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えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(1)行商の女性-おたたさん-

 「おたた」とは、御用桶(ごろびつ)とよぶ木製の桶に魚を入れ、頭上にのせ、松山を中心に近郊に「魚はいらんかえ」「魚おいりんか」などと呼んで家々をまわり、魚を売り歩いた松前町や松山近辺の女性をいう。「おたた」の語源については、「もともと、どの地域においても、売魚婦を一般に『タタ』『オタタ』と呼んでいたのが、江戸時代に至り、松山藩の保護のもとに、漁業の隆盛をきたし、多くの松前女性が漁獲物を近郷はもちろん、遠くまで売り歩き、自然に親密さも加わり『タタ』なる語が松前地区と密接に結びついたもの(⑤)」とされる。
 昭和21年(1946年)から半世紀以上「おたた」をしてきた**さん(大正14年生まれ)に、行商女性の労働と生活の変遷について話を聞いた。

 ア 戦争中は朝鮮へ

 「私は松前の浜(はま)の生まれです。昭和17年(1942年)に松山の女学校を卒業しました。その後、東レに就職しました。就職して1年ぐらい経った時、姉が朝鮮の京城(けいじょう)(ソウル)にあるタイヤ会社に勤めており、そこへ来ないかと誘われて行くことにしました。本州の下関(しものせき)と朝鮮の釜山(ぷさん)(プサン)の間を運航していた関釜連絡船に乗り朝鮮へ行ったのですが、戦時中であったので飛行機が連絡船を護衛していました。朝鮮へ行ってから2年ぐらい経った時、昼休みに会社の部長や課長など偉い人が『もうこの戦争は、負けるな。うちは家内も帰らし引越しする。』と話しているのをたまたま聞きました。そこで、『これはいかん。死ぬなら両親のもとで死にたい。』と思い、急いで帰ることにしました。帰ろうと思っても日本へ帰る切符をすぐに買うことはできません。切符を買う手続きの方法も知らなかったので、次の日曜日に京城の駅まで行きました。駅長さんに『戦争も厳しいから、どうにかして日本へ帰りたい。』と言いました。すると、駅長さんに『姉さん、隣の愛護班から証明書をもらってきなさい。』と言われ、切符を買う手続きの書類をもらいました。1週間ぐらい待って証明書を発行してもらい、切符を買って帰ることができました。」

 イ 「おはよう、なんぞいる」と声かけて 

 「昭和21年(1946年)に結婚しました。嫁ぎ先は実家から5、6軒先です。嫁ぎ先はえびこぎ網漁をしていました。いりこも製造していました。お兄さんと主人2人がえびこぎ船に乗って魚をとって帰ります。とれた魚をお母さん(姑(しゅうとめ))やお姉さん(義姉)が行商に出て売りに行くのです。行商へは実家の母も行っていました。親戚や近所の人などたくさんの人がえびこぎ網でとった魚を売りに出るのですが、それでも魚が余ることがありました。お母さんに『(余った魚は)うちで引いてきた(とってきた)魚だから、売りに出て損するわけではない。売りに行ったらどうか。』と言われて行商に出ることになったのです。
 売りに行く先は、松山でした。初めて行商へ出た時は、市駅を降りてどっちの方向へ行こうかと迷いましたが、古町(こまち)や江戸町(えどまち)には行かないで、繁華街の湊町(みなとまち)か千舟町(ちふねまち)か大街道へ行ってみることにしました。それ以来、千舟町から二番町、三番町界隈(かいわい)で得意先をつくり商売をしました(図表2-2-3参照)。三番町の桃太楼や花月などの料亭ではお客さんに出す魚は別に仕入れていたのですが、従業員が買ってくれました。それから森川の五色そうめん、桃太楼の向かいにあった高木料理店のほか、ふつうの家にも行きました。本田内科、浅田病院など二番町、三番町界隈を中心に、唐人町(とうじんまち)(現松山市三番町一、二丁目)や北京町(きたきょうまち)(現松山市二番町一、二丁目)、正安寺町(しょうあんじちょう)(現松山市湊町三丁目)、さらに大街道の薄墨ようかん(中野ようかん)へも行きました。『おはよう、なんぞいる。』というように声をかけると、『あっ、おはようさんが来た。』と言って出て来て買ってくれました。行商先はなじみの家にしか行きませんでした。最初は飛び込みで行きます。買ってくれれば4、5日してまた行くのです。評判が良くなると『ここの魚おいしいから。』と言って別な客を紹介してくれました。そうやって得意先を増やしました。」

 ウ 子どもを背負って行商へ

 「毎朝4時に起きて、漁に出ているお兄さんと主人が帰ってきたら、とった魚をみんなで分けます。うちはえびこぎ船を持っていたので、近所でおたたをしている人が10人くらい魚を買いに来ていました。それから7時ころに魚の入った御用桶(ごろびつ)を持って汽車に乗ります。松前から市駅までは30分ぐらいかかりました。市駅に着くと御用桶をいただいて(頭上にのせて)得意先を回るのです。昭和22年(1947年)から23年(1948年)ころにおたたをしている人は、100人ぐらいはいたと思います。松前や郡中(ぐんちゅう)の人がたくさんしていました。松前でもおたたをするのは浜の人だけです。町の人はしません。浜の人でも松山や外(他地域)から嫁に来た人は、ほとんどしません。汽車に乗って松山が近づくと、岡田(おかだ)、余戸(ようご)、土居田(どいだ)とそれぞれの得意先へと順々に降りて行っていました。おたたはそれぞれに得意先を持っていて、お互いにそれを守っていました。私たちは、娘時分におたたはしていません。私たちの世代が始めたのはみんな結婚してからです。昔の人、今90歳代ぐらいの人は16、17歳ころからおたたをしていたと聞いています。1か月に22、23日は行商に出ていました。雨の日もお客さんは家にいるので行きます。魚はイカ、タコ、デベラ、イワシ何でも売っていました。今は市場を通しますが、当時は朝、漁でとれたものは何でも持って行き売っていました。とれた魚は残していても何にもならないので全て売ってしまわなければならなかったのです。午前中には商売を終えて、午後1時ころには家に帰っていました。行商に出ないときは、いりこの製造をしなければならないので休む暇はありません。朝4時に起きて夜11時に寝る生活をずっと続けていました。
 子どもが生まれてからは、子どもを背負い、おしめを2回分持って、御用桶をいただいて(頭上にのせて)回っていました。桶の重さは10貫(約37.5kg)ぐらいです。子どもを背負っているので、最初は重くて1人でいただくことができません。のせられないので得意先で手伝ってもらっていました。魚が売れて軽くなると自分でのせます。子どものおしめを替えたり、お乳を飲ませるのも得意先でさせてもらいました。
 昭和20年代後半までは桶をいただいて、桶の中に魚を入れたざるを3段重ねにして回っていました。それ以後は、カンカン(石油を入れる1斗〔18ℓ〕缶を横にしたぐらいの長さで、深さが半分ぐらいのブリキ缶)を使うようになりました。カンカンを3段重ねて大風呂敷で包み、背中に背負って回るようになったのです。それも昭和40年(1965年)ころまでで、それからはリヤカーに変わりました。リヤカーは乳母車を改造したような四輪車です。そんなに大きなものではありません。リヤカーに魚の入ったトロ箱を積んで商売をします。注文があればまな板を置いて調理できるようにしていました。リヤカーは市駅の陸橋のガード下に置いていました。松前や三津の人が5、6台置いていました。2、3回盗られたこともあります。市駅までは、魚をカンカンに入れて電車で運びます。そこからは魚をトロ箱にうつしてリヤカーにのせて行商をしていました。」

 エ 北海道でかんづめ行商

 「かんづめ行商」とは、おたたの遠距離行商販売の一つである。「かんづめ」とは1斗缶の容器に珍味を詰めて運んだことに由来する。戦前には日本全国さらに朝鮮、台湾、満州まで広く活動していた。昭和5年(1930年)に1,508名出ていたかんづめ行商者も昭和14年(1939年)には、戦争の影響を受け403名に激減し(⑥)、戦後はさらに減少、現在では松前から姿を消した。昭和27年(1952年)から10年間、北海道へかんづめ行商に出ていた**さんは次のように話す。
 「北海道へは、昭和22、23年ころからお母さんとお姉さんともう一人別な人が行っていました。私はこっちでおたたをしていましたが、『北海道で珍味の商売がもうかるから、一緒に行かないか。』と誘われ行くようになったのです。昭和27年だったと思います。洞爺丸が沈没した時(昭和29年9月)には、北海道の伊達(だて)で商売をしていましたから。
 北海道へ行くのは、桃の節句が終わった4月です。4月上旬に行って12月の年末に帰ってきます。1月から3月は雪が降るので商売にならないのです。船で大阪(おおさか)へ出て、大阪から函館(はこだて)まで汽車で28時間かかりました。最初は深川(ふかがわ)というところに行きます。そこで家を借りて3人で住んでいました。そして、汽車で移動して帯広(おびひろ)、釧路(くしろ)、網走(あばしり)、小樽(おたる)、伊達と北海道を回って商売をして行きます。恵庭(えにわ)の自衛隊基地で商売をしたこともあります。北海道はほとんど回りました(図表2-2-4参照)。大きなカンカンを3つか4つ重ねて背負い、さらに缶詰やのりを手に持って回るのです。坂道や階段では、下りはいいのですが上りになると大変でした。商売は、お母さんとお姉さんと私の3人でやっていました。例えば、深川にいれば、私は留萌(るもい)から増毛(ましけ)に行き、お母さんは旭川(あさひかわ)へ、お姉さんは富良野(ふらの)へと分かれて回るのです。旅館や料亭、飲食店、会社の寮や保養所などに行って、最初は飛び込みで試食をしてもらい注文を取り付けるのです。帯広へ行けば、帯広の旅館で2日ぐらい泊まり、周辺で商売をします。商品は先に旅館へ送っておきます。釧路に行くなら釧路の旅館へ、北見(きたみ)なら北見の旅館へ送っておきます。当時、松前から北海道へ行って商売をしている人はたくさんいました。30人ぐらいはいたと思います。滝川(たきがわ)、岩見沢(いわみざわ)、苫小牧(とまこまい)などいろいろなところで松前の人が商売をしていました。中には、そのまま住み着いた人もいます。松前から来た人がいろいろなところで商売をしているので、旅館でたびたび一緒になりました。北海道には私たちの珍味行商以外にも、油屋、薬屋、屏風(びょうぶ)屋など行商の人が全国からたくさん来ていました。珍味は松前で作られたものも売っていましたが神戸、大阪、東京、北海道と全国の問屋から仕入れていました。おかきは大阪の問屋、タコくん・イカくん(タコやイカの燻製)は北海道の函館の問屋、のりは神戸の問屋というように、それぞれ品物によって仕入れる問屋が決まっていました。問屋から仕入れた品物の代金は、毎月問屋が集金に来ていました。その時に問屋への注文もします。品物は私たちがいる借家や旅館に届くようにしていました。
 お客さんへは現金取引もありますが、お得意さんには貸し売りです。今回行ったら前回の代金をもらうというやり方です。一回売ったら帰るまで支払いをしてくれないところもありました。問屋へは現金で支払い、お客さんには貸し売りをするので商売をするには、ある程度まとまったお金が必要でした。」

 オ いろいろと苦労はしました

 「いろいろと苦労はしました。北海道では冬の寒さが厳しい時期には商売をしないのですが、年末までは商売をします。12月に入ると雪が降り寒さが厳しくなるのです。岩内(いわない)に行ったときです。午後3時ころに商売を終え帰ろうとしたら吹雪になり、一寸先が真っ暗闇になり道がわからなくなりました。駅まで普通なら5分で行けるのですが、吹雪のため45分もかかりました。雪で遭難するのはこういう状況でなるのかと思いました。厚岸(あっけし)では凍った海の上を歩いたこともあります。一人で商売をしていたので怖い目もしました。ばんけい温泉で商売をして、10時ころに隣町まで汽車で行こうと思ったのですが、次の汽車が3時になるというので近所の人に歩いて行くにはどのように行けばよいかを聞きました。そうすると、峠を越えたら行けるが、熊が出ると言われたのです。熊が出るからと商売をやめるわけにはいかないので、峠道をカンカンを鳴らしながら歩いて行くと、本当に熊が出てきたのです。必死でカンカンをどんどん鳴らすと熊は逃げました。峠を越えて、家が10軒ぐらい見えてきたときにはほっとしました。
 北海道へ行きはじめた時は、子どもが3人いました。長男が5歳、次男が3歳、長女が1歳でした。長男と長女は主人の姉に預け、次男はおばに預けていました。子どもと別れる時が一番辛かったのですが、私だけでなく、みんな子どもを預けて商売をしているのだから仕方ないと思っていました。北海道へ行っている間は、病気にならないか、けがをしないか、いつも心配していました。北海道へは昭和27年(1952年)から10年間行きましたがその後は、松山でおたたをしました。60歳ぐらいまでは松山へ行っていましたが60歳を過ぎてからは、松山は息子に任せて近所で商売をしています。今は引退しましたがたまに息子と一緒に松山に行くこともあります。」

図表2-2-3 **さんの行商ルート(昭和20年代)

図表2-2-3 **さんの行商ルート(昭和20年代)

**さんからの聞き取りにより作成。

図表2-2-4 **さんの北海道での行商先

図表2-2-4 **さんの北海道での行商先

**さんからの聞き取りにより作成。