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宇和海と生活文化(平成4年度)

(1)九州を歩く行商人-明浜町狩浜

 戦前まで、宇和海沿岸各地は半農半漁の自給自足の生活を基本としながらも、現金収入を得るため、養蚕や家内工業としての機織(はたおり)が盛んで、また明治以降の繊維産業の発展も手伝い、この地域ではそれらの製品を持っての反物の行商でも有名であった。八幡浜の合田(ごうだ)・舌間(したま)のそれが良く知られているが、明浜町の俵津(たわらず)・狩浜(かりはま)も行商の中心地の一つであった。八幡浜市合田については、すでに関係者のほとんどが物故され充分な資料収集が出来なかったこともあり、本項では明浜町狩浜の行商に焦点を絞って記述した。広く県内及び宇和海沿岸各地の行商を対象とした比較調査については、今後の研究課題としたい。

 ア 明浜町狩浜はどのようなところか-行商の背景

 (ア)明浜町の概要

 東宇和郡明浜町は、八幡浜市と宇和島市の中間にあり、俵津・渡江(とのえ)・狩浜・高山(たかやま)・宮野浦(みやのうら)・田之浜(たのはま)の6集落より成る。昭和30年(1955年)・昭和33年の合併で、それまでの俵津・狩江(渡江・狩浜より成る)・高山の3村を統合して町制施行となった。リアス式海岸で300~500m級の山が背後まで迫る、東西14km、南北5kmの細長い町である。宇和海に南面して気候は温暖で、亜熱帯植物のアコウ樹が自生している。陸上交通の面では、宇和町から険しい山道の続く野福(のふく)峠を越えるか、曲がりくねった狭小な海岸道を通るしかなく、つい最近まで海上交通に頼る度合いが高かった。
 平成5年1月の人口は5,399人、世帯数1,863戸で、昭和30年の人口11,139人に対して半減しており、過疎化が進行しているが、県下でも優秀な柑橘栽培地として知られ、農業等での外国人留学生も定住するなど、地域の人々の活動は意欲的なものが見られる。そのうちで狩浜地区は、354戸、913人を占める(平成5年1月町役場調べ)。
 各集落ごとの特性を見ると、高山は良質の石灰岩が分布していることから、(幕末から第2次世界大戦まで)石灰業で繁栄し、採石・石灰焼成工場の労働者として南予各地から人が集まり、それに関連して海運業・商業も大いに進展した。渡江は漁業の比重が高く、鰯網の漁獲が減った昭和30年代以降にも真珠養殖が入ってきている。網子(あみこ)として得た収入を資金にし、1ha以上の柑橘園を経営する農家も多い。俵津は、町の中では平地が多いことから農業が主産業で、また俵津の地名の由来が藩政時代に宇和町からの米の積出し港であったことからもわかるように、古くからの交通の要衝として栄え、大正から昭和初期の養蚕の最盛期には、四国一の釜数を誇る俵津製糸会社が繁栄を誇った。このような交易等による繁栄が有名な俵津文楽を生み出すことにもなったと思われる。また狩浜と並んで行商も盛んであった。狩浜については後述するが、石灰業のような雇用産業がないことと、機織が盛んで「狩浜縞(かりはまじま)」として全国的にも知られ、商品を自ら製造できる強みが、行商隆盛の背景にあったと思われる。

 (イ)戦前の狩浜の生業と生活-半農半漁、養蚕・機織・行商

 国民生活センターが、アンケート調査を中心に狩浜地区の産業と生活の変遷を分析している(昭和59年度研究報告「地域自給に関する研究(⑪)」)ので、以下それに基づいて、行商を生み出した背景として、戦前の狩浜の人々の生活を考えてみたい。
 昭和30年代の鰯網漁業の不振までは、ほとんどの農家は(漁家も同じ)、自給用として芋・麦を作る一方、網子として漁業に従事して貴重な現金収入を得て、両者の組合せにより生活が成り立っていた(図表2-2-8参考)。これは狩浜だけでなく宇和海沿岸各地で共通した生活であった。生活サイクルとしては、年間200日ほどの出漁日数で、夕方沖に山て火船を点火し(集魚灯)、明け方に網を引き揚げ、日中は鰯の加工作業と農作業を行うもので、沿岸に魚が湧くと昼でも地引網を引いた(⑪)。
 農業面で、この地域を支えたものに養蚕がある。明治中期から本格的に導入され、大正年間の技術の向上と、第1次世界大戦の好況による繭価の暴騰で、専業となる家も多かった。昭和初期までその発展は続き、村の現金収入の中心であった。昭和13年(1938年)における桑の作付け面積は自給用の芋・麦を大きく越え、全耕地の約半分を占めていることがわかる。当時の狩江村の全戸数410戸(昭和15年の数値)に対し、昭和14年の養蚕戸数は186戸で45.4%を占めている(⑫)。これは昭和恐慌の繭価の暴落後で、戦時体制の統制の時期であることを考えれば、全盛期の繁栄がしのばれる。ただ蚕の世話は大変な労働で、睡眠時間が滅多に取れないほど忙しいことが珍しくなかった。
 明浜における機織の隆盛は、安政元年(1854年)俵津の庄屋井上駒次郎が機の改良を思い立ち先進地の近江国に出掛け、腰掛け式の「高織機(たかおりばた)」の技術を導入するとともに、織師を雇って帰村してから普及し、農家の副業として明治10年頃から「賃機(ちんばた)」が盛んになってきたとされる。中でも「狩浜縞」が有名で、狩江村が機織の中心地となったのは、他村のような石灰業等の中心産業がそれまでなかったからでもあろう。明治の末には、5工場(工員50人)、150軒の家内工業(機台数220台)賃織50軒(60台)を数え、綿織物54,300反(47,370円)、綿絹交織4,650反(6,510円)の生産量であった(「明浜町こぼれ話(⑬)」)。明治末年の狩江村の戸数は433戸であるから、少なくとも半数以上の家が機織に従事していたことになる。その後、大正年間の養蚕の隆盛とともに減少したが、戦後も伝承者は数少ないながらも技術は継承され、現在は町の「ふるさと創生館」に「かすり室」及び「かすり体験教室」が設けられている(口絵参照)。
 行商の内容については後述する。アンケートにより各時代の狩浜地区の生業の変化を分析したものをみると、半農半漁で食料の自給をはかり、さらに機織・行商・養蚕を組み合わせて現金収入を得て生活を成り立たせるのが、明治から昭和初期にかけての時期の狩浜の各家庭の状況であったことがうかがえる。大正中期から昭和初期にかけて、養蚕専業農家が増えるが、経営が成り立つためには5反程度の桑園が必要なため、自給用の芋畑等も含め7~8反以上の、ある程度経営規模の大きな農家でないと、養蚕専業は無理であった。そのため、次・三男の分家や小農は、やはり漁業や行商・機織に生計を頼る度合いが高かったと思われる。そして、戦後の柑橘導入とともに、漁業不振も加わり、狩浜の人々は養蚕より採算の取れる柑橘栽培専業に転換していったのである。

 イ 宮崎への行商

  **さん(明浜町狩浜 明治35年生まれ 90歳)

 (ア)父の代の行商-明治末期

 「わたしの家は、祖父の代から行商をしよりまして、父・わたしと3代やりました。ここらあたりは、皆3~5反の百姓でしてな、百姓だけでは食べて行けず、行商に出るようになったんですわい。過疎になって現在残っている農家が1~2町歩(ha)持つのが普通になって、ようやく専業で食べていけるようになったんですがな。この狩浜は、本浦(ほんうら)と枝浦(えだうら)に別れとりまして、本浦の方が行商が盛んじゃったんですが、10歳頃(明治末年)の一番行商が増えた時で、本浦200戸ほどのうち100人ほどは出とりましたかなあ。当時は、東宇和郡や喜多郡の山間部に行くものが多く、7割くらいが反物で、3割が海産物の行商でした。」
 「明浜町こぼれ話(⑬)」によると、明治末期の狩江村の行商人は179人(このうちには数名のイリコ行商と店を持つ数軒を含む)とある。

 (イ)行商先と交通

 「行商に初めて出たのは17の時(大正7年=1918年)で、父と一緒に高知県の仁淀(によど)川中流の明治(めいじ)村(現高岡郡越知(おち)町)、下矢川(しもやがわ)村(現吾川(あがわ)郡吾北(ごほく)村)に3年ほど行きました。そちらの方は紙すきが盛んで金回りがいいからということで行っておったんです。父が高知に行き始めたのは明治20年頃ですが、陸路30里の道を、人足を2~3人雇って、各人12~13貫の荷物をかついでおったらしいですな。おおむね、宇和から大洲に出て内子~久万から現在の国道33号の経路(土佐街道)を通って行きよりました。野村から九十九曲(くじゅうくまがり)峠を抜けて梼原(ゆすはら)村を通る経路も使っておったようです。ところが面白いことに、宇和島から大阪行きの船が出るようになると、高知へ荷物を送るのに、宇和島から大阪回りで大阪からまた高知への船便で送るようになったんですな。もうちょっとして、その大阪-宇和島線が宿毛(すくも)まで行くようになると、宿毛まで船で行って宿毛から高知行きの船便に接続して行くようになりましたがな。わたしらの頃もとにかく歩くことが大部分で、3日ほどかけて商売先まで行くと翌日1日は商売になりませなんだ。
 わたしは兵役から帰って独立しまして、さらに高知に3年ほど行った後、昭和3年(1928年)、27(歳)の時から宮崎に行くようになりましたんです。それまで行っておった人のお得意さんを継ぐ形で、児湯(こゆ)郡三納(みの)村(西都原(さいとばる)古墳群が近くにある)という800戸ほどの村が商売先です。戦争が始まって昭和17年(1942年)に衣料統制が始まるまで14年間お世話になりました。当時宮崎県にはだいぶ明浜から行っておりました。皆、それぞれの得意(先)を持って山間部を中心に回っておりましたがな。宮崎には、すでに父の代からぼつぼつと行く人がおったようです。鹿児島や大分の方には行きよりませなんだ。(町内の)高山で石灰業が盛んでそれを肥料として宮崎に運んでいたのを、その船便を借りて行くようになったと聞いております。わたしらの代には別府や佐伯に船で渡ってから鉄道で行っておりましたがな。」

 (ウ)行商の生活、商売のこつ

 「行商に行くのは、(旧暦の)春の彼岸からで、夏物を売り付けてしまってから農繁期にこちらに帰り、また盆節季(ぼんせっき)までに行って代金を取り立てて回ります。また秋の彼岸に出て冬物を売り、畑の取入れには村に帰って、中節季(歳末)にまた宮崎に行って取り立てます。じゃから、4~5か月ほどの期間になりますな。わたしが独立して行商に行く間は、父と妻が農業をやっており、家としては農業兼行商ということになりますか。
 行商に行くときは、たいてい1~2人の荷物運びを連れていきます。まあ職人さんの徒弟みたいなもので、一緒に歩いてもろうて商売を覚えたら、必要な道具も構えてやり、自分の得意を分けて、独立してもらったりしよりました。はっきりとした、親方-売り子の制度のようなものはなかったですな。中には、割り切ってその期間の使用賃を払って人夫として連れていくだけの人もおりましたが。
 村の中心部では商人宿に泊まり、へんぴな所では得意先に宿を借ります。毎年行く所は決まっておりまして、向こうも待ってくれておりました。宮崎の内陸部を、明浜の者がそれぞれ村単位で縄張のような形で範囲を決め、商売に回っておりました。八幡浜の合田や興居島(睦月島の間違いか?)の人等も行商に来ておりましたが、合田の人等は分限者(ぶげんしゃ)の所に『ぶっつけ売り』(面識がないところに直接売り込むこと)で全国を回っておりました。
 宮崎の人は、人柄が良く穏やかで暮らしがゆったりとしております。土地が広いのに交通の便が悪く、行商人が来ないと困る所も多かったですわい。そんなことで品物を売りやすく、ここの者がようけ行っておったんですが、ただ向こうの人は、金を借りることは何とも思わずにどんどん買うが、金をよう支払わんということが多いですな。伊予の者相手じゃったら人間がこせこせしとる言うか、金を借りるのをとにかく嫌がってまず品物を売ることに苦労しますがな。わたしらより10から20ほど年上の人らに宮崎の商売で成功し屋敷を建てたり、石垣を作って新しく畑を持った人が多くて、それを見て、百姓だけで充分食うていける人までが商売に出たりもしよったんですが、結局この取立てができんで失敗した人が多いです。わたしも今でも金の取立ての苦労を夢に見ますわい。掛け取りで本当にゆきづまらんと金を出してくれんのですけん、節季前には夜も寝ずに歩きまわることもありました。金を取り立てるためには、とにかく上手に持ち上げることが大切で、それと人を見てええ人(財産・性格)だけを見極めて、そういう人にだけたくさん貸す(売る)ことですな。」

 (エ)仕入れ、商売の変遷

 「土佐に行く頃は木綿ばかりでした。やがて呉服物も持っていくようになりましたが、宮崎に行き始めは、ひどい不景気で(世界恐慌)また縞(しま)(綿織物)が多くなったですな。藍(あい)の木綿縞は村(の機織=狩浜縞)で作ったものが中心ですが、大正も半ば過ぎには、吉田や俵津に呉服の卸屋、縞屋ができてそこで仕入れるようになりました。呉服や絣(かすり)は、大阪や松山に直接仕入れに行くことも多かったですな。昭和の頃で地機(じばた)(地元の機織)3割、その他7割位の割合じゃったでしょうか。
 独立した頃には、1年で1,000円もうけたらたいしたことでありました。昭和4年(1926年)の金解禁で大不景気になり(世界恐慌)、金が全然動かず、動きもすごきもならんようになって、満州事変後の景気回復まで大変苦しい思いをしました。昭和12年(1937年)に戦争が始まると(日中戦争)、宮崎は産物が多かったので(軍需関係で)金が動きだし、仕入れたら売れるような状態で、闇商売もありましたし、ようもうけました。しかし、強制割当てで貯金せんといけず、結局このもうけた金は戦後の預金封鎖で消えてしまいましたが。衣料統制で商売が出来んようになってこちらに戻り、戦後も商売をやりたかったんですが資金がなくて、そのうちミカンが景気がええというので、ミカン専業になりまして現在に至っております。」
 行商で取り扱っていた品物は「狩浜縞」が圧倒的に多い。また、自営で機織をしていた家の半数近くは、家族が狩浜縞の行商をしている。ただし、時期ごとに見ると、昭和10年代には、大阪等他地域から仕入れた品物が50%をこすようになっていた。(詳細は国民生活センター「地域自給に関する研究Ⅲ(⑪)」参照)

 (オ)宮崎の風土、行商人の風俗

 「宮崎から直接影響を受けた物はないですな。ただ伊予人はたくさん宮崎に居って、八幡浜の人等は、新しくできる町に店を持って、大きな商売を営んでおりました。それと、この段畑ですから、わたしらは米の飯を食うことは滅多になかったんですが、宮崎の方は朝は必ず御飯でしたなあ。ふかのさしみやさつまじるも向こうにもありました。日向飯(ひゅうがめし)というのは、行商で向こうに行った人等が始めたのでそう言うんですが、同じ料理は宮崎にはありません。いろんな人等との付合の中で、どっかでそんな料理を覚えたんかもしれませんな。神武天皇のお里ですから、小部落でも必ず神楽(かぐら)をやっているのも、こちらと違っております。佐賀の行商人や、富山の薬売りの人等と商人宿ではよく一緒になりました。」

 **さん(明浜町狩浜 大正7年生まれ 75歳)農業

 (力)戦前の父との行商

 「わたしは、荷物持ちとして父と一緒に昭和10年(1935年)から3年間、17歳から徴兵検査を受けるまで行商に行きました。昭和16年に止めるまで、父は宮崎に45年間行っておりました。一緒に行っておった時のわたしの日記を見ますと、狩江から宇和島までの船賃は20銭、宇和島-別府航路が1円50銭、別府から日向(市)までの汽車賃が2円25銭ですな。行商人としては、東臼杵(うすき)郡の西郷(さいごう)村一体を回っておりました。他にわたしが面識のある人としては、同じ西郷村に**さん、北郷(きたごう)村に**さん・**さん、諸塚(もろづか)村に**さんが行っておりましたが(各村の位置については図表2-2-11参照)、もう皆さん亡くなられて、行商の体験のある人は、**さんとわたしくらいじゃないでしょうか。毎年12月8日の『八日ぶき』には、行商人が狩浜の春日神社に集まり、おこもりをして懇親を深めてました。わたしが行った時で30人ほど集まっておりましたが、それが当時の行商人数だったです。宮崎には10人ばかり行っておりました。
 西郷村は山間部の本当に広いところで、村内にお得意さんの家も含めて15か所ほど泊まり宿があり、そこを拠点にしてさらに山奥にも入っていきました。いつも行く決まったお得意さんばかりで、ただ商売だけでないお付き合いをさせていただきました。商品を柳行李(やなぎごうり)や大風呂敷で包むか、行李を乗せる台をつけて天秤棒(てんびんぼう)で運びます。後にはリヤカーを使いました。反物は、昔は自家製の狩浜縞等木綿縞ばかりでしたが、わたしが行った頃は、紬(つむぎ)や銘仙(めいせん)・モスリンの高級品、作業ズボンやシャツ等の既成品も持っていっておりました。自家製のものでは、普通丈2丈8尺(約8.4m)のものを、3丈2尺(約9.6m)の反物を作りまして、これは、農作業に使うハンテンを作るために向こうの人から頼まれたもので、持っていくと喜んでもらいました。木綿縞1反を2円前後で売り、1日100円売れたらたいしたものでした。普段の売上げは50円くらいです(利益はその1~2割程度)。
 統制経済になったこともあって、わたしが兵役に行っておる間の昭和16年に、父は商売を止めました。行商を止めるまで、家では母と姉が、年間雇用で男衆(おとこしゅ)一人を雇って、養蚕をやっておりました。家計のうち6割ほどが行商の収入によるもので、長屋の一角に住む貧農じゃった父が立派な屋敷と土地を買うたんですから、やはり行商で一番成功した部類に入るんでしょう。
 父が亡くなってから、昭和35年頃に、西郷村の昔のお得意さんから父宛に、行商に来てもらえなくなったので不便しとるんじゃがという趣旨の葉書が来て、それを見て、もう一度父と一緒に歩いた道をたどってみたいという気持ちもあって、それから41年までわたし一人で再び西郷村に行商に行きました。向こうでは本当に喜んでもらって、特に狩浜縞は、本当に丈夫で光沢がきれいじゃということで、評判が良かったです。」

 写真2-2-1は、狩浜地区にある春日神社境内の石柱である。明治45年7月建立とあり、奉納者は「狩浜商人中」と記され、商人97名と周旋人5名の氏名が刻まれている。このほとんどが行商人と思われ、当時の繁栄がしのばれる。現在、狩浜で反物の行商をしている人はいない。

図表2-2-8 狩浜地区各戸の漁業経験の有無

図表2-2-8 狩浜地区各戸の漁業経験の有無

「地球自給に関する研究(⑪)」P137の数値より作成。

図表2-2-11 聞き取り調査者の行商先と経路

図表2-2-11 聞き取り調査者の行商先と経路


写真2-2-1 狩浜春日神社の石柱

写真2-2-1 狩浜春日神社の石柱

平成4年12月撮影