データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

わがふるさとと愛媛学Ⅴ ~平成9年度 愛媛学セミナー集録~

◇環境民俗学とは

 皆さん、こんにちは。私は、民俗学を勉強しています。そこで、民俗学から見たときに、環境、あるいは景観というものをどのようにとらえるのか、という話をしてみたいと思います。
 民俗学の分野から、「景観とは何か」を考えてみますと、一言で言いますと、「環境と人間とのコミュニケーション」ということになると思います。環境と人間とのコミュニケーションの結果が、景観として現れていると考えます。ただ、環境と言いますのは、今日の話にありました山とか海とかの自然環境がありますし、それから、焼畑、あるいは棚田とか、そういう人間と自然とがちょうどミックスしている半自然の分野があります。また、茅葺(かやぶ)きの屋根を残そうだとか、明治時代の建築物、洋風建築が大切だからそのことについて考えようとかいう、そういう歴史的環境までいろいろあります。けれども今日の私の話は、いろいろな環境のうち自然環境にしぼり、自然環境と人間とのコミュニケーションについて話をしたいと思います。
 まず、民俗学とは何かということを、ごく簡単に、そしてできればその本質を説明しておきたいと思います。民俗学の本質を御理解いただければ、景観というものを民俗学的視点から考えることができると思うからです。
 実は、民俗学というのはたいへん奇妙な学問でして、大学にも、ほとんど授業がないのです。では、どうして民俗学がこれほど哀れなのかと言いますと、実はこれは西洋の学問ではなく、もともと国学だったのです。国学が滅びずに、現在、民俗学としてずっと続いてきている。国学者の平田篤胤とか、本居宣長、僧契仲などが、江戸時代にしてきたものを、ずっと引き継いでいる。それが日本民俗学の基本的な流れです。そしてこの学問は、古い日本の学問なので、大学生が学ぶことではないと考えられていた時代がかつてありました。
 次に、なぜ江戸時代に国学が登場してきたのか、ということを考える必要があります。実は、江戸時代の一番中心の学問は朱子学(儒学の一つ)でした。これはこの松山藩の藩校でも、恐らく学んだでしょうし、武士や公家もたいへんよく勉強いたしました。この朱子学は何を教えていたかと言いますと、これも一言で言いますと、民草(民衆のこと)をどれだけ上手に支配するかということでした。つまり民衆というのは、単に頭を殴れば従うものではありませんね。蹴散(けち)らせばすむという話ではない。やはり民衆というのは集団で行動しますと力がありますし、社会がうまくいくためには、強制ではなく、頭で納得してもらわないといけない。我々も人間ですから、納得しないと、そう簡単には他の人の思うとおりに動かないわけです。そうすると、学問として、民衆をどのようにうまくコントロールするかということは、当然、支配する側にとっては必要なことだったのです。つまり朱子学には、支配の政治学とでもいう社会・人間観が入っているのです。
 ところで、元禄のころから、人々に少しずつ経済的余裕ができてきました。どういうことかと言いますと、地主階級や大きな商家・網元が登場し始めます。そしてそれらの息子たちは、農民や漁民の子供たちのように朝から晩まで労働しなくてもよいわけです。つまり暇なわけです。人間、暇になるとどうするかというと、中には遊び回る人もいるのですが、自分はなんのために存在しているか、ということを考えるのですね。そして、その回答を得ようとすると、どうしても学問が必要になります。しかし、既存の学問は、民衆をどう支配するかを考える支配者のためのものが主流でしたから、この問いかけには答えられない。結局、自分は何のために生きているのか。自分自身のために生きたらいいのか、他人のために生きたらいいのかさえ分からないわけです。
 こういうことを背景として庶民の中から出てきた学問が、国学です。経済的に余裕のある人たちが、民衆の中から出てきて、そこで人間の理想像を追っていこうということになった。しかし、時代は江戸封建期ですから、明治期以降に日本が導入したところの西洋の学問が持っていた理想論-たとえば市民社会論-を知りませんでした。そこで彼らは何を理想と考えたかと言いますと、『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』などでした。たとえば、『万葉集』の歌の中に、本当に自然で自由な人間らしい姿がある。後の『古今和歌集』や『新古今和歌集』になると、人工的というか、ちょっとゆがみがでてくる。『万葉集』の中の開放された人間、そのような姿を研究していく必要があるということで、国学は古い時代の文献分析の中から、日本の純粋は何かということを追究していくことになりました。
 明治時代になって、この国学を若者たちに教えるかどうか、政府はたいへん迷いました。しかし結果としては、教えないことにしました。西洋の学問が一番いいということになり、それを高等教育で教えることにしました。このため、国学の流れをくむ民俗学は、たいへん細々としたものになったのです。つまり、民俗学は何をやっているかということを一言で言いますと、それは民衆分析なのです。自分たち分析なのです。
 民俗学は、郷土学という言われ方もしました。自分自身から始まって、一個一個の人間について、あるいは自分たちをつくりだしているふるさと、地元について考えていこうという学問です。ですから、お葬式や結婚式の分析をしたり、我々は死んだらどこへ行くのかなどを研究する。平田篤胤は、亡くなってあの世から帰って来た人から話を一杯聞いて、あの世はどのようなからくりになっているのかを分析しました。その他、民俗学の対象としては、民間信仰や社会伝承、口承文芸、生業、年中行事など様々なものがあります。また、新しい対象として、都市とか環境とかも扱われるようになってきています。
 では、民俗学はどのような考え方をしているのかと言いますと、一つは興味本位。ここに、この学問のすごさがあると私は思います。つまり、すぐに役に立つというようなことは考えていない。そしてもう一つは、さっきお話しました「自分たちはなぜ生きているのか。」という問いかけも含めての、生活の切実さです。この二つの考え方を説明する分かりやすい例が、「嫁盗み」です。
 娘を盗むという習慣は、日本だけでなく外国にもあります。年ごろの娘を盗んで、結婚相手と思う人のところに連れて行く、嫁盗みの習俗です。「嫁盗みとは、面白いことをやってるね。じゃあ、これを調べてみよう。」と興味本位で民俗学が飛び付きました。そして民俗学が、この嫁盗み習俗からどのような回答を出したかと言いますと、日本人は、安定したくらしを守って生きていくために、「家」が、そしてそれらが集まった「村」が必要だったということです。家や村という組織がないと、安定した生活ができない。とりあえず私たちは、全員が生き残らないといけない。どこか途中で死んでしまうわけにいかない。そのための工夫として、人間の孤立を避けるために家とか村をつくったわけです。資本主義社会で会社という組織をつくるのと似ています。もちろん、お嫁さんをいじめるためや、お互いに気持ちを暗くするために、家をつくったわけではありません。従って、その家の家長や主婦には、たいへん大きな役割が背負わされることになったわけです。
 このような大切な家の構成員、つまり結婚相手を、好きだからその人にするなどということは、実にばかげたことなのです。百姓でも、身分の低い者は、好きな人でもだれとでも結婚していいよというのがあるのですが、一定程度田畑を持っているような家が、簡単に結婚を許して分家を認める、そのために田を分けてやる、ということはできない。田を分けた人は愚かな人だから、「たわけ」と言うのかもしれませんね。とにかく家を維持しないといけない。つまり、だれを嫁にとるかということは、大きな問題なのです。たとえば、松山藩の役人が村に年貢を取りに来て、最後に皆済目録(かいざいもくろく)という領収書を出す。その時に、当然村の代表者は、今年の作柄は悪いよとか言って、少しでも年貢を安くするのが才能なわけです。そういう村の中心人物の家の息子が、「あの子は、ものすごい美人だし魅力的だから、あの子と結婚したい。」と言っても、その娘が、村に役人が来た時の礼儀作法や大きな家の嫁としての知識もないとしたら、こんなのを嫁にもらったらたいへんですよ。座る場所や、お茶をどの時に出すのか、あいさつはどうするのか。結婚は、こうした知識のある人としないといけない。これは、自分だけの問題ではなくて、家の問題であり、ひいては村全体にかかわる問題なのです。
 ですから、あるランク以上の人たちは、お互いに生きるために、はれた惚れたということは捨ててもらわないといけない。それは、恋愛なんてけしからんということではなくて、お互いに生きるための知恵だったのです。
 しかしながらそうはいっても、私たちは恋愛をします。人を好きになって、もう結婚できないのだったら死んでもいい、というくらいまでの恋愛もあるじゃないですか。実は、社会の制度というのは、そういう非常手段をも考えるようにしてあるわけです。どういうことかというと、親としては、あの相手との結婚は反対しなければならない。内心はいいと思ってるのですよ。そう思っていても、その相手を認めたら、親せきや仲間からどういうことを言われるかわからないというので、親は反対する。当の本人も、理屈は分かるけれども、反対されるのだったら、もう死んだほうがいいと思い詰める。そうした時に、やはり一つの手段を作っておかないと、収拾がつかない。その手段が、嫁盗みなのです。嫁盗みで一番よくあるパターンは何かと言うと、若者組がその女の子を盗むわけですが、盗まれる嫁-「嫁」といっても、厳密にはまだ嫁になっていないのですが-も、どこへ連れていかれるのか分かっているというものです。そうすると、村としては、これはもう若者組が動いて決めたことだから仕方がないとなる。また家族の者も、自分は反対したけれども、若者組が勝手に盗んでいったので仕方がないとなる。これで、お互いの顔が成り立つわけです。
 このように、制度は絶対に崩すわけにいかない。しかしながら、何のために制度があるのかというと、お互いが幸せに生きていくためです。そうすると、人間が生きていく上には、いろいろな状況が起こりうる。そのために、例外事項としての非常手段という工夫が考え出される。まとめますと、民俗学として、最初は単なる興味本位から調べ始めたものが、それぞれの場の生活の切実なところから考えだされた工夫だった、ということが分かってきたわけです。そして民俗学は、この興味の対象を、自然観とか、歴史的環境、自然景観とか文化景観などに広げ、具体的に調べ始めました。