データベース『えひめの記憶』
わがふるさとと愛媛学 ~平成5年度 愛媛学セミナー集録~
2 日々のくらし
池内
そこで、今日のテーマであります「日々のくらしの記録」ということに入るわけなんですけれども。須藤さんの場合は、記録、特にくらしの記録について、どのようなお考えをお持ちか、まず、伺いたいのですが。
須藤
今日のメインテーマは「わがふるさとと愛媛学」、副題が「日々のくらしを記録する」ということで、たぶん私を呼んでくださったのは、この副題の「日々のくらしを記録する」ということだと思いまして、そのつもりで参りました。先程、池内さんの方からも簡単な御説明がございましたが、これは簡単なようで大変難しい。
そこで、前半は「日々のくらし」に焦点を当て、後半は「記録」ということの意義について話してみたいと思います。そして、全体の話からメインテーマの「わがふるさとと愛媛学」を浮かび上がらせることができたらなと思っております。
実は先程、池内さんと天気のことをちょっとお話ししました。これは初対面の人が話のきっかけを作る時によくやることで、たぶん皆さんもよくおやりじゃないかと思います。これは日々、毎日ということではありませんが、やはり日常生活の一こまと言っていいのではないかと思います。
それで、私の生まれた秋田県の横手という所には、2月の中旬に「かまくら」という行事がございます。雪国のメルヘンなんて言われているわけで、御存じの方もあると思いますが。その横手のあたりでは、雪の季節にだれかとすれ違った時に、「どさ」と言うと、答えて「ゆさ」と言う会話があるんです。「どさ」「ゆさ」。大変短いんですが、これは、「どさ=どこへ行くんですか。」という問いに対して、「湯さ」、これはお湯のことで「銭湯に行くんですよ。」ということなんです。
「どさ」「ゆさ」という非常に短い会話で通じるわけですが、普通こういう会話というのは、収録、記録されないんです。ですからよその人はほとんど知らないわけです。土地の人にとっては非常にありきたりな会話ですし、あらためて記録する必要はないということなんでしょうが、それならこの会話の中に背景がないかというと、これはまた違うわけです。
雪国というのは、立ち止まって話をしていると凍ってしまうというくらい大変寒い。本当はそれほど寒くはないんですが。とにかく、短い間に用を足すための必要最小限度の言葉だと言われているわけです。しかし、ただ単に外が寒いというだけではなくて、実は今と比べますと、昔は衣食住全体が非常に寒かったわけです。それでそういう言葉がたぶん生まれてきたんだろうと思うんです。
この「衣食住が寒い。」というのは、変な言い方なんですが、一口に言いますと、現在のように物が豊かではありませんでしたから、たとえば雪国の部屋、幾つか障子で仕切られた部屋があったわけですが、この部屋全体が暖かいわけではないんです。私の家は、冬になりますとこたつだけだったんです。こたつに入れている足の方はホカホカするんですが、背中の方はまるで冷蔵庫みたいに冷える。これは一つには、昔は板戸にも節穴が一杯ありましたから、そこから冷たい風が吹き込んできて部屋を冷たくしてくれたわけです。それから、食べ物にしても、着る物にしても、非常に粗末だった。
冬になりますと、昔は大通りでも細い雪道しかなかったわけです。今はブルドーザーで一応かいてしまいます。それで、湯に行くのにも今はもう自動車で往来しますから…、だいたい銭湯には行かなくなりましたがね。
そういうことで、「どさ」「ゆさ」という言葉もできたというか、その寒かったということが背景にあったということだと思います。
池内
ということは、そういう会話の背景になったようなくらしも、もう消えつつあるということですね。
須藤
そうですね。消えているわけです。それなら、それはどういう生活だったかをちょっと具体的に言おうと思いましたら、これは大変なんです。具体的に示せる記録がないですし、それから写真も、全くないわけではないですが、若い人が分かるような記録というものはないわけです。
ちょっと話は変わりますが、たとえば、伊予には「耕して天に至る」段畑があります。少し前までは、伊予の説明をする時はだいたい段畑が出てきたわけです。たぶんこちらではその歴史とか民俗とかの研究が出ているんだろうと思います。けれども、たとえば私が神奈川県にいて、こちらの段畑のことを知ろうと思うと、「何を見ていいのかな、記録があるのかな。」ということになるわけです。
これもちょっとよその話になりますが、先日ある雑誌から、かまどの特集で、かまどのある生活の風景をイラストにするので、ちょっと監修してくれという話があったんです。先程池内さんからもお母さんのお話がありましたが、若い編集者でしたので、当然かまどの生活は経験がないんです。その時、火消し壷(つぼ)の話が出たんですが、「どんな物ですか。」と言われて、これも口で説明するのは大変なんです。火消し壷というのは、御存じの方も多いかと思いますが、かまどで燃え残った薪をその中に入れて消し炭を作る壷なんですが、似たものを現在の何かで探そうと思うとないんです。それで、その火消し壷をうまく説明できないから、今度は消し炭の方の使い方を説明しようと思ったら、台所用具いっさいがっさいを説明しなければならない。ということは、もう時間がものすごくいるわけです。その時は、「時間がないからもうやめます。」と言ってやめたんですが、何か昔の生活を今の若い人に説明するのは大変だなと痛感したわけです。
池内
そうですね。今、会場の方は笑ってらっしゃいますけれども、皆さん方は経験がおありだから、そういうことが全て分かるんだけれども、本当にその物なしで、若い人に分からせようと思ったら、これは容易なことではないですね。
須藤
話を続けますが、私たちの生活は、火消し壷、段畑、それから寒い衣食住ということも含めまして、だいたい昭和30年代中ごろからのいわゆる高度経済成長期を境にして変わるわけです。生活というのはだいたい100年単位でゆっくり変わるものなんですが、この高度経済成長期を境にして、100年を10年あるいは5年ぐらいに縮める勢いで、いろんな物や生活が変わってしまったわけです。
今ですとまだ、ここにいらっしゃる皆さんのように体験者がいるわけですから、じっくり話をすれば、若い人も想像していただけるのではないかと思います。私は昭和13年寅(とら)年の生まれですから、だいたい体験者の端くれになりますが、これからもう20年、30年たったら、体験者はほとんどいなくなるのではないかなと思います。
そのためにも、今のうちに、こういう昔の生活をきちんと記録しておく。それが今の最終限度の年代になっているのではないかなと思うわけです。これが日々のくらしを記録することの意義だろうと、私個人は思っているわけです。しかし、これが何の役に立つのか、どういうことなのかと言われたら、すぐには役に立たないと言わざるを得ないわけです。昔の話を聞いて、記録しておいたからといって、飯の種になるわけではありませんからね。
ただ大事なことは、昔の話をきちんと聞くことによって、発見することの楽しさ、知ることの喜び、嬉(うれ)しさが、もし一人でも出てきたら、これは非常に意義のあることだろうと思います。そしてその結果として、たとえば報告書ができたり、あるいは論文ができたり、それから本ができたりしたら、これ以上のことはないと思います。この一つのことを知るということは、また自分の身の回りを知ることですし、同時に一つの地域のことを知るということになるんだろうと思います。これは愛媛学につながっていくわけですから、これもまた生涯学習の一つの理念ではないかなと思うわけです。
池内
この知ることの楽しさ、嬉しさ。これこそ生涯学習の一つの柱だというふうなお考えには、私もまったく同感でございます。
須藤
これまでは、過去のくらしを記録することがどうして必要なのかということを簡単に言わせていただいたわけですが、現在の日々のくらしを記録することもまた、大事なことなのではないかなと思います。と言いますのは、写真で撮ろうと思いましたら、過去の写真を撮れと言ったって絶対無理なわけですから、現在の様子しか撮れないんです。そして、20年、30年、あるいは50年たちますと、たぶんこういうセミナーが開かれるのではないかと思いますので、平成5年の生活がこうだったという記録として必要だろうと思うんです。
池内
その時には、今の物が非常に役に立つということですね。何年か先には。
ちょっと話が横道にそれて申し訳ないですけれども、本当にここ30年ぐらいの我々のくらしの変わり方というのは、ちょっとオーバーな言い方をすれば、縄文時代から明治時代ぐらいまでの変わり方に匹敵するのではないかと、時々思うんです。
今ちょっと思い出したんですけれども、宮城県の石巻というところで、縄文時代の生活を研究していらっしゃる楠本政助さんという考古学者がいらっしゃいます。その方は、実は三間町の出身なんです。なぜ石巻にいるのかと言うと、あの辺に縄文時代の遺跡が多いからなんです。
実験考古学と言うんですが、彼はそこで出土したものを皆徹底的に研究して、出てきたものとそっくり同じものを、例えばシカの角で作った釣り針だったら、自分が縄文人と同じ気持ちで石のナイフを使って作って、それを使って魚を釣る。あるいはもりを使って漁をするというようなことを実際にやって、本当に縄文人の気持ちになって、全て出てきたものが何に使われたかということを実証したわけなんです。
この人の話などを聞いていると、実はもう縄文人は、ハイテクみたいなものを除いて、基本的な生活に必要な技術、我々が知っているほどの知恵は、すべて持っていたと思うんです。だから、たとえば骨だったのが金属になり、石のナイフが鉄の小刀になりみたいなことで、徐々に徐々に、少しずつ少しずつ変わってきており、オーバーな言い方をすれば、縄文時代から江戸末期ぐらいまであまり変わっていない。むしろ、それ以後のここ30年か40年ぐらいの変わり方があまりにも激しいので、それだけに今のうちにいろんなことを記録しておかなければ、本当に我々は、もし今生きている我々が死んだら、子供、孫の代には、もうほとんどおじいさんがどんなくらしをしていたか分からなくなってしまうのではないかなと。そんな気がするんですけれども。
ごめんなさい。横道にそれてしまって。
須藤
ええ。今の話をちょっと追加させていただきますが、極端に言うと、昭和30年代の半ばぐらいまでの生活というのは、江戸時代そのままではないにしても、基本的にはその延長だったろうと思うんです。それが、高度経済成長期を境にしてコロッと変わってしまいます。まさに激変なんです。
たとえば田植え。今は機械化されてほとんど人手がいらなくなっているんですが、人手はなくても米は一杯取れる。まことに科学というのはありがたいものです。
今、機械化で稲作が変わったと言います。これには品種改良などもあるわけですが、私が一番変わったと思うのは、昭和50年代ぐらいになって、ようやく暦(太陽暦)によって稲作ができるようになったということです。明治5年に暦が和暦から西洋暦になったわけですが、稲作の作業というのは旧暦で仕込まれていましたから、その時点では稲作が全部変わったわけではなく、1か月ずらした状態で、江戸時代からの方法をずっと伝えてきた、稲作に関しては、ごく最近(昭和50年代ぐらい)まで江戸時代が続いていたわけです。それが太陽暦でやれるようになった。私は、これが一番大きな変化ではないかなと思っているわけです。