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宇和海と生活文化(平成4年度)

(1)早吸瀬戸(はやすいせと)の東と西(佐田岬と関崎)

 速吸瀬戸(はやすいせと)(豊予海峡)をはさんで、佐田岬突端にある佐田岬灯台と、大分県北海部郡佐賀関町にある佐賀関灯台までは直線距離で13.5kmの指呼の間にある。
 速吸瀬戸は「古事記」の中で、神武天皇東征のみぎり「亀の甲(せ)に乗りて、釣しつつ打ち羽挙(はぶ)き(羽ばたき)来る人、速吸門(はやすいのと)に遇(あ)ひき。」とあるように古くから人びとに知られていた。
 先史時代から佐賀関と三崎のあいだには人や物の交流があったことが考えられる。長井数秋氏の研究によれば、三崎町串のみのこし遺跡や正野の野坂神社の東斜面に位置する野坂貝塚があり、貝塚にはアワビやサザエなどが豊富に含まれている。そのことから古くより潜水漁業が盛んにおこなわれていたとみることができる。三崎本浦の中村遺跡からは5世紀のものとみられる子持勾玉(こもちまがたま)が発見されている。このことは当時三崎は九州と四国を結ぶ中継地であり、子持勾玉の発見は海上交通に係る海神信仰があったことを示唆するものである。弥生前期の土器には、大分県佐伯市の下城遺跡の土器と同じものが発見されている(①)。
 三崎町で岬に一番近い集落が正野と串である。正野の地に串の権現さまとして知られた野坂神社がある(写真1-3-1参照)。主祭神が速吸比古命(はやすいひこのみこと)であり、配神として住吉三柱大神、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)がまつられている。境内の中に金刀比羅神社、船玉神社、恵美須神社、稲荷神社、大元神社、一ノ宮神社があり、海にまつわる神々がまつられている。
 野坂神社にまつられる速吸比古命の由緒について、「宇和旧記(②)」によれば、岬の御島(おしま)の鰯碆(いわしばや)の海中に光るものがあり、よく船が遭難するので兄弟の海士(一説は佐賀関の親子の海士)が海底の光る玉を持ちあげたが、そこで兄弟の海士は息絶えた(一説は海底で大タコが玉を守っていた。佐賀関海士の親は玉をとることができずそこで死亡したが、子の海士は大ダコの手を切って光る玉をかつぎあげそこで絶命したとある。)。
 その玉を御島(おしま)の地に社を建てまつったが、その後も船の遭難が絶えないので神託を請うたところ夜中に呉竹3本が生えた。そこでその場所すなわち現在の地に移しまつったとある。
 対岸の佐賀関町には式内社の早吸日女(はやすいひめ)神社がある(写真1-3-2参照)。昔から関の権現さまとして人びとの信仰が厚い神社である。祭神は伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)のみそぎ祓(はら)いのとき生まれた神々八十柱津日神(やそまがつひのかみ)、大直日神(おおなおびのかみ)、底筒之男神(そこつつのおのかみ)、中筒之男神(なかつつのおのかみ)、上筒之男神(うはつつのおのかみ)、大地海原諸神(おおとこうなばらもろもろのかみ)の6柱を祭祀している。
 早吸日女神社の由緒について、「佐賀関町史(③)」によれば、神武天皇東征の途中、甲寅年(きのえとらどし)速吸瀬戸において黒砂(きさご)・真砂(まさご)の姉妹の蜑(あま)(海女)が海底から神剣をとりあげ天皇に奉献した。天皇は神剣を御神体とし自ら早吸の神と称し6柱の神々を奉斎した。神剣を献したのち黒砂・真砂の姉妹の海女は息絶えたとある。
 「県社早吸日女神社御由緒(④)」によれば、創祀は文武天皇の大宝元年(701年)、日向の国司が50余艘で速吸門に来たが船が進まない。波上に神光がみえ、よくみれば海底の暗礁の上に神剣があった。そこで上地の黒砂・真砂の姉妹の海女に命じて神剣を取り上げさせ古宮の地にまつるとある。また黒砂・真砂をまつる二つの古墳の石祠の由来について、神武天皇の東征のみぎり、速吸門で船が進まなくなった。何事であろうかと海中をみてみると等身大ともみえる大ダコが神剣を抱いている。黒砂・真砂の姉妹の海女が大ダコと戦い、神剣を取り出し天皇に献じたが、姉妹ともに絶命した。海中から神剣があげられると船はもとの様子にかえり航行した。天皇は姉妹の海女を哀れみ、若御子(わかみこ)の地にねんごろに葬ったとの伝承もある。この姉妹の海女を佐賀関の海士・海女の祖神として毎年8月1日に祭礼がおこなわれてきた(⑤)。
 「豊後国風土記」によれば「海部(あま)の郡(こおり) 郷(さと)は四所(ところ) 里(こざと)は一十二、駅(うまや)は一所(ところ)、烽(とぶひ)は二所(ところ)なり。此の郡(こおり)の百姓(おおみたから)は、竝(みな)、海辺(うみべた)の白水郎(あま)なり。因りて海部(あま)の郡(こおり)といふ。(⑥)」とあるように古くからこの地域一帯は海人の居住地であった。これらの海人たちが九州の地から瀬戸内海各地に進出し、佐田岬地域へ移住定着していく過程で、佐賀関の早吸日女神社の由緒伝承が三崎にも伝えられたと考えることができる。
 タコにまつわる伝承についても同様のことがいえる。佐賀関の早吸日女神社の宮司の家では昔からタコを食べないという。三崎の正野でもタコを食べない家がある。早吸日女神社には蛸断(たこだち)祈願というものがある。願いごとがあると満願成就まではタコを食べないと願がけをしてタコの絵を神社に納める。今でも神社の拝殿の中に何十枚もタコの絵が張られていた(図表1-3-1参照)。正野の野坂神社でも願かけにタコの絵を供えたり、神前でタコを食べませんと唱えながらお百度をふむ習俗があった(⑦)。
 同じく三崎町明神にある客神社の由緒に、天文のころ(1532年~1555年)新兵衛という者が、泊りの海中で大ダコを捕えたが、見れば神鏡二面を抱いていたので、社を建て客大明神と称して奉斎したとの伝承がある(⑧)。客神社では社殿に張る幕にタコをえがいて神社の由来を伝えている。氏子の人びとは今でも近海でタコをとることをしないという。
 三崎における先史時代の遺跡や貝塚から、この地域は古くから九州との交流があったこと、神社の由緒伝承が佐賀関の早吸日女神に由来すること、蛸断(たこだち)祈願の民俗伝承が共通して存在することなどからも、速吸瀬戸をはさんで、古くからお互いの交流のあったことは明らかである。今も両地域間では婚姻関係による結びつきの強いところである。
 佐田岬半島を通る国道197号線は、豊後水道をはさんで佐賀関町に続き大分市に至る。この道路のうち、佐賀関町と大分市鶴崎間を「伊予街道」(現在は愛媛街道と呼ぶ)と称されている。「伊予街道」の名前の由来は、幕府の巡見使が伊予から佐賀関に渡り大分に至る道であり、反対に大分から佐賀関を通り伊予へ渡る道であるところから名づけられたものである。他県の道路に、伊予とか愛媛の地名が冠せられることも珍らしい。
 佐賀関と三崎との交流は今もなお緊密である。営まれる漁業形態も、両地域はアワビ・サザエ・ウニ・テングサを採取する根付漁業の海士や海女のいるところであり、速吸瀬戸でのタイ・ブリ・アジ・サバ・イサギなどの一本釣り漁業で生きてきた漁村である。三崎の漁民の漁労技術は佐賀関漁民から習得した場合が多い。昭和に入ってからでも昭和32年(1957年)に三崎の漁船が伊豆沖出漁を開始しているが、キンメダイ一本釣りの伊豆沖漁場の情報は佐賀関からであった。また、従来三崎では操業していなかったタチウオ釣りの技術も佐賀関からの導入である。
 三崎漁協では昭和40年(1965年)にはじめて漁船のエンジン修理工場である鉄工所を設置した。それまでは漁船のエンジンは佐賀関から購入していたし、その修理も佐賀関であった。
 一方、第二次世界大戦の戦後のしばらくの間まで、三崎の海士が大分県や宮崎県、遠くは長崎県対馬にアワビ・サザエの採取に出掛けている。大分県南海郡蒲江町の畑野浦、津久見市の堅浦、宮崎県北浦町阿蘇や島浦島、長崎県対馬北端鰐浦を根拠地として、地先の磯を買って出漁していたことからも、三崎の海士の九州との交流を知ることができる。

写真1-3-1 三崎町正野の野坂神社

写真1-3-1 三崎町正野の野坂神社

結晶片岩の青石で築かれた石垣の中に鎮座する神社の拝殿の屋根は漆喰(しっくい)でかためられ強風からまもられている。主祭神は「ハヤスイヒコノミコト」である。平成4年7月撮影

写真1-3-2 佐賀関町の早吸日女神社

写真1-3-2 佐賀関町の早吸日女神社

関の権現さまとして古くより人びとから親しまれてきた。主祭神は「イザナギノオオカミ」がみそぎをしたときの神6柱である。平成4年12月撮影

図表1-3-1 佐賀関の早吸日女神社に蛸断祈願のため奉納されたタコの絵

図表1-3-1 佐賀関の早吸日女神社に蛸断祈願のため奉納されたタコの絵