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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅰ-伊予市-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 峠を越える水路

 導水路がどのように流れているか、Aさん(昭和9年生まれ)、Bさん(昭和13年生まれ)とともに現地で調査した成果を地図にまとめた。

(1)法師の導水路

 「法師(ほうし)と松尾(まつお)とは同じ管轄(かんかつ)(同じ行政区)で、昭和の初め、法師には7軒の家がありました。今は1軒もないのですが、役場から連絡が来ても全部、松尾の人が法師まで知らせていました。法師の人は、集会のときなど、松尾まで提灯(ちょうちん)をつけて歩いて来ていました。法師の人は、学校は、大洲市の学校に行っていました。下灘の学校まで下りてくるのは大変なので、行政区は双海でしたが、学校は、大洲市の田処(たどころ)の学校に行っていました。田処の方が近いですし、山越えしなくていいのです。
 堀切から南へ、法師側の斜面には、今は木が生えていますが、昔は小さい棚田でした(写真2-1-2参照)。日当たりも良かったです。最近まで、松尾の人が作りに来ていました。
 冬は水量がありますが、夏になると水量が少なくなります。そのため、干ばつのときは、生きるか死ぬかの問題になってくるのです。
 取水地は2か所あって、両方から水を引いています。今は、見たところ、奥の方の取水地からはほとんど水を引いていない状態です。稲作をやめた人が多くなってきましたので、今は、なくても問題がないのでしょう。
 大洲盆地に向かって流れている水が欲しくて、少しだけ傾斜をつけた水路を築いています。取水地が二つに分かれていますが、手前側の谷水の水量だけでは少ないので、奥の水量が多い谷からも水路を繋(つな)げて水を引いています。今なら思い付きもしないことです。よくぞ、この水路を思い付いて、実行に移したものです。今だにこの深山(みやま)大井手の水が、本村でのミカンハウス栽培でいきています。ですから今でも、葉っぱなどゴミで水路がつまらないように確認に行っています。
 大昔に、鍬(くわ)とノミとで全部手でやったのですからすごいことです。しかも峠を掘って、分水嶺を越えて水を流しています。これは、とても大きい意義のある、すばらしい産業遺産だと思います。」

(2)堀切の分岐

 「昭和30年代まで、この堀切の峠には、水路とそばの小道程度の部分だけ掘り下げている状態でした。堀切では人が歩くだけの幅しかなく、水路幅50cmと両側合わせて幅1mぐらい掘り下げただけでした。それを、昭和35年(1960年)ころにさらに掘り割って、道幅を広げました(写真2-1-2参照)。今は、ヒューム管を通していますので、道路の脇に埋めていますが、昔の水路は、今の道路より少し上ぐらいになります。堀切までは、ほぼ水平と言っていいくらい緩やかに水路が作られていますが、堀切から先の海側は、水路が斜面を駆け下りていきます。
 この堀切で、水が分かれて流れるようにしています。一つは松尾、一つは本村、そしてもう一つが私(Aさん)方への水路です。私方は、1年のうち36時間水路から水を引く権利がありますので、他の水路への流路をせき止めて、水が私方だけに流せるように設備がつくられています。」

(3)満野への導水路

 「私(Aさん)は、満野(みつの)までいっていた水路を歩いて下りたことが2回程あるのですが、その後、引き返して帰るのが大変でした。1人で歩いて行ったので、歩いて帰るしか方法がなかったからです。当時は水路跡のヘリにある小道を歩くことができました。今は水路が使われないので、道として使われている跡や、土の溝(みぞ)がずっと繋(つな)がっている形が残っているだけです。
 ここでは元の水路の中から木が成長しています(写真2-1-3参照)。このヒノキで20から30年ぐらいです。スギよりは、ヒノキの方が成長に時間がかかります。水路の横には、小道がありました。
 堀切から歩いて下りていくと、壷神(つぼがみ)という開拓集落があります。かつては17戸ありましたが、今では1戸になりました。キジ撃ちなどをしていました。
 満野へ向かう水路の途中に谷川があったりすると、木をくりぬいて今の土管のようにして、谷川の流れを越えて設置していました。」

(4)松尾・本村への導水路
 
 「深山(みやま)の水は満野(みつの)と本村(ほんむら)に行っていて、水田を潤(うるお)していました。松尾にも水田がありました。明治時代までは、深山の水は松尾の上の方を流れていたのですが、松尾の水田には来ていませんでした。それまでは、山の湧(わ)き水を引いて使っていました。
 松尾の水田に深山の水が引かれたのは大正の初めころのことで、本村に住んでいた田中さんが引いたのです。田中さんは京都銀行の頭取をして帰って来られた方で、帰ってきたときに退職金で松尾の土地を買い、水田を開墾して松尾の人に小作をさせるようにしました。その水田に引く水を確保するため、満野へ向かって流れていた水路の権利を買い取ったのです。しかし、戦後の農地改革に伴って、今では松尾の住民に水利権が移っています。
 田中さんは、深山から来ている水の半分の権利を持っていた満野の水を買って、水田を開墾しました。私の祖母は、水田を開墾しに行ったと話していました。今でも、水利権は、水田を所有している人に半分権利があり、残りは本村(ほんむら)に権利があります。田中さんが土地を買って、松尾(まつお)に水田を開墾したのが、大正の初めころですから、水路は明治時代までは満野(みつの)にも行っていたことになります。
 鈴木金龍(きんりゅう)さんという、明治37年(1904年)ころの生まれの人が、『子どものころにはこの水路で水遊びをしよった。笹舟(ささぶね)浮かべてずっと向こうまで行きよった。』と話しているのを聞いたことがあります(写真2-1-5参照)。
 また、満野で水田を作っていた人から、昔はこの水路の水を引いていたと聞いたことがあります。
 整理すると、深山(みやま)の水は、明治時代までは、満野と本村で半分ずつ権利を持っていました。江戸時代の天明(てんめい)の水論後に、1年間に36時間だけ松尾の私方(A家)に水を使う権利を与え、それは今にも伝わっています。大正時代の初めごろ、満野の水利権を田中さんが買い取って、松尾で水田を開墾して、そこへ深山の水を流しました。その時には、水利権は全部本村に権利がありましたが、戦後、農地改革があって、松尾と本村に半分ずつの水利権になったのです。」

写真2-1-2 堀切

写真2-1-2 堀切

奥へ行くと法師(分水嶺南側)地区がある。手前の鉄板の中に水路の分岐がある。伊予市双海町。平成23年11月撮影

写真2-1-3 元の水路の中に生える檜

写真2-1-3 元の水路の中に生える檜

木の根元左手上から右下へ水路跡がある。伊予市双海町。平成23年11月撮影

写真2-1-5 笹舟を浮かべたという水路跡

写真2-1-5 笹舟を浮かべたという水路跡

水路跡は現在小道になっている。伊予市双海町。平成23年11月撮影