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宇和海と生活文化(平成4年度)

(2)「海」から「陸」へ

 ア 浦々を結ぶ渡海船

 (ア)別府・阪神との交流

 宇和島運輸が大阪航路(別府経由)を開設したことについては「三崎のくらし」の項で先述したが三瓶には寄港という恩恵にはあずからず、八幡浜まで峠を越えて出て乗船せねばならなかった。このころは別府経由のため片道4日もかかり、3等食事付きで1円2・30銭であった。大阪商船と同一航路の運航であったため両者の間に、激しい競争の後妥協が成立し、別府経由が廃止され、三瓶にも寄港するようになった。その後、関西汽船が両航路を昭和17年(1942年)から24年まで運航していたが、24年からは再び宇和島運輸が経営することになり、26年4月から三瓶への寄港が廃止され、阪神へは峠を越えて八幡浜から汽車を利用しなければならなくなった。また、別府へ行くのも八幡浜まで出て乗船しなくてはいけなくなった。
 **さん(三瓶町朝立 大正14年生まれ 67歳)は「大阪航路は宇和島運輸が鉄船の第13、15~22宇和島丸(蒸気船)、第14宇和島丸(焼玉エンジン)その後は第23宇和島丸(ディーゼル)が別府航路で、宇和島~三瓶~八幡浜~川之石~三崎を経て別府へ、その後、別府への直行便として、『あかつき丸』と第23宇和島丸を改造した『ゆうなぎ丸』が航行していました。終戦後は、宇和島運輸がチャーターした『なぎきり丸』、『利根川丸』が大阪航路をやっていました。わたしが学生時代は三瓶から船で三崎あたりで夕食を取り、2日がかりで大阪へ行っていました。当時汽車はまだ大洲まででしたので船を利用していましたが、昭和14年(1939年)に八幡浜まで開通してからは汽車を利用して東京へ行っていました。ただ、昭和18年(1943年)に大水害があり、汽車は不通ということで八幡浜から別府航路で別府へ、そして下関に回って東京へ、列車は大変な混みようで機関車の石炭の上に乗って、東京に着いたときにはまっ黒になっていた記憶がありますよ。」と当時の思い出を語る。
 三瓶町内の中学校の修学旅行は、「三瓶町誌」によると、各校単独で別府・阿蘇方面へ、3泊4日で行っていたが、昭和29年度より京阪神方面へ、また、37年度から町内3校が連合で京阪神方面へ出かけるようになった。貸切船として「わかくさ丸」・「あかつき丸」が利用されていた。47年度より三瓶から乗船できず、長浜までバスで出かけて京阪神へのコースがとられていた(⑯)。

 (イ)渡海船

 浦々を結ぶ平坦地道路がない明治中期までは、物資の大量輸送は船を利用するしか方法がなかった。風のあるときは帆を使い、凪の時は櫓を漕いで八幡浜まで一往復、当時の荷物は、八幡浜へは、にぶ、割木、かまぎ、目ざし、いりこ等、三瓶への帰りには、針金、ざる、しょうゆ、酒、ビール等の日用品を依頼されて購入してきた。
 明治39年(1906年)「門司丸」安土~名取間、明治40年(1907年)「三島丸」八幡浜~宇和島間、明治44年(1911年)「第二鶴島丸」鋼船(八幡浜~宇和島間)が町内の皆江、蔵貫、安土、朝立、垣生、二及、周木に寄港。大正9年(1920年)には下泊にも寄港するようになる。大正11年(1922年)藤川民次郎、菊沢八十松、菊池藤太郎発起人となり、宇和島仲井造船で「第一三島丸」を建造して下泊~八幡浜間の航行を開始した。建造費350円。大正15年(1926年)「第二三島丸」、昭和3年(1928年)「第三三島丸」、このころになると、「第一三瓶丸」を宮中照吉が運航を始め、八幡浜の青木運輸が「いろは丸」を就航させ、ここに三隻による競争が始まった。八幡浜~三瓶間の運賃は10銭となり、ついにはおぼしめしにまでなったが、これでは三者共倒れになるので運賃協定がなされたという。
 「三島丸」、「いろは丸」は下泊を起点とし、「三瓶丸」が三瓶を起点とした。朝立からの乗船者は平日では一船に10人位であったという。このころは沿岸航路だけでも三瓶~八幡浜間に五便も運航されていて船の黄金時代であったといえる。
 **さんは、「大正時代に、急患を特船で三瓶へ連れていく途中で息絶えた話も聞いております。交通が不便で通院も大変ですので、少々のことは、富山の行商人が持ってくる置き薬を飲んで我慢していました。昭和10年頃三瓶からオートバイで中村仁平医師が、7~10日に一回診察に来ていました。また、皆江の三瀬忠興医師が着任されたのもこのころだと思います。夜急患が出て迎えるのに、でこぼこ道をハンドル取られながら来ていただいたこと、はっきり覚えています。先生の額に汗びっしょり、一生忘れることのない、わたしの人生のひとこまです。」と下泊地区の様子を語る。

 イ 近江帆布三瓶工場の誘致

 昭和3年(1928年)に始まる。愛媛県内でも遠隔の地であり、平地の少ない三瓶町に、町の発展を図るための第一歩として紡績工場誘致の構想が起こった。**さん宅に父親と愛媛大学教授村上節太郎氏の当時の様子を語ったテープがあり、それによると、父親は「近江帆布工場が三瓶にくるということは、勢い三瓶全体の繁栄になると世話する人にピンときて、これは大変なものがくることになる、町中タイコたたいて受入れ態勢を取らなくてはいけない。熱心に誘致された方が井上古八(丸屋さん)でした。
 八幡浜に近江帆布株式会社はありましたが、そのような立派な紡績があるにもかかわらず、八幡浜ではそれを立派なものとは考えていなかったようです。そこに着眼して、丸屋さんはあの紡績が来てくれることは、大変な大きな財産を持ってきてもらうようなものだ。これは全町こぞって、三瓶町発展のためには、海岸の奥から浜まで土地全部を無料で提供しなくてはいけないと案を立てられ、幸いなことに時の町長も共鳴してくれ、それでは町が全部買って寄付しようじゃないか。しかし、町第一級の田畑ということで交渉は大変だったようですが、町の大勢がそんな立派な工場が来てくれるのだったら、こんな幸せなことはないじゃないかと、全員賛成して、譲り受けることができた。」と当時の様子を語る。当時の八幡浜の様子を、海南新聞(昭和4年〔1929年〕5月19日付)は「近江が三瓶の工場施設のため目下敷地その他の準備中であるが、八幡浜の町民は、三瓶に新設しても八幡浜工場は依然として操業するものの如く解しているが、町議者間では、これは現在の八幡浜工場廃止の予備行為であると考え、これは死活問題なりしと、この際一大犠牲を払ってでも、八幡浜工場拡張の敷地を町において買収し、提供しなくては等の議論高まる。」と記述している。
 「三瓶町誌」によると、当町は幸い紡績工場の立地条件である工場用水の水質、水量が適すること、運輸面で良港があり、船舶の便がよく、女子工員の雇用が出来やすいこと等備わっていたので、滋賀県彦根町に本社を持つ近江帆布工場の誘致に当たった。会社側は条件として、敷地2,700坪(8,910m²)の無償提供を提示したので、町議会は条件受入れの意向を固め、地主総会を開き賛否両論あるも、町当局の熱心な説得で賛意を表し、この日一度の総会で決着をみた。そこで町は土地を買収し、昭和4年(1929年)大林組の手によって着工。工場の建物は近代建築法で鉄骨組立てであり、町民を驚かせた。総工費280万円。当時の人夫費は50~60銭であった(⑯)。

 (ア)工場と旅館

 この近江帆布工場の建築が、現在の朝屋旅館が旅館をはじめるきっかけになったと**さんは「八幡浜から近江帆布工場が三瓶にくることが決まりメディスというイギリス人の技師と通訳と工事を請け負った大林組の監督さん3名のために部屋を貸してくれないかとの話がありました。その頃旅館はありましたが、料理を食べさす旅館がなかったのです。たまたまわたしの家が、180坪(594m²)の敷地に学校のように長い2階建ての家でした。そのため多くの部屋があいておりましたので、それではと言うことで下宿させたのです。そのころ女工さんたちの寄宿舎が5棟建ったのですが、その時の材料が沢山あまっているので、家を改造して旅館をしたらという話が持ち上がり、その時わたしの家の女中に4~5年前まで旅館にいたという経験者もいまして、思い切って始めた次第です。名前は父の伯父である朝井猪太郎が、経営していた朝屋銀行の名を取って、朝屋旅館とし、昭和5年に初めて、昨年がちょうど60年になりますので新築したのです。」と語る。

 (イ)工場の恩恵

 昭和8年(1933年)近江帆布株式会社は「朝日紡績」になり、工員男子130名、女子1,300名を擁し、工場の規模55,000錘、県内では川之江の富士紡績、北条の倉敷紡績に次ぐ工場である。工場の操業に伴い、500t級の船が接岸できる施設が必要となり、昭和7年(1932年)から港湾改修事業が始められた。
 昭和19年(1944年)朝日紡績は敷島紡績に併合され「敷島紡績三瓶工場」になった。この工場が町に直接与える恩恵は多大なものであった。「三瓶町誌」によると、例えば、敷島紡績の町民税・固定資産税の額は多額なもので特に昭和26年糸ヘン景気は最高に達し、この年三瓶町役場を新築した。工事費のうち、町負担分は、敷紡の町民税・固定資産税1年分の額であったので町は新庁舎建設に踏み切ったと記述している(⑯)。
 銀店街で商業を営む**さん(三瓶町朝立 大正2年生まれ 65歳)は「戦後は近江帆布工場が合併して敷島紡績になっておったのですが、敷島紡績の中でただ一つ綿工場として残っていただものですから、昭和35年10月敷島紡績が三瓶工場を閉鎖するまでは、この町の経済は西宇和郡の他町に比べて一番潤った。商業もそれにつれて大きくなるし、人口も川之石より多かったように思います。」と語る。

 ウ バスの時代

 大正9年(1920年)郡道整備の大計画が立てられ、これに基づいて、八幡浜~三瓶線も9尺幅(2.7m)に改修され、八幡浜~吉田線の海岸道路も順次整備され9尺幅の道が、大正15年(1926年)には下泊まで貫通した。このように道路が整備されると、輸送手段の主力が、人が引いたり押したりする大八車や荷車か、馬や牛に引かせたもので、宇和から木材を、三瓶からは肥料を運んでいた(*4)。
 昭和に入って乗用車といえば、自動車でなく自転車が主流であった。しかし、まだまだ高価なものなので、一般の人の足は、歩け歩け文字どおり〝足〟そのものだった。その後、リヤカー(昭和4年〔1929年〕より使用)や乗合バスの運行がはじまった。

 (ア)愛媛・南予・三瓶のバスの始まり

 愛媛県で初めて登場した自動車は、自家用の乗用車でも、トラックでもない、乗合自動車、つまり今日で言うバスだった。自動車がどのような経緯をたどり社会の中に定着していったのかさぐってみる。
 「愛媛の明治・大正史」によると、明治41年(1908年)9月22日北宇和郡好藤村(現広見町)今西幹一郎さんはじめ松山市の有志により、温泉郡素鵞村立花(現松山市立花)~伊予郡原町村宮内(現伊予郡砥部町)間の申請が出され、乗合自動車路線が認可された。しかし、実際に営業を始めたのは、松山市木屋町~温泉郡堀江村(現松山市)間で、明治44年(1911年)の1月12日だと言われている。最初は物珍しさから人気があったが、開業後1か月もすると馬車の運賃8銭に比べ一銭高いこと、故障が多く、乗客から危険だとこわがられたこと、また、沿道住民からホコリが立つと顔をしかめられ、県当局からは道路を破損するといやな顔をされた。超文明交通機関のはずの自動車も、前途は決して楽ではなかったと記述されている(⑪)。
 南予では、大正5年(1916年)八幡浜町(現八幡浜市)に伊予自動車というバス会社が誕生した。路線は八幡浜~郡中(現伊予市)と当時としては驚くほど長距離だった。
 このころ松山~八幡浜間の交通は海路が主だった。佐田岬の先端を回り、高浜に上陸。坊っちゃん列車で松山に至るもので、片道でもたっぷり一日かかっていた。シケで欠航になると、往復で一週間近くかかることも少なくなかった。
 大正3年(1914年)医師で八幡浜町長でもあった上申廉さんは「バスこそこれからの交通だ。」と思い立ち、株式募集など会社設立のために立ち上がった。「不便な交通事情が緩和されることを思えば高価な自動車も決して高くはない。」資本金5千円で伊予自動車を設立。大正5年(1916年)11月3日から八幡浜~大洲~郡中間の運転を開始した。郡中~松山間は伊予鉄道が走っている。「自動車で松山まで日帰りが出来る。」と南予の人たちは驚異の目を見張ったという。
 三瓶町では、朝井菊快さんが昭和3年(1928年)自動車の将来を見込んで三瀬自動車を買収し、三瓶自動車株式会社をつくって自動車営業を始めた。はじめは、6人乗りのバス2台で三瓶~卯之町、三瓶~八幡浜間の運行であった。これも昭和5年(1930年)には三瓶~周木間、昭和6年(1931年)には八幡浜~穴井間の運行が開始され、利用者の増加につれてバスの大型化、台数の増加があり、昭和18年(1943年)には9台になっていた。車体が大型化してスマートになってきたように、会社自体も整理統合を繰り返し、18年には宇和島自動車株式会社に路線を譲った。

 (イ)昭和25年ころのバスの乗客

 共盛社に勤務していた**さんは「共盛社が宇和島自動車の三瓶営業所をしていたので客の流れは大体つかんでおりました。一日に八幡浜から入ってくる車が一台、卯之町の車が一台で、人の動きは、はじめ八幡浜の方がお客が多かったようです。卯之町に行く人は、三瓶から買い出しにいくおばさんたちが4~5人乗りよりまして、イリコを持っていって、向こうからは米を買ってトラックと同じでしたよバスが。一斗(15 kg)から二斗、それ以上は制限して積ませない。それ以上持っている人は料金を払えとよく言っていましたよ。卯之町行きのバスなどは、首を曲げないと天井につかえて乗れなかったし、当時は木炭自動車のため、出発1時間前には車掌を起こして、木炭炉の火を起こさせていました。」と当時の模様を語る。

 エ 自動車の増加

 昭和の初めになると自動車による運送業が開業され、荷馬車に比べると運賃は高くつくが、荷が早く着くので利用者も増加し、三瓶より肥料を奥地の村まで、材木などを港まで運ばれた。
 一方バス路線の延長、大型化が進み、車両の往来も多くなると道路の部分的改修工事も逐次進められていた。また、タクシー業、マイクロバス業も営業を開始し順次車の台数も増加してきた。宇和島自動車のバス路線は、昭和24年に下泊まで延長され一日三往復で運行が開始され、26年には八幡浜~(穴井経由)~三瓶線開通し、はじめは船との競争であったがバスの運行回数が多くなり、時間も半分で目的地に着くので客も次第にバスに奪われていった。また、34年10月三瓶~下泊~高山~宇和島のバス路線が開通し、こちらの航路も大打撃を受けた。更に、山手回りの八幡浜行きも、若山経由のみであったが、29年には横平経由が、38年には和泉経由が開通してこれで3路線になり町内バス路線網がここに確立した。一方沿岸航路では38年3月28日に宇和島~八幡浜間の航路の運行を廃止し、今まで航行していた八幡浜~三瓶間の「三島丸」も、この頃には運行が廃止され、ここに沿岸航路も様々な思い出を残して終止符を打った。
 **さんは沿岸航路の思い出として「昭和の初めから10年頃まで、三島丸、三瓶丸、鶴島丸の3隻で後からいろは丸も就航しましたが、最初は出発を同じにしてポンポン黒い煙を吐いて速さの競争をしていましたが、後には運賃の競争になり八幡浜まで20銭でしたが、船はあちこち港に着けるので時間が2時間30分かかりました。その時バスは50銭で時間は1時間で行きよりました。しかし、料金が倍以上もかかるので利用していたのはお医者さんとか、議員さん、学校の先生たちでした。その後船の料金が10銭に、最後には青木運輸の「いろは丸」が手拭つけて5銭になり、自分ところが燃料店なので石油がタダですから。そのためにバスの乗り手が少なくなりました。その後戦争が激しくなって繁久丸、いろは丸、三瓶丸がやめ、最後は三島丸だけになりました。自動車が発達して海岸線も走るようになり、三島丸も一日一往復。高校の南予大会が宇和島にありバレー部を引率して行くのに、三島丸が時間的に便利なので船で行くことにしていたら、当日の朝になって、エンジン故障でだめになり、急きょ二及の機帆船(貨物専門の小型船)を雇って乗せてもらったが、途中警備船に会い、子供たちが船の上で応援旗を振ったりするものですから、その船止まれ、本船に横着けせよと止められました。まあ理由を話して了解してくれましたが。その三島丸も38年には廃止になり、沿岸航路を走る船もなくなりました。」と当時の思い出を語る。
 昭和40年ころから車の増加傾向が始まり、三瓶町内の車保有台数、運転免許保有者数からみて、家に車の運転手のない家庭は少なくなってきた。そして車が毎日の生活や生産活動と切っても切れない状態となってきた。このように自家用車の利用増加は、バス利用にも大きく響いて、統計が示しているように漸減の傾向になっている。

 オ 車社会と商店街

 塩田町を銀天街(アーケード)に改装したのは車時代に入った昭和40年である。三瓶農協の本部にマーケット形式の店ができ、町内各支所も新たにされ、個人でもこの形式で開業する人が各地区に出来てきた。しかし、48年のオイルショック、51年の酒六三瓶工場の閉鎖、後述する朝立バイパス、横平トンネルの開通によって商店街も大きな打撃を受けた。
 「三瓶商工会地域ビジョン作成事業報告書」によると昭和60年度における小売業は、昭和45年度対比で89%となっており、かなりの減少を示している。しかし、卸売業は467%で%の上では、かなり大幅な増加を示しているが、実質的には11業者の増加に過ぎない。もちろん、この11の卸売業者が卸売のみ専念しているのではなく、小売業も兼ねていると思われるので、卸売業と小売業とを一括して昭和45年度との対比をみれば、45年度の189業者に対して、60年度は179業者であって、10業者の減少が見られるのである。ところが、平成3年度の商業統計調査結果によれば、商店数200、従業者数571人、年間商品販売額84億5,963万円と報告されている。60年度対比においては増加の傾向がみられるが、小売業従業者一人当たりの年間販売額からみれば、それ程増加していないようである。ちなみに60年度の小売業の年間販売額は39億5,972万円であって、卸売業を除外した165小売業者数で除すると、一業者当たり約2,400万円であり、小売業従業者数で除すると、一人当たりの年間販売額は約950万円である。平成3年度の小売業の年間販売額は56億923万円であり、これを従業者491人で除すると、一人当たり約1,160万円程度であるので、それ程増加しているようには見られないのである。この点に当町の小売業界の持つ問題点を見ることができるのではなかろうか。また、大洲、八幡浜中心商店街への買いものの頻度も「毎日1%」、「週2~3日10.1%」、「週1回以上が41.4%」に及んでいる。月1回以上だと72.7%にも達している(⑳)。アクセスの整備と共にこの傾向は更に高まることが予想される。**さんは「敷紡の閉鎖で人口が減少、商売もなかなか難しくなりましたが、何と言っても昭和53年のやっぱり横平トンネルの開通が大きく、人口の流れを変えました。二車線道路で三瓶~八幡浜間が一時間かかっていたものが20分くらいで結ばれ、その上に、56号線の開通が土・日の町外への人の流れを招き、日曜日などアキナイは非常に寂しくなりました。衰微の方向に向かざるを得なくなったということですね。」と語る。


*4 木材と肥料
   宇和地方は気象及び土壌が樹木の成育に適し、経済条件においても比較的有利な地位にあった。とくにヒノキの植林に適
  していて、山田地方の桧材は、色・匂(にお)い・艶(つや)において王者である。
   明治の末期に、日本は北洋漁業に進出できるようになり、それに着目した朝井猪太郎氏は、カムチャッカのコルサコフ付
  近の二か所にサケ漁権を獲得し、住吉丸・太洋丸を購入してサケ捕獲に当たった。サケ漁期以外は北海道でニシンを買い
  付け、豊臣丸を用船して小樽からニシンを満載して三瓶港に入港させた。当時ニシンは主に肥料に用いられ町内はもちろ
  ん、鳥付峠を越え宇和町へも販売された。