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わがふるさとと愛媛学Ⅳ ~平成8年度 愛媛学セミナー集録~

◇宇和の地理的・歴史的背景

 ここ宇和町は、地理的に見て、南伊予の中心に位置していますが、歴史的に見ても、古代には、郡衙(ぐんが)(郡の役所)が置かれていましたし、中世には橘(たちばな)氏、続いて西園寺(さいおんじ)氏が根拠地を置き、南伊予全般を支配していました。
 室町時代後期から、安土桃山時代にかけては、西園寺氏は、松葉(まつば)城、黒瀬(くろせ)城といったところを根城にして、南予の大半を支配し、中予の河野氏、中国の毛利氏らと相提携をして、九州勢、土佐勢と大変善戦をしたという記録も残っており、長い間、勢力を維持していたようです。
 近世になって、宇和島に中心が移るわけですけれども、そこへ移っても、宇和島藩内随一の穀倉地帯として、農林産物の豊富な村々を控えて、宇和島城下に継ぐ、藩内第一の在郷町(ざいごうまち)、宿場町として卯之町(うのまち)は栄えていたのです。その中心が、宇和島街道沿いの中町だったわけです。米、麦、大豆、野菜等の農産物や、薪や炭、あるいは材木や酒、酢、味噌、醤油、さらに油、魚、呉服、ロウソク、饅頭とか菓子、そして雑貨、文房具とかなりの物を扱う店が軒を連ねて、にぎわいをみせていたという記録があります。
 交通の要衝の地でもありましたから、旅館や料亭も大変にぎわっていたと聞いております。四国霊場43番の札所、明石(めいせき)寺の参道口に中町はあたりますから、遍路宿も多く、江戸、明治、大正初めにかけて、中町を中心に卯之町は大変にぎわっていたのです。
 各地から訪れて来る人も多くて、情報なども、人や物もずいぶんと入って来る町で、交流のある、にぎわいのある、活気のある町であったということです。