データベース『えひめの記憶』
わがふるさとと愛媛学 ~平成5年度 愛媛学セミナー集録~
1 桜井漆器の生まれた背景について
(1)瀬戸内海に面していたから、桜井漆器ができた
もし、桜井の地形と朝倉の地形が逆ならば、おそらく桜井漆器というのは生まれていなかったと思う。
桜井漆器が生まれる前には、拝志(桜井の隣)で作った農器具(ケンド、ミノ)を、桜井の人が行商で持ち回って売っていた。ある時桜井の浜に商船が立ち寄って、水、食糧を補給しているところを見て、ミノやケンドを売るよりも、漆器を売る方がいいんだと思い付き、始まったのが漆器の行商。
(2)漆も材木もないところで、販売から先に生まれた桜井漆器
全国47都道府県のうち、漆器を生産しているのは約40ぐらい。普通、漆器の産地になるのは、漆(うるし)の木や、また、材木がたくさんある所。それが、桜井は、漆の木もなければ、材木もない。一番の特徴は、販売から先に生まれ、必然的に椀船が発達したことだろうと思う。
(3)椀船の発達と掛け売り
一番最初は波方の船を借り、和歌山の海南漆器を仕入れて、北九州、佐賀方面に売りに行き、帰りの便は伊万里焼を仕入れて、阪神方面に売る。はじめて行った所で、それを掛け売りで売り、収穫期に改めて集金するという販売方法で、非常に特徴があった。
(4)全国五つの漆器産地の職人が形成した桜井漆器
椀船商法が成功しよく売れたため、和歌山の漆器業界からも非常に注目を受け、和歌山からも職人さんが来た(私も和歌山の出身)。必要に応じて他の各地からも漆器を仕入れながら商売をする中で、各産地からも職人さんが桜井へ来て、桜井漆器が形成されていった。こうして、和歌山県の海南漆器、石川県の輪島漆器、山中漆器、福井県の越前漆器、会津漆器という五つの産地の職人さんで形成されたのが桜井漆器。ろくろ師として、安芸の宮島からも入ってきている。
(5)優れているのは、販売能力と商品のバリエーション
いろんな所からの集合体でできた産地であり、「桜井漆器はこれだ。」と自慢できるものがないのが、悲しい現状ではないか。販売能力は非常に優れており、また、良く言えば、「安い物から高い物までできる。」ということが、桜井漆器の特徴か。