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わがふるさとと愛媛学   ~平成5年度 愛媛学セミナー集録~

1 地域研究を始めたきっかけ

村上
 ただ今御紹介をいただきました、村上貢でございます。このような舞台で対談講演というのは、私も渡辺先生も初めての経験でございます。どのような成り行きになりまするやら分かりませんけれども、皆様方の御協力のほどをお願いいたします。
 最初に、先程来重々お話がございましたが、皆様方のお手元の愛媛学構想図を見ますと、私たちが研究対象としております愛媛県、これは具体的には、瀬戸内の島々だとか、県境の山間部だとか、いろんな地域での生活が営まれてきているわけです。そこで生活する人々の手によって、地域を新しく見直し、創造していく。そういうふうな運動が、生涯学習センターを中心に繰り広げられているわけです。そこでは、私たちの進めました研究が、いろいろ学際的な分野にわたりながら、総合的に、また新しく地域を見直す活動として、強調されているわけでございます。
 そこで、これからしばらく時間をお借りいたしまして、来島海峡をめぐりながら、さらにはもう少し広く瀬戸内海あるいは海洋というものをバックにしながら、対談を進めてみたいと思います。
 渡辺先生、しばらくでございます。実は先日、9月15日でしたが、広島県の瀬戸田町でお会いしたんですけれども。私、日ごろから渡辺先生には随分御指導をいただいている身でございまして、このような舞台で先生と対談をいたすなんていうのは、これは身に余る光栄と存じているわけです。
 まず最初に、歴史への興味をどのような状況でお持ちになられたのかについて、渡辺先生から伺ってみたいと思います。先生が、歴史という学問に、何か強い関心をお持ちになられたのは、どんな時代から、どんなきっかけなのでございましょうか。

渡辺
 はい。その前に、これはびっくりしたのですが、先程も「中央講師」と御紹介をいただきましたし、このプリントにもそのように書いてありますが、私は中央でも何でもなく、一番地元と言っていい桜井で生まれ、桜井小学校を出て、今治中学を卒業させていただいて、今日までやってきたわけでございます。まさに地元そのものでございまして、地元の方を前にこういう所でお話するのは、存じあげている方もおられるのではないかと思いまして、いささか緊張している次第でございます。
 それで、自慢話になってしまってもどうかと思いますが、先程村上先生の方から、お前はなぜ歴史をやるようになったか、少しそれを話してみろということでございますので、ちょっとはじめにしゃべらせていただきたいと思います。
 そもそもの私と歴史との出会いと申しますと、歴史と言っても幼稚なものであったかと思いますが、昭和10年、私が小学校の3年の時でございましたが、楠公、楠本正成の600年祭が、桜井の綱敷天満宮の境内で行われました。戦前ですから、正成は大忠臣ということで、非常に持ち上げられておりました。児童の代表として何人かそれに参列しまして、その時にお菓子をもらった記憶があります。そしてその後、国分にあります脇屋義助の墓にお参りしました。やはり楠木正成とも関係があったということで、そこへお参りをしたのだろうと思います。考えてみますのに、楠木正成の600年祭、それから脇屋義助のお墓にお参りしたということで、少し昔のことに関心を持ち始めたのではないかと、かすかに思っております。
 それと、御承知のように、桜井には国分寺、それから法華寺(国分尼寺)をはじめ、南北朝期に大館氏明(うじあき)が拠(よ)った世田山とか、あるいはもっと時代が下って戦国・織豊期に、村上武吉(たけよし)とか福島正則が居城とした唐子山などがあり、そういったことが古い歴史を考えるきっかけになったのではないか、というふうに思います。それから、小学校の5、6年ころになりまして、『小学国史』というのを習いました。これは戦前の皇国史観に貫かれた日本史の教科書でございますけれども、それを習って、いくらか日本歴史の推移をたどれるようになりました。そして特に、脇屋義助とか、大館氏明とかとの関連もあって、南北朝時代に関心を持つようになりました。
 昭和14年に今治中学に入りました。現在の西高の前身でございます。その時ちょうど担任が、郷土史家としても知られておりました玉田栄二郎先生で、国史の授業を担当されました。それから地理の授業は、後に愛媛大学に行かれました田中歳雄先生。田中先生は日本史が専門の方ですから、地理の授業ですけれど、非常に歴史的な分野の授業が多くて、おかげで1年の時に、伊予とか讃岐とか土佐とか、60余州の国名も覚えました。そして、今治ですと久松3万5千石、松山久松15万石とか、大名の配置図もだいたい、全部ではございませんが主なものは頭に入りました。これが後々、本格的に歴史をやるようになりましても、非常に役立ちました。
 それから日曜日のある日、今で言えばクラブ活動ということになりましょうか、玉田先生に連れられて、何人かの上級生と一緒に周桑郡の吉岡村、今は東予市になっておりますが、そこの観念寺というお寺へ参りました。そこで初めて、『観念寺文書』という南北朝期の古文書を見せていただいた時には、南北朝時代にじかに触れる思いで感動と興奮を覚えたことを、今でも記憶しております。その後、史跡見学で、南朝方として活躍した得能通綱が拠っておりました常石山城跡へ参り、玉田先生から通綱の活躍の話を聞きました。この史跡見学に参加したことによって、一層郷土史に関心を持ったわけでございます。
 そして、いつの間にか、今、伊予史談会の会長をしておられます景浦勉先生の御尊父の景浦稚桃先生が著わされた『伊予史精義』が座右の書となっていました。当時の風潮としては当然のことながら興味の対象も脇屋義助、土居通増、得能通綱から楠木正成へと広がっていきました。
 そのころの歴史好きの少年の夢は、千早城跡に登ること。今一つは、中学の歴史教師になることでございました。
 しかし、時代は日中戦争から太平洋戦争へと進み、受験期を迎えた昭和18年には、ガダルカナル島の撤退、山本五十六連合艦隊総司令官の戦死と戦局は悪化の一途をたどるばかりでした。これでは歴史を勉強していても、いずれは兵隊に取られてしまうという思いと、もう一つは、当時、今治中学を覆っておりました軍人志望熱の影響もありまして、二つの夢とも断念することにしました。その年の11月、あるいは再び見ることができぬかもしれないふるさとに別れを告げ、広島県の呉の前にあります江田島の海軍兵学校へ入学したわけでございます。
 その時から30年たった昭和48年、網野善彦さんや、新田英治さんらと、千早城跡を訪ねる機会を得まして、一つの夢はかなえられたわけでございます。
 昭和21年かその翌年か、記憶は定かではありませんが、玉田先生の御案内で、数人で来島海峡の海賊城跡、来島、馬島、武志島、中渡島などを巡回しました。岩礁に掘り刻まれた柱穴など珍しく、そんなことで海賊(水軍)に、興味をひかれました。後に、昭和46年ですが、そのころ私は全く別の分野の研究をしておりましたが、そのことが忘れ難く「渦潮の海賊ども」という論文を書きました。
 それともう一つ、先にも申しましたように郷里へ帰って歴史の先生になるというのが私の願いで、中学でも女学校でもよかったわけです。旧制の大学の3年生になった始めに、当時県女(現在の今治北高)におられました、村上民子先生が広島に来られ、「卒業したら県女に来てもらえませんか。」「喜んで行かせてもらいます。」というようなことになったわけです。
 旧制の大学ですから、3年の時に卒業論文を書かなければならないわけです。それで、郷里へ帰るなら、郷里に近い所のものを対象として卒業論文を書く方がいいだろうと考えておったわけですが、私の指導教授が中世史の専門家である魚澄惣五郎という先生でございましたので、「今治の近くを対象として中世史の研究をしてみなさい。そしてそれを卒業論文にまさめなさい。」ということになりました。
 当時、大学に入ったのが昭和21年ですから、1年、2年と、混乱期でほとんど勉強していなかったわけです。3年になりまして「県女に来てくれ。」ということになったものの、あと1年足らずで卒業、果たして教壇に立ってまともな授業などできるだろうかと考えたとき、不安この上もありませんでした。その思いが、せめて卒業論文だけは何とか頑張っていいものを書いてみようと思ったわけです。
 それで、今治の沖にある越智郡の弓削島という小さな島なんですけれども、これが京都の東寺(とうじ)、東寺というのは京都駅の裏に高い塔が今でも見えますけれども、その東寺の荘園、いわゆる「弓削島荘」であったわけです。この島の歴史を勉強してみたいと思ったのです。
 現地には、もちろん関連の資料は残っておりません。平安時代から鎌倉、南北朝、室町時代にわたる長い時期の関係資料が、京都の東寺に残っておりまして、『東寺百合文書』と言って、全部で2万点以上ございます。そのころは全然分からなかったのですが、現在そのうちの400点ぐらいが、弓削島荘に関する資料です。しかしその当時は、活字になった資料はわずかでございまして、それを頼りに、いろいろ頭をひねっておったわけです。
 どうもその文書だけを見ておりましても、なかなかイメージがわかない。それで指導教授の魚澄先生にお話をしましたら、「歴史というものは足で書くものだ。是非現地を見てくるように。」と言われまして、3年生の秋でしたが、弓削島に渡ったわけです。そのころは、船の便も少なくて日帰りはできそうもなく、果たして旅館はあるだろうかと、不安な思いで参りました。
 まず、役場に行き土地台帳を見せてもらいました。と言うのは、弓削島に関する『東寺百合文書』を見てみますと、地名がたくさん出てくるわけです。それらの地名がどこにあたるのだろうか、土地台帳を見せてもらい、役場で自転車を借りまして途中、ここは何と呼ぶのかというようなことをお年寄りに聞きながら、島の先の久司浦(鯨)に参りました。鎌倉時代の文書には薬師堂と出て来る東泉寺を訪ね、そこでいろいろお話を伺っているうちに、奥さんの御実家に泊めていただくことになり、その時のうれしかったこと、今でも忘れられません。
 弓削島には1泊しただけですが、現地を見、そしてそこの土地台帳で地名などを調べたおかげで、帰ってきてから、今まで見ておりました弓削島荘に関する文書が、全然違った形で目にうつってくる。そして今までは行間に読み取れなかったことが、読み取れるということで、大変張り切って、卒業論文を仕上げました。その過程で、今までとは全然違う、歴史に対するより深い関心と言いますか、学問的な関心が芽生えました。
 卒業論文を提出しましたら、教授から「非常にいい卒業論文だ。君、学校へ残って、もう少し勉強しないか。」と言われました。それで、村上先生との約束もありだいぶん迷ったのですが、その時、歴史研究に非常に燃えておりましたので、村上先生に事情をお話して、県女に赴任することをお断りし、研究室に残った次第です。
 そしてもう一つ付け加えさせていただきますと、その卒業論文に手を加えまして、三部作にして学術誌に発表しましたら、一度に3編を出した関係もあり、平安時代から鎌倉時代の弓削島の生活を浮き彫りにしたということで、大変評価を得たわけです。それが出発点となって、今日ずっと研究を続けている次第です。
 別に自慢するわけではなかったんですけれども、私が歴史研究に入るきっかけは、桜井などを含めた今治の歴史的な風土、伊予の国の中心、府中でありますし、そして瀬戸内に面し、いろいろな意味で研究対象がころがっていて、今でもこういうことがあるのではないかという研究テーマが思いつきますが、本当にそういう恵まれた環境に育ったということで、歴史研究者の一人として、何とかやっているというような次第です。大変長くなりました。

愛媛学構想図

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