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わがふるさとと愛媛学Ⅳ ~平成8年度 愛媛学セミナー集録~

◇中世の河野氏の光と影

 次は、「中世の河野氏」についてです。
 河野氏はご存じのように、越智氏から出て、善応寺(ぜんおうじ)付近の河野郷に住み、河野氏を名乗ったというのが、今の定説になっています。そこで水田を開発し、次第に大きくなっていった豪族だと考えていいのではないかと思います。鎌倉時代から南北朝、室町、そして戦国時代まで、伊予一円に勢力を張ったものです。河野郷が発祥の地ですから、善応寺の入口に、「河野氏発祥の地」という、大きい石碑が建てられています。
 河野氏の歴史は、ある時は大変勢いを増した時もありましたし、また戦に破れて、ほとんどの領地が没収されてしまったような不遇の時代もありました。そのような盛衰を繰り返しながら、ちょうど今、大河ドラマでやっている秀吉の時代に至るまでの約400年間、栄えた豪族です。
 河野氏に関する主な事件をみてみますと、まず、源平の戦いでは河野通信(みちのぶ)が水軍を率いて義経の軍に協力し、屋島の戦い、そして、壇(だん)の浦の戦いで、平氏を滅ぼしました。
 なお、水軍が、戦に出発するに当たって、鹿島神社の社頭において、戦勝祈願をしたのが、今に伝わる「櫂練(かいね)り」(県指定無形民俗文化財)の起こりであるとも言われています。
 次に、承久(じょうきゅう)の乱というのが起こりました。後鳥羽(ごとば)上皇方と幕府方とが戦をするわけですが、上皇方に組みした多くの河野氏は戦に敗れ、その総領であった河野通信は、現在の北上市(岩手県)の方に流されて、そちらで亡くなっています。
 そのほか、通末(みちすえ)は、長野県の佐久(さく)市の南、臼田町というところがありますが、そこの小田切という里に流されて、そこで亡くなります。そのあと、通信の孫に当たる一遍上人が、それぞれの自分たちの先祖の地を供養して回ったことが「一遍上人聖絵」に出ています。通信の墓は、聖塚として、現在、北上市が管理しており、「河野通信公墓所」という大きい標柱を建てて、大事に祀られていますし、通末の亡くなった所は、一遍上人がそこで踊り念仏を始めたと言われており、「踊り念仏発祥の地」という碑が建てられています。
 幕府方についた通久(みちひさ)だけは、現在の徳島市に富田荘という領地を与えられ、命脈を保つわけです。のち、領地を交換してもらい、現在の松山市の方へ帰りますが、この時期、河野家は大変衰微します。戦に負けたものですから、領地を没収されて大変なことになったわけです。
 その河野家が再び栄えるようになるきっかけは、蒙古襲来です。蒙古が攻めて来た時に、河野氏は、自分たちの兵士を率いて参戦します。その時の総領は有名な河野通有(みちあり)です。通有はそこで大変な手柄を立てるわけです。それによって恩賞地として現在の佐賀県の吉野ヶ里(よしのがり)近辺、神崎郷という辺りと、もう一か所、熊本県の松橋(まつばせ)町辺りを領地としてもらいます。そういう関係で、特に、熊本県不知火(しらぬひ)町の方には、河野の姓がたくさん残っていて、自分たちの祖先は伊予の風早、河野郷から出たということで、大変誇りに思っておられるようです。そこには、系図も残っています。
 南北朝時代に入りますと、河野通有の子、通盛(みちもり)が、建武年間の1335年ころ、道後に湯築(ゆづき)城を築き、この善応寺の館からそちらへ城を移します。そして、それまで住んでいた、この北条の善応寺近辺の館を、自分達の一族の心のよりどころ、菩提寺(ぼだいじ)にしようということで、京都の東福(とうふく)寺をまねて、立派なお寺を造ります。その一部が、現在の善応寺ですが、現在のものは、江戸時代になって建て替られたもので、元のものではありません。
 最後は、1585年(天正13年)四国統一のために、秀吉の命を受けた小早川隆景(こばやかわたかかげ)が大軍を率いて攻めて来て、各地の城を落として、湯築城に迫るわけです。湯築城では、いろいろ協議した結果、やむを得ないということで、城を明け渡し、最後の領主、通直(みちなお)は広島県の竹原市へ行き、そこで亡くなります。