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宇和海と生活文化(平成4年度)

(1)伊予の大阪八幡浜

 八幡浜は、明治初期から大正にかけて、県内でも有数の商業都市として繁栄した。それは「伊予の大阪」と称されるほどのものであった。これは、瀬戸内海・宇和海を縦横に結ぶ海運の発展と切り離すことは出来ない。図表2-2-1からも、当時の八幡浜港が、県内随一の移出入額であったことがわかる。このような繁栄をもたらした背景は、どこにあったのかを、以下簡単にまとめてみたい。なお特に記載のある場合を除いては、全て「八幡浜市誌(②)」からの引用による。

 ア 八幡浜発展の源流-長崎貿易

 宇和島藩は、幕末の激動の中で、藩の富国強兵をはかるため、安政6年(1859年)に長崎貿易を公認している。この促進のため、藩家老松根図書(まつねずしょ)は、八幡浜・川之石の商人に長崎貿易を営ませた。それについては、以下の史料がある。「藩領商業の発達を計りては、其文化輸入の爲しばしば長崎に使するこを好機とし、八幡浜の商賈(しょうこ)高橋長平・菊池某(近江屋の菊池嘉治郎と思われる)を伴ひ行きて外人と直接貿易を営ましめたり(②)」(宇和島吉田両藩誌)。また慶応元年(1865年)4月に「大福丸と申す五百石程度の和船が、宇和島製産場のカンテンを積んで長崎港につき、便を借りて呉服物仕入れに行く。同船する者は、矢野小十郎(船主)……中略……兵藤寅一郎、八幡浜浦角長(角屋高橋長平)……(②)」(兵藤寅一郎日記)とある。これ以外に平田喜平、芝録郎、二宮作一郎らについても長崎貿易に関する記録がある。宇和島藩が、貿易の切り盛りを城下ではなくこの地域の商人に頼ったことは、すでに江戸時代末期からかなりの海運・商業の発展があったことをうかがわせる。また、これらの人物の多くは明治に入ってからの埋立て事業や銀行設立等に関係しており、これらの商業活動による莫大な富の蓄積が、八幡浜の発展に大きく貢献したのである。

 イ 蠟(ろう)、鰯(いわし)、篠巻(しのまき)-八幡浜の発展を支えた物産

 このような八幡浜の隆盛を支えた背景には、江戸時代末期からの宇和海沿岸各地の産業の発展があった。明治8年(1875年)に汽船で大阪航路を開き、八幡浜銀行を設立する等活躍した菊池清治は、藩の蠟座締り方として、大阪方面への積出しで莫大な利益を得た。当時の八幡浜の豪商の多くはこの蠟の取扱いで資本を蓄積していったのである。これは西宇和郡全体における製蠟業の発展が背景にあった(図表2-2-2参照)。
 また、明治初期における平田家の送り状等を見ると、移入品の大部分が篠巻(綿花から実を取った繰(く)り綿を巻いて作ったものでこれから手紡(つむ)ぎ糸を作る)で、移出品のほとんどが取粕(とりかす)(イワシの油をしぼったもの)・干鰯(ほしか)等のイワシ加工品及び生蠟であり、取引先は兵庫と岡山を中心とした中国地方である(八幡浜市誌P696~698)。つまりは、(特に綿花の)肥料として取粕を売込み、その見返りとして篠巻を買入れたことになる。当時すでに、近辺の五反田(ごたんだ)・穴井(あない)を中心として織物の家内工業が非常に盛んであり、それが以後の当地方における紡績・製糸工業の基盤となっているが、八幡浜の商業とこれらの繊維工業の発達とは、製品の供給と販路の開拓ということで、相互補完の関係にあった。
 宇和島藩領では、零細な耕地で農業収入が少なくまた藩の積極的な産業振興策もあって、網漁業による半農半漁の生活を基本に、木綿・蠟・紙等の家内工業・商品作物の栽培が進んでいた。明治以降、八幡浜は南予全域を対象に、これらの生産物資を移出し、また必要物資を移入供給する、積出し買出しの交易の拠点として繁栄したのである。

 ウ 伊予の大阪

 明治6年から、(一時中断し、前記のように菊池清治が航路を維持したが)後の大阪商船会社により、別府経由の大阪航路が開かれた。前記のように、交易で資本を蓄積した八幡浜の豪商は、明治10年頃より大阪を仕入れ地とし、高知県の宿毛や九州方面を市場とする中継貿易を盛大に行うようになった。これにより八幡浜は、大阪に次ぐ仕入地として「伊予の大阪」と称せられるようになった。明治時代の繁栄の中心となったのは、呉服(絹・毛織物)・太物(ふともの)(綿・麻織物)の卸売商であり、明治20年代の大店としては、本町筋のかどや(高橋長平)、近江屋(おうみや)(菊池小平)、泉屋(西村弥三郎)、カネゴ(菊池五平)の呉服店があった。この時期には、九州、高知、南宇和郡等の各地から商人・行商人が(1日100人近く)集まり、大店(おおだな)ではそれを自宅の2階に無料で泊めたという口碑がある。図表2-2-3は、明治10年頃の「八幡浜持丸(金持ち)一覧表」の中から、1万円以上の者16名を抜き出したものである。この中に前記の呉服卸商4人が含まれている。また前述の長崎貿易に関係した者、埋立て事業の中心となった者も、ほとんどこの中に含まれている(ちなみに同時期に設立された第二十九国立銀行の資本金は10万円で、当時の酒1升は10銭)。また呉服以外の家業では、製蠟業3名、醸造業2名が目につく。
 図表2-2-4は、(鉄道等交通の発達で)中継貿易が衰退し始めた大正4年(1915年)の八幡浜町移出入表であるが、九州・高知・南宇和郡の商人の仕入れ地としての栄光は、まだうかがうことができる。さらに、八幡浜及び周辺地域の紡績製糸工業の発展から、繊維関係の物産の動きが大きいのが目に付く。しかし、昭和に入ってからの陸上交通の発達とともに、八幡浜の商都としての地位は低落をきたすようになったのである。しかし、幕末よりの先見の明を持った豪商の活動は、埋立てによる市街地の形成のみでなく、数々の影響を諸産業に与え、その歴史は県人として誇ることの出来るものの一つであろう。

図表2-2-1 明治15年主要港別移出入額合計

図表2-2-1 明治15年主要港別移出入額合計

「巡見使視察につき産業取調報告」より。「愛媛県史 資料編近代2(①)」P113~117の関係数値をもとに作成。

図表2-2-2 明治18年生蠟(なまろう)産額表

図表2-2-2 明治18年生蠟(なまろう)産額表

郡単位で1万貫以上のみ記載。「愛媛県史 資料編社会経済上(③)」の数値より作成。

図表2-2-3 八幡浜持丸一覧表

図表2-2-3 八幡浜持丸一覧表


図表2-2-4 大正4年、八幡浜町移出入表(金額10万円以上の物産のみ)

図表2-2-4 大正4年、八幡浜町移出入表(金額10万円以上の物産のみ)

「八幡浜港(④)」より関係数値を抜粋。