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えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(4)地域の中の子どもたち

 ア 学校と家庭

 「昭和30年代には運動靴に穴があいている子がいっぱいいました。靴は最初に大きなものを買い、綿を詰めて履き、そのうち足が大きくなると調度良くなりました。男の子は野球をするので、つま先によく穴があきました。当時は靴自体あまり丈夫でなく粗末なものだったため、すぐに靴擦れしました。昭和20年代は学校に下駄(げた)を履いて行く子が多く、男の子は遊ぶときも、体育も裸足(はだし)でした。
 小学校ではギョウチュウ検査があり、先生がマッチ箱の容器を配り、『みなさん、ポン(うんこ)をもっておいでな』と言って検便をしました。ギョウチュウがいる子はチョコレートのような虫下しをもらいました。風呂屋に行けば、ノミやシラミをうつされました。
 学校から帰ると宿題は後回しにして遊びましたが、親は仕事に追われていたため、あまりやかましく言われませんでした。下の子は兄姉がよく面倒を見ました。父親の着物の帯で、上手に下の子を背負い遊びましたが、途中で帯がゆるんだら、友達がくくりなおしてくれました。子どもが家の手伝いをするのは当たり前で、ふき掃除や家の前をほうきで掃くことから、店の手伝いまでやりました。商店街の子は、親の仕事を小さいときから見ているので自然に覚えました。」
 薬屋の**さんは、よく薬の配達をした。酒屋の**さんは高校に入ってすぐに軽四の免許を取り、配達を手伝った。昔は16歳で車の免許が取れた。米屋の**さんは、中学生のときから配達を手伝っていたため、得意先を全部覚えており、学校を出て家の仕事を本格的に始めたときは即戦力だった。**さんも高校1年生のとき自動車の免許を取ったが、それまでは自転車で配達していた。重い荷物も積める丈夫な自転車(重荷用自転車)で、荷台やタイヤが大きく、スタンドもしっかりしており、これに米2斗(28kg)から約1俵(56kg)を積んで配達した(当時白米1斗が14kgとされ、普通配達は1~2斗で多い時は1俵〔4斗〕であった。)。

 イ 神輿と亥の子

 「阿沼美神社を境に遊ぶグループが分かれており、神輿(みこし)も違っていました。旧萱町6丁目には、子ども神輿が1台ありました。神輿は古町(こまち)駅前の金光尊院(こんこうそんいん)のお堂にありましたが、磨くときには道に出しました。現在は町名も町の範囲も変わりましたが、旧萱町6丁目町内会の人は親しみがあり、今でもつながりが深いです。萱町界隈(かいわい)は南北でなく、東西のブロックのつながりが強いようです。
 亥の子は男の子だけの行事で、季節の風物詩でした。11月の亥の日にやり、1番亥の子、2番亥の子など3~4回ありました。亥の子は上級生が5~6人でつきますが、石はけっこう重いし、みんなでタイミングを合わせることが大切で、一人下手なのがいるとうまく上がりません。全員のロープがピンと張り、タイミングよく石が頭の上まで上がり、勢いよく地面に落とすと大きく掘ることができ喜ばれます。どれだけ深く掘るかが腕の見せ所でした。祭りや亥の子でもらったお金は6年生がみんなに分けましたが、みんなが納得するように分けるには器量がいりました。中学生になると神輿や亥の子には参加しなくなりました。地域の年中行事は男の子が中心で、女の子はきれいな格好をして見ているだけでした。お祭りと正月に女の子はみんな着物を着ていました。
 道路が舗装されてから亥の子はできなくなりましたが、20年くらい前に一度亥の子を復活させたことがあります。そのときは、道路を傷めないように、畳(半畳)を敷いてつきました。せっかく復活させたのですが、昔に比べ子どもに体力が無く、1軒1軒すべての家をまわるのがしんどいと子どもは嫌がりました。大声も出し慣れてないため最後は声が出なくなり、テープレコーダーを流してほしいとまで言いだしました。それでもやらせたら、来年からは参加しないと言うので、そこまでしてやる必要はないと、やめてしまいました。味酒(みさけ)町では4~5年続きましたが、萱町は2年でやめました。」
 萱町の亥の子唄は、次の通りである。
 『亥の子、亥の子、亥の子餅搗(つ)いて、祝わんものは、お恵比寿(いべす)さんと言う神(ひと)は、一に俵を踏んまえて、二ににっこり笑はーんよ、三で酒を造らーんよ、四つ世の中よいように、五ついつものごとくなり、六つ無病の息災に、七つ何事ないように、八つ屋敷を建て拡(ひろ)げ、九つ小倉(こくら)を建て並べ(米倉(こめぐら)建て並べ)、十でとんとで納めた、繁昌せい繁昌せい、もひとつおまけに…』