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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(1)旧街道の交通・交流と茶堂

 ア 山間部としての交通と文化交流

 (ア)山間地域としての交通の特質

 城川町は、愛媛県西南部にあって、東宇和郡に属し、高知県に境を接する山間地であり、肱川の支流である黒瀬川が町内を南北に貫流している。昭和初期までの交通においては、いかだ流しなどの河川交通の起点である坂石(野村町)が隣接することもあって、肱川の水運が当地域の交通の大動脈であった。一方で、河川両側の段丘面及び山腹緩斜面に集落の多くが立地しているが、黒瀬川及びその支流は、いずれも山脈を削ってV字谷を形成しているため、ふだんの集落間及び他地域への行き来は、尾根を伝い峠を通行する者が多かった。
 昭和29年(1954年)3月に、それまでの遊子川(ゆすかわ)村(現遊子谷(ゆすたに)・野井川(のいがわ)地区)、土居村(現土居・窪野・古市(ふるいち)・嘉喜尾(かぎお)地区)、高川村(現高野子(たかのこ)・川津南地区)、魚成村(現魚成(うおなし)・下相(おりあい)・男河内(おんがわち)・田穂(たお)地区)の4村が合併して黒瀬川村が成立したが、この山間地特有の交通の不便さから各集落の独自性は強く、新庁舎の位置等の問題で分村もとりざたされるなど紛糾した(①)。しかし雨降って地固まるのたとえ通り、その後の融和は順調に進んだが、昭和34年(1959年)の町制施行の際の町名の由来は、土居と魚成の一字ずつを偏と旁として「城」、遊子川・高川の「川」をとってできたもので、また現在の町民総合体育大会としての城川オリンピックが、NHKの全国放送に取り上げられるほど、町としても力を入れているのは、そのような背景があったからである。しかし、一面では山村共同体の良さを保ち続け、生活全般に昔ながらの特色ある民俗行事や茶堂等の優れた文化遺産を残しているのは、このような孤立性のおかげであったともいえる。
 一方で、近年の自動車交通の発達に伴ったトンネル開通まで、峠は交通の結節点であったことから、各地域からの人々の往来により、文化の交流・情報伝達は、現在の我々の想像以上に進んでいた。四方を山に囲まれた城川町において、東方の高知県檮原(ゆすはら)町に抜ける桜峠、大茅(おおがや)峠、九十九曲(くじゅうくまがり)峠、西方の野村町に抜ける桜ガ峠(さくらんとう)は町外でも著名であり、特に九十九曲峠は吉村虎太郎をはじめとする幕末の土佐藩勤皇志士の脱藩ルートとして知られている。また、大茅峠から肱川・宇和島へ通ずる土居地区は、戦前まで高知県との交易でおおいに栄えた在町であった。その他の峠として、町内の下相-土居間の祓川(はらいかわ)峠、高野子-川津南を結ぶ大門(だいもん)峠がある。
 城川町の特色ある文化財として、茶堂がある。茶堂は、この地域の人々にとって、峠道を往来する人々への接待により功徳(くどく)を積む場として、また旅行者や集落内の人々の親睦と情報交換の場として、大きな役割を果たしてきた。このような観点から、孤立性・独自性と交流性・開放性という山間地域としての特質を象徴するものとして、茶堂に関わる生活文化を本節では取り上げてみた。

 (イ)かつての交通網

 城川町は、そのほとんどの地域が江戸時代は宇和島藩領10組の行政区画の一つとして山奥組とされた。山奥組は魚成村・成穂(なるほ)村・今田村・田野々(たのの)村(後に田穂村)・男河内村・下相村・土居村・古市村・川津南村・窪野村・嘉喜尾村・遊子谷村・野井川村(現城川町)、惣川村・横林村・坂石村(現野村町)で構成された。高野子村だけは吉田藩領であった(①②)。そのため八鹿踊り等の宇和海沿岸部とも共通する文化を持つが、一方で茶堂や花取り踊り等の分布は肱川流域または北宇和郡・高知県山間部につながる。特に隣接の野村町や高知県檮原町との共通性が強く、山間部における過去の文化交流の深さをうかがうことができる。
 図表2-3-2は、戦前までの城川町周辺の交通網を図化したものである。これを見ても、かつての城川町周辺では、旧城下としての宇和島・三間方面、日吉村を通して北宇和郡山間部へそれぞれ通じるルートがあり、さらに大茅峠等を越える高知県山間部へ通ずる街道、また惣川(そうがわ)を通じて大野が原から上浮穴郡方面に抜けるルートがあり、その中で最も主要な交通路として坂石から長浜へつながる肱川水運が存在していたことがわかる。大正6年刊行の「愛媛県誌稿」では、城川-日吉村間について「この道は山奥地方において東北両宇和郡を連結すべき唯一の平坦部にして交通上頗る重要なものなり」とあり、また「上浮穴郡に通ずるには、惣川より船戸川(ふなとがわ)の渓谷を縫って同郡小屋(こや)に至るべし。この通路は両郡の連絡上極めて重要なるものにして且つ大野が原より南予に至る経路に当れるを以って通行者少なからず(③)」と、これらのルートの重要性を強調している。要するに、かつての城川町は旧街道の結節点として、交通上大変重要な位置を占めていたのである。

 (ウ)歴史・民俗に見る交流のあと

 かつての交通・交流については、現在に伝わる「クロスケ」の伝承からも、その様子をうかがうことができる。クロスケは窪野の大茅(大茅峠そばの集落)に住み、商売は塩を宇和島から運ぶ駄賃持ちだったといわれる。彼は、豊親(とよちか)様(窪野三滝(みたき)神社祭神)に願をかけて「向こう倍」の力(相手の倍の力を出す)を授かったとされ、力自慢の宇和島藩役人に勝った逸話を残している。またこの他に、庄屋に土佐の竜王(りゅうおう)神社(現檮原町)の参拝に誘われ、大祭の奉納相撲に参加し四股(しこ)を踏むと、足が土俵にめりこんだため、土佐方は恐れて相手をするものがおらず「とらず関」になったとか、遊子谷の力持ち「オオサブ」とともに宇和島へ行く途上、三間(みま)(北宇和郡)の深田で大きい家の材木を村中で引っ張っているのをからかったため、それなら引っ張ってみよと言われ、2人で3丁(330m)後戻りしてたんぼに落とし込み、帰り道に懇願されてもとに戻したという話が伝わっている(⑦⑧)。他村への往来が厳しく制限された藩政時代にも、三間や高知県檮原との行き来が盛んであったことや、駄賃持ち等の運送業・塩の行商が盛んであったことがわかる。
 室町時代から戦国時代にかけての城川周辺は、魚成を根拠地とする魚成氏(平氏末裔と伝える)、土居を根拠地とする北之川(きたのかわ)氏(紀氏末裔と伝える)が、それぞれ山城や館を構えて、(南予を支配する西園寺氏の配下十八将であったが)在地領主として独立した勢力を持っていた。土居の地名の由来は、北之川氏の館があったからだとされ、戦国時代初期は甲が森(かぶとがもり)(山)城、後に三滝(山)城を本拠とし、一方魚成氏は隆が森(りゅうがもり)城を本拠とした。戦国末期に急激に勢力を伸ばした土佐の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は、四国統一を狙って度々南予各地に侵攻してきた。そのため、小領主としての北之川氏・魚成氏は、西園寺氏との間にはさまれて対応に苦慮し、両者から何度か侵攻を受けている。ついに、天正11年(豊臣秀吉の四国侵攻・平定の2年前)に三滝城は長宗我部氏の大軍により攻められ落城し、城主北之川親安(ちかやす)は討ち死にした(①④⑦⑧)。親安は窪野の三滝神社に合祀されて豊親様として崇められており、落城に関しても多くの伝承が残っている。土佐と伊予の激戦地の一つとして、地域の人々の歴史的記憶となったからであろう。
 この時代の交流を示すものとして、申学姫(さるがくひめ)の逸話がある。申学姫は、前述の北之川親安の叔母にあたり、天文年間(1531~1550年)に、津野(つの)氏(現在の高知県高岡郡の領主)の配下で芳生野(よしうの)(現東津野村)城主北川源兵衛のもとに、九十九曲峠を越えて嫁いだ。源兵衛は安芸郡北川氏の三男であったが、人物を見込んで津野氏が城主としたもので、彼は6尺近い美丈夫であるとともに、京大阪からも新技術を取り入れて開拓を進めたので領民が心服したと言われ、彼が七夕の笹見で踊る盆踊りを教えたのが、東津野の笹見踊りだとされる。しかし、結婚後3年余りで源兵衛が病死し子もなかったため、申学姫が生家に帰ろうとしたのを、家来が惜しんで檮原の峠で呼び戻したという。この峠を大声峠(大越(おおごえ)峠=現高知県檮原町)、帰路姫が化粧した坂を化粧(けわい)坂と言うようになったと伝えている(⑦)。笹見踊りの歌詞で申学姫に関係するものとして、以下のようなものがある。

   北川殿は六尺男 姫の脇に立つやさし
   姫のくけたる帯は 結び目が細うて おいとしや
   檮原の茶屋まで白かたびらで それより先は紅染めのゆかた
   若殿様は二十のうえを 八ツあまりで一期とは おいとし

この話も伝承とは言え、城川と高知県山間部との古くからの交流を伝えている(⑦)。
 土居の三島神社は、現在郷社であるが、永保元年(1081年)に勧請され、かつては北之川氏の保護を受けたと思われ、過去には現在の城川町各地及び惣川や予子林(よこはやし)・蔵良(くらら)・阿下(あげ)等の野村町西半を氏子としていた(⑩)。また、この三島神社で毎年7月に催される、県下で唯一の奇祭として有名な「どろんこ祭」は、明治初期に三間地方から伝えられたものが起源とされる(①⑩)。屋根付き橋や仲翁(ちゅうおう)和尚の中興で著名な曹洞宗竜沢寺は、魚成氏の保護を受け、江戸時代も伊達氏の保護を受けて、末寺は温泉郡・喜多郡から高知県に及ぶ55か寺を誇った(①④⑪⑫)。これらの宗教的な面からも、この地域が四国西南山間部の交通・文化の要地であったことが知れる。

 イ 土佐勤王志士脱藩の道

 (ア)吉村虎太郎と九十九曲峠

 高知県檮原町宮野々(みやのの)には江戸時代の番所跡があり、「宮野々(みやのの)関門旧址」と刻んだ石碑が建てられ、その裏面に以下の文章がある。

   「幕末維新之時
   土佐勤王烈士十二人前後此ノ関門ヲ脱出シ 国事二奔走シ皆難二殉ス 其精忠苦節世二倫ナシ
   此二石ヲ建テ 名ヲ刻シ 其ノ忠烈ヲ不朽二伝フ
     昭和十年四月  寺石正路撰  檮原村建之 脱藩志士十二名
       坂本龍馬 吉村虎太郎 那須俊平 千屋菊次郎 松山深蔵 上岡胆治 田所壮輔 沢村惣之丞 中平龍之助
       尾崎幸之進 安藤真之助 千屋金策(⑬)」

 彼らは宮野々番所から九十九曲峠を越えて、脱藩したものである。大部分の者は隠密裏に脱藩したが、虎太郎は、文久2年(1862年)3月6日、同志から融通を受けた通行手形もあったことから、白昼堂々と薩摩への使者と偽り姓名も名乗って番所を通過し、土居村(現城川町)の矢野方に泊まって、その翌日長浜に着いたとされる(⑭⑮)。ただし坂本龍馬及び沢村惣之丞については、村上恒夫氏は、九十九曲峠越えではなく檮原町韮(にら)が峠から野村町小屋-河辺村-小田川-長浜というルートにより脱藩したという説をとっている(図表2-3-2参照)(⑯)。彼らの多くは尊王討幕をめざした天誅組の変(*1)、及び禁門の変(*2)で闘死した。この12名は全て、明治維新を見ることなく非業の死を遂げたが、彼らの行動がきっかけとなって、維新への道程が開かれたと言える。
 吉村虎太郎は隣村東津野村の生まれであるが檮原村の庄屋を勤め、また前記の中平龍之助・那須俊平は檮原村の出身である。また、俊平の養子であった那須信吾は藩家老にあたる佐幕派の吉田東洋を暗殺して久万方面から脱藩し、天誅組の変で戦死している。これに前田繁馬・掛橋和泉(かけはしいずみ)を加えた六志士の墓が檮原町東町にあり、これ以外にも多くの志士が檮原から出ている。町では「維新の道」を整備するなど、龍馬を含め、これらの町出身の勤王志士の顕彰に努めている。

 (イ)勤王志士と城川町の関わり

 ここで不思議に思われるのは、なぜかくも多数の志士が、檮原から九十九曲峠を越えて脱藩したのかということである(村上氏の言う龍馬脱藩のルートも檮原から肱川水系を下るという点では同じである)。当時の土佐から伊予に抜ける土佐街道として著名なものを見ると、①川之江にぬける、②松山にぬける、③宇和島にぬけるがある。①は土佐藩の参勤交代等で最もよく利用された道である。②③は八十八か所参りの遍路道としても著名である(⑨)。しかし、脱藩は国禁を犯しているため秘密裏に行く必要があり、また脱藩した彼らは、援助を受け全国の志士と連絡をとるためにも、まず当時の尊王攘夷運動の中心であった長州藩に行く必要があった。その点で、檮原から伊予に抜ける山道には多くの脇道もあり、肱川の川船を利用して長浜に出れば長州(山口県)は対岸である。檮原周辺には多くの同志がいたこともあり、不案内な山道を抜けるにも好都合であったろう。
 檮原から多くの志士が輩出したのは、虎太郎が同村の庄屋であるとともに、武市半平太率いる土佐勤皇党で思想面において指導的役割を果たした間崎滄浪(まざきそうろう)が、同村が所属する高岡郡の奉行所に勤めるなどの人間関係があったからだろう(⑰)。また、前記のような交通事情から多くの志士が檮原を通行する中で、逆に影響を受け活動に飛び込む場合も多かったと思われる。国境を越えた伊予側にも多くの同志があった。前述の虎太郎が泊まった土居村(現城川町)の矢野宅とは、同村の医者であった矢野杏仙(きょうせん)である。
 矢野杏仙は、文化8年(1811年)の生まれで長崎で医学修業の後、土居村に開業し、尊王運動の熱烈な共鳴者として、前述の志土たちの援助をしていた。虎太郎の他に前述の田所壮輔、中平龍之助、尾崎幸之進、安藤真之助らも、彼の家に泊まったとされ、また脱藩志士(中平龍之助ら)が長州藩から戻って土佐藩の同志との連絡をする拠点としても、大きな役割を果たした(⑭)。土佐の勤王論者で儒学者の西春松もここに寄寓していたとされる。檮原出身の玉川壮吉(後に改名して井手正章)は、医者の子として生まれ、この杏仙のもとで医学修業をしていたが、檮原出身の志士と深い交友関係を持ち、虎太郎ら九十九曲峠越えの志士の脱藩のほとんどは彼の手引によっている(⑭)。彼も元治元年(1864年)那須俊平の供をして脱藩している。彼は、禁門の変には病気で参加できず、維新後も生き延び、陸軍主計少将となった。明治30年(1897年)ころに、彼は長浜までやってきて、幕末時にお世話になったお礼ということで、杏仙の子息矢野環に会ったという口碑がある。城川の地は、これらの尊王志士たちにとって、単なる通過地に留まらない深いつながりがあったのである。

 (ウ)市村稔麿と無役地事件

 市村稔麿(としまろ)は、土居村と境を接する古市村(現城川町)庄屋の芝家に、天保10年(1839年)に生まれている。16歳で庄屋役に就任しているが、隣村の矢野杏仙やそこに出入りする土佐藩勤王志士との交際の中で、尊王攘夷の思想に傾倒し、ついに文久3年(1863年)虎太郎らの天誅組の挙兵に参加するため、庄屋役を高田氏に譲り脱藩した。しかし、病気のため挙兵にまにあわず、その後長州征伐等で尊王攘夷運動が弾圧された時期には松山に潜伏していたが、宇和島藩主伊達宗城が広く人材を求めた際に登用され、機密係として松山藩の動静を探索した。明治維新後、彼は新政府の官吏として重用され、明治2年(1869年)には民部省兼大蔵省監督権正(ごんのしょう)、4年には刑部省(きょうぶしょう)刑法取調掛となり、野村騒動後、一時宇和島の官史ともなったが、彼の人生を一変させる無役地(むやくち)事件に参加することを求められた時には、県令(現在の県知事)に任官され上京の途中であったともいう(⑦⑱⑲)。
 無役地事件とは、明治3年の野村騒動に端を発したもので、明治8年(1875年)から38年まで市村稔麿らを代表者とする宇和郡各地の農民が、無役地の処分について、県・国に対して不当を訴え裁判闘争をした事件である。無役地とは、江戸時代に庄屋に与えられた特権地(雑税納入が免除され、耕作には農民を使役してよい土地)を指す。宇和島藩は野村騒動において、無役地を村の共有地にするという一揆参加者の要望を認めておきながら、庄屋層の反対運動に屈して、明治5年の地祖改正では、無役地を全面的に庄屋の私有としてしまった。宇和島藩では庄屋の権限が非常に強大で高利貸や酒造で財産を集積しており、しかも同じ伊予国である石鉄(いしてつ)県では無役地の多くは共有地とされたにもかかわらず、宇和島藩(後に県)の政策を引き継いだ神山(かみやま)県は、これを私有地とするという片手落ちの措置に対し、農民たちは反発したのである(⑦⑱⑲⑳㉑)。
 市村稔麿がこの事件に関与したのは、明治3年の野村騒動が窪野村・魚成村(現城川町)から始まり、その指導者が彼の友人であった古市村の鶴太郎であったことから、藩より鎮静を命ぜられたからである(⑦⑱)。なお、野村騒動は現在の城川・野村から始まって短期間で東宇和・西宇和郡全域に広まり、さらに同年の吉田藩の三間騒動も、始まりは高野子村(現城川町)で数日で三間まで波及したことからも、江戸時代末期の城川と南予各地域の交通・交流の進展と結びつきの深さをうかがうことができるように思われる(㉒)。
 騒動は農民の要求を認めることで鎮定したが、この時に市村も大きな役割を果たしたであろう。ところが、その時の約束にまったく反することが行われたことに、彼は義憤を感じたのではなかろうか。彼と同じく尊王攘夷運動に活躍した二宮新吉(宮内村=現保内町出身)らの誘いを受けて、市村は官職を投げ打ちこの訴訟に取り組むようになったのである。しかし訴訟は大審院(だいしんいん)(現在の最高裁)にも認められず敗訴となり、長期の裁判で財産を使い尽くして、彼は大正7年(1918年)宇和島市で貧困のうちにその生涯を閉じた(⑦⑱)。
 市村稔麿の歩みから、土佐の脱藩志士たちと城川の人々との強い結びつき、そしてかつての志士たちの維新にかけた民衆擁護の理想の一面がうかがわれるように思われる。

 ウ 茶堂に見る交通・交流

 (ア)茶堂とは

 茶堂とは、旧道沿いに設けられた吹き抜けの簡素な小堂のことである(口絵参照)。地域によって「お堂」「辻堂(つじどう)」「大師堂」等と名称が違い、また愛媛県内各所でも茶堂以外に「阿弥陀堂」「薬師堂」等の小堂があるが(㉓)、ここでは無住だが集落の所有管理下にあり、正面に弘法大師像等を安置し、夏季に旅行者や集落の人々に茶の接待を行い、集落の者が集まって念仏・虫除け祈禱を行う等の独特の年中行事を行ってきたものを、茶堂と呼ぶことにしたい。現在、城川町には53の茶堂が残っている。
 この茶堂の分布を見ると、愛媛県西南部の山間地・肱川流域及び高知県西北部の愛媛県境沿いに偏っていることがわかる。高知県では、茶堂の存在は16世紀末の「長宗我部地検帳」まで、さかのぼることができる。この「地検帳」には茶屋・茶庵等の名称で記載され、高岡郡・幡多郡山間部などの現在の茶堂分布と重なるものも多いが、大部分は海岸地に近い東西を通る古くからの主要道沿いに分布していた(㉓)。しかし、現在では高知県海岸部には茶堂はその痕跡を残していない。後述するような生活文化の共通性からも、この四国西南部の茶堂の分布圏は、そのまま一つの文化圏・生活圏であるとも言えるのではないか。愛媛県及び城川町の茶堂の起源について、はっきりとしたことは分からない。重谷ホーセンの茶堂にある城川町最古の石仏には、元禄12年(1699年)の年号がある(⑪㉓)。この時期は県内で四国遍路の道標や巡礼記の最古のものが残り、四国遍路の第1次盛行期(㉓)と考えられる。茶堂の信仰や行事では弘法大師が中心となることが多いことから、遍路をもてなす=大師への供養という目的で、江戸時代初期に茶堂が成立したとも思われる。

 (イ)遍路・旅人と茶堂

 茶堂の行事と遍路の共通点が非常に多いことは、上記の説を補強するように思われる。具体的には、茶堂で夏季(主に旧暦の7月1日~30日の1か月間)に、当番の者が交代で茶とお茶うけを用意して、道行く人に誰彼となくふるまう行事を「お接待」と言っていること、また遍路が、茶堂に寝泊まりすることを決して拒否しなかったことなどは、四国各地の「お接待」「善根宿(㉔)」等の遍路習俗とほぼ同じである。この根底には民俗学で言う「マレビト歓待」(村を訪れる他者は神の化身と見られ、これを歓待しないと罰があたるというもので、各地の大師伝説と共通)の信仰があると考えられる。また、図表2-3-7に見るように、ほとんどの茶堂には大師像が安置され、行事の多くは大師様の供養も目的の一つとしていることからも、大師信仰(=四国遍路)と茶堂の関わりの深さをうかがうことができる。7月21日はお大師さんの縁日として、各茶堂で行事を催すことが多い。
 茶堂のほとんどが旧街道・旧往還沿いにあることからも、茶堂建立の主要目的が、街道の旅行者・通行者への接待にあったことが知れる。また、図表2-3-7からわかるように、茶堂の安置仏に大日如来(だいにちにょらい)像が多いが、これは真言宗(弘法大師)の本尊であることとともに、大日様が牛に乗っていることから牛の守り神とされ、牛馬による街道の運搬の安全を祈って置かれたからである(蔭の地茶堂では、現在も牛の安全を祈って大日講を行っている)(⑪)。また、馬頭観音(ばとうかんのん)も多い。この点では、茶堂の行事は単に遍路習俗にとどまらず、山間部の主要交通路として、この地域を行き交った旅行者や住民の往来の安全を対象とした、峠交通の習俗と考えた方がよいであろう。

 (ウ)村のくらしと茶堂

 茶堂における主要行事は接待にあったともいえるが、現在ではトンネルを抜ける自動車道が、旧い峠道・尾根道に取って変わったため茶堂で憩う旅人の姿は無く、それとともにお接待もやまった。それにもかかわらず、茶堂が城川町で残ってきたのは、集落内の人々の寄合い・語らいや信仰行事の場としての役割が大きかったからである。
 図表2-3-6、2-3-7により茶堂に関する主要行事を見ると、前述の接待や大日講以外には、諸仏・先祖供養のための念仏行事(立ち念仏、坐り念仏、施餓鬼を含む)がほとんどで、他に実盛(さねもり)送り(=虫送り)の行事等がある。これらの茶堂の行事を考える際に、茶堂内に安置される石仏として、大師像と並んで最も多いのが地蔵であることに注目したい。地蔵信仰・地蔵仏は全国いたるところにあり、その信仰内容も多岐に渡っているが、地蔵信仰の基礎にあるのは、地獄における衆生(しゅじょう)の救済を果たし、道祖神(どうそしん)(塞(さい)の神)の信仰と結合した境・辻で村の境界を鎮守する仏としての信仰である。つまり、祖先供養と村(境)の守護が、地蔵仏の役割である。
 村境の守護という点では、城川町の茶堂がおおむね集落(小字・組)の境か、集落内であれば街道辻に建てられていることから、茶堂のそもそもの由来を考えるうえで、地蔵信仰との関わりを考えてよいのではなかろうか。また、実盛送り(魚成地区で実施)の行列が途中の茶堂に寄って、「お精根(しょうね)入れ」と称する立ち念仏をすることも、その信仰によるものとも思われる。それゆえ、茶堂行事は、大師信仰や地蔵信仰等のさまざまな民間仏教信仰が混こうして成立したと考えられる。
 念仏行事は、現存の茶堂の行事の中心となるものである。この南予山間部では、祖先の祭祀ということを特に大切に考えており、集落の全員がお互いの祖先・新仏を供養することは、地縁・血縁を通じた集落の帰属意識を高める上でも大変効果的であろう。また供養そのものが、それによる集落の安全・平安を神仏・祖先に願うものであった(⑪㉓)。茶堂の行事の多くは、以前には戸主は必ず参加するようになっており、集落全体のものとして位置づけられていたのである。また、ここ数十年旅行者が通らなくなってからも続いているお接待(魚成地区蔭之地)は、集落の人々が文字通り茶飲み話に興ずる場として存在している。茶堂は、いわば集落のコミュニティセンターとして、また諸行事により集落への帰属を確認する象徴として存在していたと言える。


*1 天誅組の変:1863年に天皇の大和行幸の際に浪士を中心に蜂起して一挙に倒幕をはかろうとしたが、幕府軍により壊
  減した。吉村虎太郎が指揮の中心となり土佐脱藩志士が多く参加。
*2 禁門の変:1864年、八月十八日の政変で京都を追われた長州藩が、自藩の勢力回復をはかるため、藩兵や浪士を率いて
  大挙して入京したが、薩摩・会津藩との交戦で敗北した。

図表2-3-2 城川町周辺の交通網(明治~昭和初期)

図表2-3-2 城川町周辺の交通網(明治~昭和初期)


図表2-3-6 茶堂で行った行事(城川町)

図表2-3-6 茶堂で行った行事(城川町)

「ふるさとの茶堂と石仏(⑪)」より関係事項を集計して作成(行事に関しての厳密な調査ではないので、正確ではないが、およその傾向はわかるとおもわれる。旋餓鬼は念仏会に含めている。)。

図表2-3-7 茶堂内の石仏等(城川町)

図表2-3-7 茶堂内の石仏等(城川町)

「ふるさとの茶堂と石仏(⑪)」より関係事項を集計して作成(行事に関しての厳密な調査ではないので、正確ではないが、およその傾向はわかるとおもわれる。旋餓鬼は念仏会に含めている。)。