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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(4)受け継がれている川瀬歌舞伎

 川瀬歌舞伎について、**さん(久万町大字直瀬下直瀬 大正14年生まれ 68歳)の口述を中心にまとめる。

 ア 深い山に囲まれた発祥地

 川瀬歌舞伎の発祥地は久万町の下直瀬地区である。
 「下直瀬は旧川瀬村(明治22年(1889年)町村制施行により直瀬村、上畑野川、下畑野川村が合併してなる)直瀬の一部であるところからこの名称がつけられた。」と語る。
 直瀬部落は町の東部。北は面河(仁淀)川水系と重信川水系の分水嶺である1,200~1,300m級の山の境に川内町、東は石墨山などの山地を境に面河村、南は美川村に接する。ほとんどが山村であるが、盆地中央部を流れている面河川支流直瀬川沿いの一部に平坦地があり、水田耕作が行われている。直瀬は上直瀬地区と下直瀬地区とに分かれるが、上直瀬地区の方に集落が多い。下直瀬地区は水田は多くない。久万町でも、深い山々で周辺の村々と隔絶され別天地をなしていた。
 「まわりが山に囲まれており、多くの峠を越えないと久万や松山と連絡を取ることはできなかった。また、主な産物である米を搬出したり、生活必需品を取り寄せるためには、馬に頼らざるを得なかった。久万の町までに要する時間は馬で約2時間30分であった。戦後道路がよくなり、現在伊予鉄久万バスが入り、一日3便走っており時間は約40分くらい。今残っている人たちは、松山に住むのは嫌だ、ここにおりたいと言っています。今は雪も少なく、水は良いし、空気はいいし、ここは生活がしやすい。」と語る。
 「この地に県下唯一の地芝居が芽生えたのは、古老から聞いたところによると、直瀬は僻地で娯楽の乏しかったことや、44番札所と45番札所の中間にあるため、お遍路さんが来ていて一日に何軒か托鉢をしていた。その中に浄瑠璃を語る人とか、旅芸人やった人がいてその人たちが何日か滞在して指導していたこと、また、口碑や旧家に現存する浄瑠璃の古写本、地蔵堂の絵馬などから、この地には古くからこうした芸能の温床があったことが伺える。」と語る。    
 『上浮穴地域民俗資料調査報告書(④)』によると、下直瀬に歌舞伎に対する興味が強かったことは、下直瀬の福浄寺(今は地蔵堂)に大願成就として献じた絵馬があることからも了解できるが、最も強く歌舞伎上演に刺激を与えたのは毎年春の地鎮祭としてこの地特有の催しのあったこと、ことに家内安全、五穀豊穣を祈願して三番双まわしと操り人形芝居をすることであった。そして、冬の間一生懸命稽古した浄瑠璃と三味線を地元の下直瀬で引受け阿波の人形操師で踊らせたもので、毎年来るべき春を待ちかねたものであった。そんなことから芝居の全部を下直瀬部落で稽古し実演したという気風が生まれた。

 イ 県下で唯一の地芝居

 川瀬歌舞伎がいつの時代から始まったかは明確ではないが、明治になって農閑期の山村の娯楽として漸次盛大になったことは明らかである。
 「文化12年(1814年)山内熊次が浄瑠璃を語っており、芸名が自楽とついていた。安政年間(幕末)にはいって、春の節句の地鎮祭に若衆歌舞伎を上演している。大正8年(1919年)地域の若者や芝居好きの器用人が集まって「敷島会」を結成し浪曲芝居などを始めた。そのころのリーダー格らが、同地域出身の歌舞伎俳優豊島家豊次郎らの手ほどきを受けたのがきっかけで歌舞伎を始めた。これが川瀬歌舞伎の始まりとされている。その後、青年男女らによって受け継がれ、地域の芸能として成長してきたと聞いている。」と語る。
 ここに戦後の川瀬歌舞伎の動きを口述によってまとめる。

   昭和20年 「敷島会」解散して、復員した仲間で「更生座」を結成し再発足。
     21年 進駐軍の公認劇団となる。
     23年 日本演劇協会に登録。
     26年 「更生座」を「公民館娯楽部」に切り替え第二隆盛期となる。
     32年 師匠水谷志津夫追善芝居開催(豊島家豊次郎の弟子)。
     34年 面河村柚野(そまの)の祭礼で公演したのを最後にメンバー欠員などで中断。
     36年 公民館を中心に「川瀬歌舞伎保存会」を結成し、伝統の灯ともされる。

 直瀬公民館発行の『ひびき』第7号によると、戦後水谷志津夫師匠の特別厳しい指導を受けた。一日の仕事を終えての練習がぶっとおして5時間ということもあり、精神的にも肉体的にも厳しい修業であった。しかし、このような地道な苦労があったからこそ、今日まで郷土芸能としていきつづけてきたのである。このような苦しみの中で、受け継がれてきた川瀬歌舞伎も、若い人たちが都会にでてしまい村に残る青年男女も年ごとに減少したため、その伝承さえも危ぶまれたこともあった。
 「現在では平均年齢50歳、会員も14・5名で女性が半分。この地区に古くから伝えられている古典芸能を伝承するために、下直瀬公民館を中心として、たゆまない努力が続けられている。
 ありがたいことに川瀬歌舞伎は高く評価され、郡内はもとよりのこと、県内外にも招かれて出演、昨年は全国芸能サミット大会(岡山大会)歌舞伎の部に招待され出演し好評であった。
 今困っていることは、三味線をやってくれる人が県下で一名しかいなく、その上に病弱で公演が思うようにできないということと、子役を経験した若者が町を離れていくこと、下直瀬だけで後継者づくりを考えて努力してきたが、今後は久万町全体で考えてもらわなくてはいけないと思っています。」と語る。