流れがいつまでも息づいているのではないだろうか。
 **さんの家では、甥が神伝流の業を受け継いでくれた。**さんにとっても、頼もしい後継者が生まれつつある。


*5:高所より水に飛び入る術で、殊に浅水の処に飛入り或は水中に飛入で直ちに水上を急進せんとする等に応用すべき業。水
  深僅か3尺余の処なれば悠に高所より飛入り而も過なし。翡翠と呼びしは翡翠(鳥の名)が水中の魚を取らんとするときの
  姿勢に因るものとす(『神伝流游書』による。)。