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わがふるさとと愛媛学Ⅳ ~平成8年度 愛媛学セミナー集録~

◇近世風早のくらし

 近世に入りますと、風早地方は領主がいろいろ変わります。風早の一部は大洲藩の領地でしたが、飛び地になっていて、大洲藩としても大変不便を感じていたようでした。そういった時代に、加藤家の代官としてこの地に来たのが、中江吉長(よしなが)、つまり、中江藤樹(とうじゅ)のおじいさんです。こういう関係で、中江藤樹は、10歳から14歳まで柳原に住んでおり、この時に『大学』を読んで志を立てたとも言われています。そういう立派な方も幼少のころ、この風早にいたわけです。
 その後、大洲藩と松山藩の間で、この風早と伊予郡の方を交換し、風早は、松山藩になります。松山藩になってからは、2人の名代官がいました。一人は、吉田蔵沢(ぞうたく)。蔵沢と言うと、水墨画の方が有名なように取られがちです。もちろん水墨画もすばらしいのですが、善政を行った行政官としても有名です。蔵沢は、このあたりで「おおく」とよばれる、中心のところが太くて、両端が細い荷を担ぐ棒がありますが、それまでの役人をこの棒にたとえて、両端の農民と領主が細り、中に立つ役人たちがいい目をしているが、これではいけないというようなことを言っています。そして、手杵(てぎね)、というのは、持つところが小さくて、両端が太くなっているわけですが、役人は、こうでなくてはいけないと、諭しています。もう一人は、安居(あい)島の開発を行いました広橋太助ですが、時間の都合で省かせていただきます。
 最後に、私ども、風早歴史文化研究会について、その活動をお話させていただきます。会では、地域の歴史を学ぼうということで、地区学習会を年2回実施しております。これは、地域へ出て行き、その地域の人たち、特に古老の皆さんにいろいろと教えていただいたり、逆に、私どもが文献その他で調べたことをお話したりするものです。そういったことでお互いに学び合おうというようなことをしているわけです。今まで15回実施しており、今後も継続する予定です。
 それから「河野氏関係交流会」と言って、河野氏を一つの柱にして、それを手がかりに北条市の歴史を学んでいこうというようなことを、全国の河野氏にも呼び掛けてやっています。今年も7月に6回目を、実施いたしました。
 それからもう一つ、「河野氏の史跡を訪ねる旅」というのをやっています。河野氏は、全国のいろいろな戦に行っており、各地に史跡もありますし、また、そこに落ち着いた人々の子孫もいるわけです。そこで、そういうところにこちらから出かけていき、調査をしたり、学んで帰って、それを市民の方々に機関紙『風早』などを通じて、お知らせしようというようなことをしています。大分県、広島県、滋賀県、福井県、長野県、そして、昨年は熊本県を訪ね、今年は10月に、先ほどお話した通信公の墓参を兼ねて、岩手県北上市へ行く予定です。
 そういうふうなことを通じて、ふるさと風早をより良くしていこうと考えています。
 その他、石に刻んだ碑文で歴史を調べたり、そのまま放っておいたら風化してなくなってしまう、俳額などをなるべく読み取って、文字として残していくようなこともやっています。