データベース『えひめの記憶』
えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅱ-伊方町-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)
2 三崎のくらし
(1)三崎で働く
ア お客を大切にする
「昭和40年(1965年)ころだったと思うのですが、三崎にイノシシがたくさん出たときがありました。それまではイノシシをめったに見なかったので撃(う)つ人が三崎にはおらず、高知県の土佐清水(とさしみず)市や大月(おおつき)町から猟師(りょうし)を雇い、来てもらっていました。猟師が撃ったイノシシは旅館に持ち運ばれていましたが、中には42貫(かん)(約158kg)ぐらいの大きなものもありました。
当時、猟銃を使ってイノシシを獲(と)ることができるのは11月1日からでした。ですから、10月30日ころから、猟師がそれぞれ1匹ずつ犬を連れて6、7人のグループで私(Dさん)のところの旅館(松田旅館)にも泊りに来ていました。裏の納屋小屋に繋(つな)いでいた犬が夜中に吠(ほ)えるので、近所の人から『夕べは犬がやかましくて寝られんかった。』と言われることもありました。犬には人間の食事の残り物を食べさせることは絶対にせず、いくらか麦を混ぜてはいましたが犬用のご飯を炊(た)いていました。犬のために納屋小屋には筵(むしろ)を敷いていましたし、子ども以上に大事に扱いました。夕方になって猟師が旅館に戻ると、獲ってきたイノシシを庭に吊(つ)るしていました。『イノシシの肉を分けてやる。』と言われましたが遠慮しました。それらのイノシシは猟師たちが持ち帰っていました。
ある時、大月町の猟師が連れてきた犬がイノシシにやられて瀕死(ひんし)の状態になり、三崎には獣医がいないので、私(Bさん)のところへ『なんとかしてくれんか。』といって連れてこられたことがありました。そこで、農協のあった場所(農協は昭和30年代前半に海岸の道路端に移転した。)にできた門田医院に行って針と糸を借りてきて、『生きるか死ぬか分からないので諦(あきら)めてくれ。』と言いながら犬の傷を縫(ぬ)いました。幸いにも犬の傷が治ったときには大変感謝され、お互いのプライベートの話になり、私の職業柄、『大月町の柑橘(かんきつ)栽培について、と題した話をしてくれないか。』と言われ、大月町に招かれたこともありました。」
イ 農家を守る
「昭和25年(1950年)に私(Bさん)は農協に就職しました。役場に入らないかとも言われましたが、当時、農協の初任給は4,500円で、役場や学校の教員の初任給よりもよく、その後も、昭和37年(1962年)には18,900円、39年(1964年)には22,700円と上がり、この辺りではよい給料だった思います。それだけ夏柑の景気がよかったということです。
昭和33年(1958年)に現在の三崎農協に合併したときには、『三崎町農業経済団体再編成のあり方』という約180ページの冊子を作成して、組合長と二人で三崎町内の14地区すべてに足を運び、合併の必要性や基本方針、組織、事業の運営・計画などを組合員に説明して回り、了解を得ました。
農家はそれぞれ何台かの農機具を使っていて、それらはすべて農協で販売や修理をしていました。私(Bさん)は技術員として農機具の修理や操作方法の指導をしていましたが、農機具も製造メーカーによって仕組みや操作方法に違いがあり、それらをすべてマスターしておかないとお客さんの要望に対応ができませんでした。昭和30年ころではありませんが、昭和42年(1967年)に三崎で大干(かん)ばつがありました。その時期は、困っていた農家の人たちへの応対で夜中の12時前に家に帰れることはなかったのですが、そのような時でも、『農機具の故障を見てくれ。』という依頼があれば駆(か)けつけていました。自分でもよくやったなと思います。」
(2)三崎で遊び、学び、生きる
ア 人々の楽しみ
「三崎には、東劇(とうげき)と三崎館という二つの映画館がありました。東劇は、もともとは菊栄(きくえい)座という芝居小屋でした。私(Cさん)が子どものときは菊栄座のころで、中学校の学芸会を菊栄座でしたことがあります。東劇に替わってからも芝居と映画の両方をしていました。私(Eさん)が子どものころも時々は芝居をしていました。舞台や花道がありました。旅芝居が上演された時には、家(うち)の旅館に役者さんが泊まることもありました。私(Cさん)も出演したことがあるのですが、青年芝居もやっていました。地元の青年団を中心にして、年に1回ぐらいの発表のために芝居の練習をしていました。それが昭和30年代の前半ころまで続きました。
東劇は、宣伝方法がユニークでした。新しい映画があると、映写機担当の人が映画の看板を背負って、『チンドン、チンドン』と鳴らし物を鳴らしながら三崎の町を歩いていました。私(Eさん)たち子どももおもしろがって一緒に歩いていました。それから、映画館の屋上から四方八方に聞こえるように拡声器で当時の流行歌を流していました。ですから、流行歌がかかると『新しい映画がきたのかな』と思っていました。映画館の隣に住んでいましたので、毎日のように演歌などが流れてきて、相当に賑やかでした。今でも当時の流行歌をよく覚えているのは、そのせいだと思います。
私(Dさん)はほとんどの映画を見に行きました。特に印象に残っているのは、昭和20年代の終りころかもしれませんが、『君の名は』です。当時の映画は2本立てで入場料が80円でしたが、正月映画だった『君の名は』は150円で、昼夜2回、上映をしていました。(『君の名は』の映画を)好きな人の中には、2回観たという人もいました。
昭和30年(1955年)ころは、東の東劇と西の三崎館で毎晩のように映画をしていました。二つの映画館は、いずれも邦画がほとんどでしたが配給元は違っていて、現代劇が主流であった方と時代劇が多かった方とに分かれていました。ですから、映画を観る人の中には、東劇派と三崎館派というのがありました。でも、その映画館も、テレビ放送が始まると観る人が少なくなっていき、昭和30年代の後半にはなくなってしまいました。
映画館以外にも、町の中心には、パチンコ店(図表1-6-2の㋚参照)やスマートボールのできる遊戯(ゆうぎ)店、社交ダンスができるダンスホールなどがあり、大人はそういう場所で遊んでいました。子どもたちは、雑貨店でビー玉やぱっちん(面子(めんこ))などを買って、商店の間の空き地でそれらを使って遊んでいました。昔はアイスキャンディー(氷菓子)のことをアイスケーキと呼んでいましたが、三崎にはアイスキャンディー屋さんがいくつもありました。私(Eさん)が子どものころは、夏場にそれらの店の近くを通ると、涼しいうえにアイスキャンディーを作る時の『ケンケンケンケン』という機械の音がしてきて、食べたい衝動によく駆(か)られました。」
イ 「地域文化の殿堂」三崎高校の創立
「昭和26年(1951年)に三崎高校(愛媛県立三崎高等学校)が開校されましたが、私(Bさん)はその1期生です。草創(そうそう)期は夜間の定時制で、中学校(三崎村立三崎中学校)に間借りをしながら授業をしていました(三崎高校の校舎は、昭和29年〔1954年〕に三崎中学校に隣接して建てられ〔図表1-6-2の㋞参照〕、昭和34年〔1959年〕に現在の三崎総合体育館のある場所に校舎の移転及び増築が完了した。)。当時はまだ大佐田(おおさだ)に住んでいましたので、農協での仕事が終わった後に大佐田の家まで帰って夕食を済ませ、それから学校に通って、夜の9時か10時ころまで勉強をしていました。松山の農業学校を出ていましたので高校は1年で卒業しましたが、地元出身の末廣(重之)校長が相当に教育熱心であったのは覚えています。三崎に高校ができるというのは普通では考えられないことで、土地などを無償で提供した三崎村や近隣の村の協力も含めて、いろいろな人の力があってできたのだとは思いますが、何よりも末廣先生の熱意のおかげだと思っています。」
ウ 海と向き合う町
「三崎は海端の集落ですから、台風の時などは海岸近くの家に高波がかかることがありました。そのため、家の海に面した側には波しぶきを避けるための防潮壁(ぼうちょうへき)を造っていました。防潮壁は、石組みの壁(かべ)をコンクリートによって補強したもので、家の屋根の庇(ひさし)部分よりも高くして波が直接かからないように工夫していました。防潮壁には人が通れるぐらいの狭い隙間(すきま)が空けられていて、普段はそこから家への出入りをして、台風などで高波が来るときには、隙間に2寸(約5cm)ぐらいの厚さの板を内側から差し込んで塞(ふさ)ぎ、波が入るのを防いでいました。しかし、それでも高波の被害を受けることはありました。」
三崎で毎年10月8日、9日に行なわれる秋祭りは、東組と西組に分かれ、東組の牛鬼(うしおに)(平家(へいけ))と西組の四ツ太鼓(だいこ)(源氏(げんじ))が海岸近くの広場でそれぞれ立ち上げられて掛(か)け合う、勇壮(ゆうそう)な祭りである。牛鬼と四ツ太鼓が一気に倒れる様は迫力があり、この時に上に重なったほうが勝ちとされ、何回か繰り返して牛鬼が勝てば大漁(たいりょう)、四ツ太鼓が勝てば五穀豊穣(ごこくほうじょう)といわれている。
「海岸が埋め立てられる前は、秋祭りのときに、潮が引いた砂浜の上で(牛鬼と四ツ太鼓の)ねり(掛け合い)をしていました。ある時などは、ねり比べに負けたほうの若い者が、勝ったほうの若い者を海の中に放り込んだりすることもありました。祭りを見るために方々から船で港に来る人も多く、私(Bさん)も大佐田から船で来て碇(いかり)を入れ、沖から祭りを見ていました。」
<その他の参考文献>
・愛媛県『愛媛県史 社会経済1 農林水産』 1986
・伊方町『伊方町誌』 1987
・伊方町「ふれあいいかたNo.42」 2008
・瀬戸町『瀬戸町誌』 1986
・三崎町『三崎町誌』 1985
・藤岡謙二郎編『岬半島の人文地理』大明堂 1966
・愛媛県生涯学習センター『宇和海と生活文化』 1993
・山口恵一郎他編『日本図誌体系 四国』朝倉書店 1975
・得能盛儀「伊方町旧町見村に伝わる正月の雑煮祝いについて」(『八幡浜史談 第36号』 2008)
・山田進平『南海風物詩 三机物語』玉置寛発行 1970
・愛媛新聞連載「三崎半島」 1965
・矢野徹志「町並みをたずねる(三)瀬戸町・三机・十七軒家」(『ジ・アース 第3号』 1989)

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