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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(4)職人がいなくなる

 ア 最後の桶屋

 「材料は、製材所から買います。昔は、宇和島に製材所が14、15軒あったのですが、建材屋やホームセンターにおされて、今では宇和島で製材所も2軒になったのです。製材所だけでなく、畳屋、襖(ふすま)屋、建具屋などもなくなってしまい、職人がいなくなってしまいました。機械を使って同じ規格で大量生産されたものが畳でも何でも作れるのだから、職人の技術は必要ない時代になったのです。桶屋も同じです。桶を作るために、弟子入りして3年も4年も修業をする人もいないし、桶屋になっても生活が成り立たない時代です。
 今、宇和島市内で桶屋はうちだけになっています。宇和島だけでなく八幡浜にも桶屋はありません。松山から桶の修理を頼みに来る人の話では、松山にも桶屋はないと言っていました。県内ではうち以外にないのではないでしょうか。うちも私がやめたら終わりになります。私が最後の桶屋です。子どもは5人いて男の子が1人いますが、桶屋を継げとは言いませんでした。その理由は、桶屋だけでは生活が厳しいことと、桶を作ることが本当に難しいからです。桶屋で子どもが跡を継いでいる例はほとんどないと思います。親が桶屋をしていて道具があるので、親がやっていたことを見よう見まねで定年になってからやるという人は出てくるかもしれませんが、弟子入りして修業をしてまで桶屋になる人はこれから出てこないでしょう。自分一人でも仕事がないので、弟子をとったことはありません。」

 イ 生業としては成り立たない

 「今は注文を受けて作りますが、作ったものを店に置いていると、ぼつぼつと忘れたころに売れています。寿司屋から大きい寿司はんぼの注文や、魚屋から直径が2尺8寸(約84cm)、高さが1尺3寸(約39cm)の魚を洗う桶の注文、お寺から古い桶の修理を頼まれてどうにかこうにかやっている現状です。修理は竹のタガ(輪)を替えたり、針金のタガを替えたりするタガ替えがほとんどです。竹の方が外れにくく、針金の方が細くて桶に当たっている部分が少いので外れやすいのです。
 宇和島に桶屋がたくさんあった時代(昭和40年代まで)には、組合があってちょくちょく集まって話をして、ある程度の値段を決めていたこともありましたが、だんだん桶屋が少なくなり、そういうことも自然となくなってしまいました。時代の流れには逆らえません。店の斜め向かいに去年コンビニができました。昼でも夜でもどんどん車が入って繁盛しています。食べたいものがあれば、日曜でも夜中でも関係なく買って食べることができる時代です。人々は桶がなくても生活に困らないのです。昔のように、桶がなければ入れ物がないのとは訳が違います。桶を使うことがないのです。わざわざ寿司はんぼを買って家でお寿司を作るより、スーパーで出来上がったお寿司を買って食べた方が、作る手間も後片付けの手間も要(い)らないのだから、仕方がないのです。ある友人は『お前まだやっているのか。はよう、やめんかい。』と言いますが、別の友人は『やれる間は、やらないかん。』と言うので、『若いころ1日でできた仕事も年をとってくると4日も5日もかかる。』と言うと『1か月かかってもかまわないのだから、ぼつぼつとやれる間はやんなはいよ。』と言ってくれます。修理を頼みに来たお客さんに『合わない。採算がとれんのじゃけん。』と言うと『趣味だと思ってやってください。』と言われました。趣味ではやっていけても生業としては成り立たない時代になったのです。」
 年季を入れた桶職人の仕事には冴(さ)えがあり、確かさがある。近年の産業、生活様式の変化により桶職人の技がすたれていくのは残念なことである。伝統工芸だけでなく、こうした一般の職人の技も人々の生活に根ざした価値ある生活文化として保護していく必要があるのではなかろうか。