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わがふるさとと愛媛学Ⅳ ~平成8年度 愛媛学セミナー集録~

◇宇和教育の背景-二宮敬作(にのみやけいさく)、左氏珠山(さししゅざん)

 こうした卯之町中町に、1833年(天保4年)シーボルトの高弟である二宮敬作が、ちょうど30歳でしたが、宇和島の殿様の命を受けて医業を開いたのです。これより52歳になるまで22年間、この卯之町で医業に精励し、名医でございましたので、近在から診てもらいに来る患者さんもずいぶん多かったようで、「門前市をなした。」と伝わっています。また、一方で薬草園を開いたり、さらには近隣の医師の相談を受けたり、教えを請うものにさまざまなことを教えたということも伝わっているわけです。
 30代、40代という人生の働き盛りで大変有能なシーボルトの弟子敬作が、この町に暮らし仕事をしたということは、すごいことなのです。わが国でも第一級の人物(村田蔵六・高野長英など)が始終出入りをしていた二宮塾とも言える、厚養亭(こうようてい)での教育は、シーボルトの娘楠本(くすもと)イネ、甥の三瀬周三(みせしゅうぞう)、息子の二宮逸二(いつじ)さらに清水長十郎、清水甚左衛門(じんざえもん)などの逸材を育て、敬作の教えを受けた人たちが、その後、日本の近代化に尽くしたことは、いうまでもありません。それと同時に、卯之町の人々に開明(かいめい)精神を植え付け、学問や教育への関心といったものを非常に高めていったようです。
 1855年(安政2年)、二宮敬作が準藩医として宇和島に去った後、敬作の教えとか感化を受けた若者たちは、清水長十郎らが中心になって、敬作と親交のあった上甲振洋(じょうこうしんよう)の弟子の左氏珠山を大師堂(だいしどう)に迎えて、自分たちも学ぶとともに、子弟の教育を始めたのです。
 大師堂は、けっこう広かったようで、6畳間の仏間ともう一つ6畳間があって、それに炊事場がついており、さらに8畳間が二つあり、そして濡れ縁が三方にあったようです。8畳間で指導をしたのでしょう。先生の住居も兼ねていましたから、奥様も御一緒で、子供もお一人ここで生まれています。1858年から始まる10年間の大師堂での、全人教育によって幾多の人材が育てられました。
 1869年(明治2年)に珠山が、藩校明倫館(めいりんかん)の教授として呼ばれ、宇和を去らなければいけなくなった時、みんなは嘆きました。しかし、清水長十郎ら有志の者が相談して「立派な先生を迎え、子弟の教育を行うために学校を建てよう。」ということになり、有志で私財を出し合って始めたところ、地域の人々がみんなやってきて、力を合わせて建てたので、1か月余りで出来上がりました。これは先生の住居を兼ねた、ちょうど松下村塾(しょうかそんじゅく)くらいの大きさの学校です。1869年にこれが建ったわけです。1870年に珠山は、この建物を「申義堂(しんぎどう)」と名付け、後世のために「申義堂記」を板に墨書して掲げました。
 上甲振洋、左氏珠山の口添えと、卯之町第一の庄屋だった清水甚左衛門らの嘆願書などが功を奏しまして、申義堂が藩校に継ぐ「宇和郷校(ごうこう)」になりました。学制発布の3年前に、宇和郷校という、官立に近い学校ができて、先生が派遣されるということで、立派な教育が行われるようになったのです。私は、これが中町の人たちの心意気だと思うのです。