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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(2)県境を越えた交流①

 ア 土佐との交易で栄えた土居

 **さん(城川町窪野串屋 大正15年生まれ 67歳)
 **さん(城川町土居中町 大正15年生まれ 67歳)
 **さん(城川町土居葛籠 大正元年生まれ 81歳)
 **さん(城川町土居中町 大正8年生まれ 74歳)
 **さん(城川町遊子谷日浦 大正5年生まれ 77歳)
 **さん(城川町窪野串屋 昭和4年生まれ 64歳)
 土居は、かつて高知県山間部(檮原町・東津野村)との峠越えの交易で栄えた、街道沿いの在町である。江戸時代から近在の物資の集散地として栄え、明治から大正年間にかけて最盛期を迎えた。しかし、隣村の日吉村の熱心な活動もあって、宇和島-須崎間の県道が結ばれることとなり、大正4年(1915年)に宇和島-日吉、昭和4年(1929年)に日吉-檮原間の道路が開設されることで、高知県山間部との物流は日吉村下鍵山や宇和島の方に向かうようになった(②㉕㉖)。さらに、同じ昭和4年に大洲-日吉問の県道が開設されると、城川町域でも魚成・古市等の県道沿いが交通の中心となり(⑤)、川沿いの県道から奥に入る土居は、商業地としては衰退に向かった。土居の衰退は、峠道の消滅と軌を一にしている。

 (ア)かつての町の賑わい

 「この土居は、昔は檮原との交易で栄えたんです。檮原は高知(市)や須崎から行こうとすると険しい山が間にあって、陸の孤島と言われた所で、大茅峠を越えたこの土居への街道が標高差も少なく一番緩やかで、それで檮原の人らは皆、この土居に買物に来て馬の背に荷をつけて帰っていったんですな。私の小さいころ(昭和初期)でも、まだ毎日何十頭もの馬が、化粧回しのようなバレン(馬簾)をつけて鈴を鳴らしながら、峠を越えて来よりました。Tという檮原の駄賃持ちの人は、ちょうど私の組内に親戚があるもんですから、ようその家に泊まりよりましたが、日の当たるところは馬が疲れるので、蔭の地を歩きながら来るんじゃと言ってました。」
 「昭和の初めころでも、土居には置屋(おきや)が3軒あり、また須上(すがみ)(屋号茶屋(ちゃや))と赤松の雑貨商が大きくて、近在や檮原からの楮(こうぞ)やみつまた・はぜ・木材を集めて、宇和島や(肱川流しで)長浜に運び、帰りに塩・醤油・砂糖等を土居に持ち帰っておりました。檮原では土居に来たら何でもそろうと言われとったそうです。特に、節季(せつき)(旧暦正月前)にはあちこちから来た露店も道一杯に並び、檮原や近在から正月用品を買いに来た人で、身動きできんくらいでした。商業専業の人は、当時でも案外少なくて、半農半商の家が多かったように思います。
 私の家の前に『左さねき琴平道、右土佐龍王道』と刻んだ道標があって、施主は讃岐国豊田郡観音寺高橋重吉とあります。高橋さんは薬屋だったらしく、明治10年前後に建碑したようです。この土佐竜王神社は、宇和海の海岸部の漁師さんの信仰が厚くて、ここで一泊して翌日神社に参拝する人が多く、門前町的な性格もありましたな。」
 「三島神社も昔は近郷22か村を氏子として、秋祭りなどもここらあたりでは一番華やかなものでした。戦後まで、衆楽館ゆうて、ここらあたりでは唯一の劇場もあって、二流どころではありましたが市川右太治などの役者も来て、私等も青年団の資金稼ぎのために年に1回は村芝居をやっておりました。神社の宮相撲には、土佐からも竜王山という力士が来たりしておりました。」

 (イ)物資の運送

 「この土居の奥の窪野地区が城川林業の中心ですが、大正年間には、木を切りだすと、体の大きな牛で土挽(どび)き(木材をじかに引っ張ること)で甲が森(山)を越えて嘉喜尾の辰(たつ)の口(くち)まで出て、川沿いに進んで坂石の河成(現野村町)か硯(すずり)(現肱川町)より筏に組んで流し、長浜で売っておりました(図表2-3-2参照)。急傾斜の甲が森を登り降りする土挽き専門の業者が窪野の下里に2人おりました。この甲が森越えは、旧往還(街道)でもあって、茶堂が硯までの道沿いに点々とあります。戦前までは、坂石の青年らが、筏を組むための藤カズラを取りに、自転車でよく窪野の山に来ておりました。本格的な道路が土居の奥まで開設されたのは昭和の初めで、自動車による木材の搬出が行われ出したのは、昭和10年ころ(1935年)じゃなかったでしょうか。戦前から林業もある程度盛んで山も高く売れよったのは、肱川が山一つこしたらあったおかげでしょう。また、同じ町内ながら、魚成地区は山林の多くが共有林(財産区として集落で所有)ですが、窪野ではほとんどが私有林です。土居に至る街道沿いで平野が少ないため、林業に賭ける気持ちが強いのと、製炭や駄賃持ち等をやって、商業的な取引の感覚や個人の資金の蓄積があったからでしょうか。」
 「父は昭和8年ころに製材業を始め、私が昭和20年に跡を継いだのですが、戦前は松を中心に満鉄(南満州鉄道)の枕木用の坑木としての注文が多かったですなあ。板にして、須崎(すさき)(高知県)や宇和島・八幡浜に多く出しておりました。(太平洋)戦争前には、製材したものは、もうトラックで運んでおったように思います。戦時中の軍用材、戦後の朝鮮戦争の軍用材や復興資材として利益があがり、町内で製材業者はたくさん出たんですが、景気の変動で、その多くは倒産してしまいました。兄弟たちを全員学校を出させてから、私は昭和30年より造林業に転身しましたが、山の世話をするのは本当に好きで、今年町長としての任期が切れてからは、毎日山に行っております。山から運びだすにも、昔はキンマ(小丸太を敷いたキンマ道のうえを引いて木材を運ぶ、ソリ状の道具)であったのが、戦争前から猫車(キンマにゴムタイヤをつけたもの)になりましたが、まだまだ大変危険な作業でした。最近ではキャリヤという運搬機でほとんど人手をかけずに、危険性も無く運びだすことができます。森林作業での木出し一つとっても、大きく様変わりしました。」
 「私は20~30歳ころまでは(昭和20~30年代)、この窪野で、牛車で材木を運搬する仕事をしておりました。山道に切り出してある材木を県道まで引っぱって、牛車で製材所まで運んでおりました。牛車は四輪で前は鉄輪、後輪はゴムタイヤで、幅1m長さ3mほどのものです。昭和34年ころまでは、ばんば(輓馬)組合があって、12・3人の組合員で古市で会も開いておりました。田畑も5反ほど持って、田植え前には農家から頼まれて、牛を連れて代かき等を請け負ってもおりました。」
 「私が小学生のころですから昭和10年ころに、Nさんと言う人が、旧土居村でただ1台トラックを持っておられました。今なら信じられんことですが、車輪のスポークは木製でした。Nさんは、宇和島まで毎日のように通って、こちらからは木材を、帰りは塩や砂糖、そうめんやすいかを運んでおったと思います。当時すいかはここらでは作っておりませんで、Nさんの長男は私等のがき大将でしたので、すいかを降ろす時をみはからって手伝いに行って、N君は自分の家のものですから遠慮無く一つ二つ落として、それを皆で食べるのが楽しみでした。」
 「大正の終わりころは、繭(まゆ)がここでも大事な物産で、繭を人の背でかるうて坂石まで出て、川船で出してました。小学校の修学旅行は、昭和に入っても、その川船で大洲まで出て、それから愛媛鉄道で長浜へ行き、長浜から船で松山に行くのが習いでした。ふだん松山に行くのは2日がかりで、河成から歩いて予子林(肱川町)へ出、肱川沿いの尾根道を通って内子で泊まり、郡中(伊予市)に出ておりました(図表2-3-2参照)。私の家は土居の町中で、隣が商家なもんですから、家の前の電柱には、檮原から物を買いに来た人がしょっちゅう馬をつないでおりましたな。叔母は檮原から土居に嫁いできました。」

 (ウ)峠・尾根を越えた往来

 「私は、7人兄弟の惣領(そうりょう)(長男)に生まれ、小さい時に『部屋(へや)』(長男が嫁取りをすると父母が別家して隠居すること、長男はオモヤとして戸主となり、2世帯1戸となる)に引き取られ、祖父母のもとで育てられました。祖父は、他の仕事にも手を染めていたようですが、私と一緒のころは金貸しが主でした。それも愛媛と高知にまたがったもので、檮原の六丁(ろくちょう)にも1軒家を構えて、私は小学校にあがるまで、その檮原の家に住んでおったのです。ですから、学校に上がった後も含めて、祖父と一緒に大茅峠の往還(おうかん)(旧街道の呼称)を幾度となく通ったものです。祖母は、私が4歳の時に亡くなり、祖父は後添えに檮原の人を迎えましたが、下の弟はその人の妹のところに跡継ぎとして養子に行きました。私等だけでなく、たくさんの牛馬が一緒に峠を越えていってました。
 大茅峠をちょっと下ったところに、直径2mほどの大きな礎石が6個残っており、通りかかる度に不思議に思ったものです。『土居郷土誌』によると『明治初年、(竜王神社の)雨乞いの霊験(れいげん)あらたかな故をもって、伊予土居の豪農三滝亀治、大茅の豊後衛門の両人発起で日本一の大鳥居をここに建てる。鳥居は明治19年の大風雨に倒れたが石ぐちは残っている。稀に見る大鳥居の姿を思わせる。(⑦)』とあります。また、檮原にもたくさんの茶堂があり、私も小さい時は六丁の茶堂に、1日茶当番として座っておったこともありました。上級学校に進学して村外に出ても、夏休みに兄弟でよく大野が原に登りましたが、途上で茶堂に出会う毎に、(お接待で)何が置いてあるかというのが、一番の楽しみでした。
 祖父は、最初は同じ窪野の小屋(こや)町(現在の字は串屋)に住んでおりました。小屋町は、土居の手前の三滝川左岸の旧往還沿いにありまして、土居に行かずとも間に合うくらいの繁華な町を形成していたとのことです。その後、県道檮原-野村線が右岸に通ることとなり、一挙にさびれてしまいました。」
 (『土居郷土誌』によると、小屋町は大正年間まで50戸ほどの集落で、8割が商家という繁栄を誇っていた。土居と同じく楮・ミツマタ・雑穀等の高知県山間部の物資と日用品との交換が取引の中心であった。宿屋3軒、蠟(ろう)屋・雑貨商・飲食店・豆腐屋・散髪屋等がそれぞれ数軒あり、製糸工場もあった。大正末期に、県道が対岸にできることとなって、業者が我先に他町村に立ち退いたので、極めて短期間に昔日の面影がなくなったという。下記の明治年間の地図により、その面影をしのぶことができる。)
 「町の教育委員会が発行した『ふるさとの祭と神々』におもしろい話が載っております。『むかし、田穂の領地をめぐって、魚成の神と野村の神が境界争いをし、話の結果、時刻を定めて各々の社を出発し、出会った所を境界にしようということになった。一番鶏を合図に魚成の神は牛で、野村の神は猿で出発したが、猿の方が速くて、田穂の下の端で魚成の神と出会った。そこでこの境界となった場所を〝さるばい〟(猿奪い)と呼ぶようになった。』『土居、惣川、横林の神は、遊子谷の天満神社を自分の縄張りにしようと、遊子谷に集まって大論争をした。それで、そこを〝論田〟と呼ぶようになった。(⑩)』という地名説話です。伝説ではありますが、現在でも、野村町の三島神社のお祭りには、毎年田穂の牛鬼が参加しており、また、戦前までは、遊子谷地区の日浦の人は惣川の船戸神社を、泉川・上川では土居の三島神社を、下遊子・南平では横林の客神社を大氏神として崇敬し、秋の大祭にはお神幸(みゆき)に供奉することが慣わしとなっていました。通婚もその間で行うことが多いようです。これらは全て、互いにうね(尾根)を越えた向い側の集落ですので、そのようなうね越しの行き来が、昔はいかに多かったかというでしょうなあ。(各集落の位置については、図表2-3-2参照)」

写真2-3-3 現在の土居の街並み

写真2-3-3 現在の土居の街並み

平成5年7月撮影