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えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(2)高市の子どもたち

 伊予(いよ)郡砥部(とべ)町高市(たかいち)は砥部町の南西端に位置し、喜多(きた)郡内子(うちこ)町に接している。山間高冷地で長らく農林業で支えられてきたが、過疎化が進んでいる。平成4年度からは高市小学校に山村留学制度を取り入れ、地域おこしの試みが行われている。
 高市の子どもたちの遊びやくらしについて、**さん(昭和10年生まれ)、**さん(昭和13年生まれ)、**さん(昭和13年生まれ)、**さん(昭和13年生まれ)、**さん(昭和24年生まれ)に話を聞いた。

 ア 手製の木馬・釣り竿

 「冬は木馬(きんま)や竹スキーでよく遊びました。木馬は五寸(約15cm)釘(くぎ)を打ち付けて、自分で作りました。両サイドに舵(かじ)とブレーキの働きをする引き手を付けて、右へ引けば、右へ曲がり、左へ引けば、左へ曲がるようにしました。本来は山から木や炭を降ろすときに使う道具です。中学生くらいになると、木馬に炭を5俵くらい積んで降ろしていました。そのとき勢い余って石にぶち当てると、木馬は割れて動かなくなるのです。すぐに自分で補修して直さなければならないのです。家に帰って板を探し、木馬の先に当てて角度を見て削り、ボルト錐で穴を開けて止め付けて直すのです。そういう作業をしていますから、自分用の小さい木馬を作るのは簡単です。お尻が乗る程度の60~70cmくらいのものを工夫して作り、雪の坂道や山の斜面を滑り下りて、遊んだものです。
 先日小学校で親子釣り大会をするということになりました。そこで、まず釣り竿(ざお)作りをしようということになりました。だれかに作ってもらった物や買った物は、粗末にするのです。自分で作った竿は大事にかげの方にしまっておいて、また翌年時期が来たら取り出して使うのです。班に分けて説明をして、『教え合い、協力し合って作ろうや。』と言って始めたのですが、すぐに手を切って、血を流す子がおりまして、びっくりしました。どうしてそんなことになったのかというと、カッターの刃先を自分の方へ向けて、竹を削っていたのです。これを聞いて、愕然(がくぜん)としました。刃物の取り扱いや火の始末などの生活上の必要なことは、小さいときから現場で見て、またさわって、自然と身に付けてきたものです。それなのに何時(いつ)の間にこんなことになったのかと、つくづく考えさせられました。私たちが小さいころは、弁当を持って山へ行くのが当たり前のことでした。それは山でお茶を沸かすことでもあるのです。そうすると火を使う。親が決まった場所で火を使わす。その後お茶を必ず残して、そのお茶で火を消して、さらに上に土を掛けて絶対に山火事が起こらないようにする。子どもでもそれが当たり前のことなのでした。」

 イ 自分の負い子で、かるい仕事

 「あのころは学校から帰ると、みんな家の仕事の手伝いをしていました。山でブドウの袋掛けをしたり、炭を1俵負い子で担いだり、稲刈りの手伝いや豚の世話などもしました。学校から帰ったら豚の糞(ふん)を畑に撒(ま)いて始末をし、手紙が置いてあって、『どこそこの山へイモ担ぎに来なさい。後から妹や弟を連れて畑へ来なさい。』などと書いてありました。どこの子もみんな似たりよったりで、そういう手伝いが当たり前でした。兄弟姉妹は大体3人くらいが普通でした。5人になると多いほうでした。遊び場はお堂やお宮で、あのころはみんなが走り回って、境内には草もまったく生えませんでした。今は一年に一回掃除しますが、草枯らしを掛けないと掃除になりません。
 牛の餌の草を刈ってあるのを、『学校へ行く前にかるうて(担いで)帰れ。』と言われました。焚き物も『何荷(なんか)分かるうて帰れ。』と言われて、途中までかるうて帰り、そこで二つに分けて、一荷分を二荷かるうたふりをしたこともありました。木かるいと草かるい、炭かるいが大方でしたが、冬は三椏(みつまた)かるいがありました。山の上の方まで行かねばならず、途中には大きなシイの木があって暗い所を通るので、一人っ子の私は『兄弟の居る人はええなー。』とつくづく思いました。炭もよくかるいましたが、1俵12㎏くらいで、中学生は2俵かるいました。一番小さい子が最初にかるうのは、5kgくらいです。負い子は大きいのから小さいのまでありましたが、みんな自分用のを作ってもらっていました。ムギ刈り、田植え、イネ刈りには2~3日の農繁休業がありました。それ以外にも、忙しいときには早引きして帰って、手伝うこともありました。『あそこの子は手伝いをよくするええ子じゃ。』とほめていました。勉強のことは一切いわれませんでした。
 学校ではイモ作りとホゼ(彼岸花の球根)掘り、ハズ(カラムシ)の皮剥(は)ぎをしました。ホゼはかます(わらむしろを二つに折り、左右、両端を縄で綴(つづ)った袋)に入れて出していました。ハズは生の内に皮を剥(は)いで竹にかけて干して、一貫目(3.75kg)いくらで学校に出していました。茎の繊維から織物を作るそうで、大きいものは高さ2mくらいになります。今はただの草で、山に食べるものがないので、イノシシが根を掘って食べています。また竹の皮を剥(は)いで出すこともしました。弁当の包みにしたり、草履(ぞうり)にしたりするのです。竹の皮の草履は良いもので、私たちは普段はわら草履でした。
 三椏(みつまた)は長いのをかるわされて、苦労しました。横幅があって何もかもに引っかかるので、横になって歩かないといけないし、本当にいやでした。子どもの肘(ひじ)に合うようなものではなかったのです。シュロの皮は子どもで剥げず、大人が小さい鎌(かま)で皮の下の方をギーと巻いて切り取り、葉っぱが出ているところをシャーと縦に切ってはずすのです。シュロの皮剥ぎ専門の人もおりました。乾かして持って行くと、目方で買ってくれました。和歌山(わかやま)へ送って、船を繋(つな)ぐロープにするのです。ナイロンなどはない時代で、水に強く、冬固まらないのでロープに最適だったのです。」

 ウ よく売れたカブトムシ

 「遊ぶのもあちこちよその家へ行かなくても、隣近所で世話なく遊ぶことができました。パッチン、釘(くぎ)打ち、ぶち独楽(ごま)など大体取り合いでした。パッチンは、女の子も足をかけて(風を起こすために足をそえる。)していました。独楽はカシの木を切って、自分で作っていました。円錐(えんすい)の部分をうまく削らないと回転がおかしくなるので、バランスの調整をしながら削りました。フジカズラの皮をはいで、ぶち紐(ひも)を作り棒切れの柄(え)を付けます。紐を独楽に巻き付けて、ビュンと投げ、様子を見ながら、ぶって回すのです。鉄の心棒の木の投げ独楽や、それより大形の鉄輪の独楽も出てきました。どちらも当ててけんかさせましたが、鉄輪の方はさまざまな独楽回しの芸を見せて、競い合ったものです。
 冬になると凧(たこ)を作るのが楽しみでした。張り替えた古い障子紙を使い、骨はマダケを割って、細く削り骨を作り、尻尾(しっぽ)をつけてバランスを取りました。冬は風も強く、電線も今ほどはなく、家の横から高く揚げて喜んだものです。
 男の子は突き鉄砲(植物の実や紙などを竹筒に詰め込んで打つ鉄砲)や水鉄砲などを自分で作って遊びました。サクラの木を削って刀を作り、盛んにチャンバラごっこをしていました。学校からの帰りは、竹の輪を回す競争をしながら帰りました。桶(おけ)屋さんが桶の輪をかけ替えに来るのを待っていて、古い輪をもらって使ったのです。モウソウチクの枝のYの字の形をしたところを、輪の少し下目に当てるとうまく回りました。後になると自転車のリムを使うようになり、これはよく回りました。
 あのころは川に魚やエビが一杯おりました。昼休みになったら、お父さんやお母さんが昼寝している間に、ジョウレンとバケツを持って、どんどんと下の川へ降りて行って、エビをすくいました。エビはジョウレン(手箕(てみ))にいっぱいすくえました。とぎ(つれづれの癒(い)やしとなる相手)に猫を飼っていましたので、エビをゆでて猫の餌(えさ)にしたのです。ハヤやドンコ、ツガニ(モクズガニ)などいっぱいおりました。ウナギもおりましたが、子どもには捕まえるのが難しかったようです。ハヤは瓶(びん)を浸けてよくとりました。またツガニのおるところは、よく見ると中から砂をかき出しているのです。なかなか出て来ないので、その前へ赤カニをヨモギで縛って吊(つ)り下げて揺らしてやるのです。そうすると誘われて、カニがすすっと出てきます。かなりこっちまで出たところを、ぴたっと上から押さえるのです。押さえたら挟まれようがどうしようが、離したらいけません。これがカニとりのこつです。塩ゆでにして、家の者みんなでたべました。夜川(よかわ)もよく行きました。昔は肥(こえ)マツ(松やにの多く出る松)を割って縛って燃やしましたが、そのうちアセチレンや懐中電灯を使うようになりました。山椒(さんしょう)の木の皮を剥いで削って川に流すと魚が浮いて、それを拾いに行ったこともあります。
 オニムシ(クワガタムシ)やカブトムシ、カナブンなどもよく捕りました。オニムシ、カブトムシなどは買いに来る人がいたので、取引所へ売りに行きました。40年代には子どもたちのよい小遣い稼ぎになっていました。あのころは山に虫はいっぱいおりました。Yさんところの近くのクヌギの木が5~6本あるところでは、木をゆするとパラッ、パラッとカブトムシがかたまりになって落ちて来ました。必ずそこへ行ったらとれるのですから、やりやすいことではありました。クヌギの木に金槌(かなづち)でぼんぼん傷を付けるとやにを出します。その匂いでカブトムシが寄って来るのです。なんでこんなムシが売れるのかと不思議でした。今の山はスギばかりになって、虫もいなくなりました。広葉樹がないので、幼虫が育たないのです。」

 エ ドンパンの思い出

 「おやつといえば、家では鉄のはさむ道具で煎餅(せんべい)や饅頭(まんじゅう)を焼いてもらって食べました。サツマイモを持って行って、焼き賃を払って、イモ煎餅を焼いてもらうこともありました。ドンパン(パットライス)もよく来ていました。お米やトウキビを炒(い)ってもらうのです。来るとみんなが集まります。『坊ら、たき物拾うてこい。』と言われて、拾ってきました。一発ドンと鳴って、籠(かご)の中へ入ったものは注文した子のものですが、パラパラと籠のへりに散ったものは、みんなが拾って食べてよかったのです。
 豆煎(い)りはどこの家でも作っていました。パットライスでお米などを炒(い)ってもらって、お節句のころ作っていました。自分の家では、お祖母(ばあ)さんが日当たりのいい所に、お米を干して蒸して煎(い)って、緑や赤に染めて、甘い豆煎りを作ってくれました。
 買ったお菓子などはめったになく、焼きトウキビとかサツマイモを焼いたり蒸したりしていました。野山には季節ごとに、アケビ、ヤマブドウ、ザクロ、イチゴなど豊富でした。一番おいしいのがナベイチゴ、そのほかサガリイチゴ、クマイチゴ、フユイチゴ、キイチゴ、タウエイチゴ、クワイチゴなどがありました。クワイチゴは2種類あって、大きい木に生(な)る黒いのはよいのですが、赤いのはひげが生えていて食べられませんでした。ヘビイチゴも食べることは出来ません。イタンポ、スイジン、ヤマナスビ、オシゴロモモ、スイカズラの花の蜜などなんでも食べました。
 毎年5月ころに『エベル(カタクリ)掘って来い。』と言われて、掘って来ました。きれいに洗って、干して、杵(きね)で突いて、水で濾(こ)して上水(うわみず)捨てて、下にたまったでんぷんを乾燥させたのがカタクリ粉です。高級品で普段はどこか座敷の奥の方へしまいこんでいて、風邪引きや、身体の具合が悪いときに、練って食べさせてくれました。甘くておいしかったのを今も思い出します。花はきれいで良い香りがしますが、それは雄で、掘るのは雌のほうです(地中の根茎の脇に鱗茎が立ち、鱗茎から花茎が伸びる。)。今はイノシシが丁寧に食べるので、人間には回りません。」

 オ 今も続いている舎儀利

 「舎儀利(しゃぎり)というお練り(祭礼などに練り歩く行列)は、明治の始めころから行われていたと聞いています。中山(なかやま)や内子、小田(おだ)にもあるそうです。子どもが演じる秋のお祭りのときの出し物です。大下(おおしも)という地区の長男7人の役割となっていました。昭和50年代ころから子どもが減って、しばらく途絶え、平成4年(1992年)に復活されました。人数は提婆(だいば)1、締太鼓1、小太鼓2、鉦(かね)すり2、手拍子1の7人で提婆が青年で他の6人は男の子です。子ども6人は花笠を被(かぶ)り、袴(はかま)、足袋(たび)、下駄にたすき掛けの装束です。提婆の先導で神輿(みこし)の道祓(みちはら)い、悪魔祓いとして先行し、7人の後ろを青年連中が横笛を吹いて続きます。
 舎儀利の練習は9月に入ると始まりますが、運動会の練習も同時に始まるので、眠たくてたまりません。青年団が配ってくれるお菓子につられて、長い期間練習していました。6人の背格好を見渡して、配役が決められました。順次役が変わり6年間舎儀利に参加した子もおりました。
 他に子どもが参加するものに亥の子もありますが、これは各地区によっていろいろで、今は女の子も参加するようになっています。昔は女の子といえば、巫女(みこ)くらいのもので、祭りにしろ行事にしろすべて男の子が役割を持ち、積極的に参加していました。それが時代の変化で、女の子もいろいろな場面に活発に登場してくるようになりました。」

 カ 三八豪雪

 「乗り物では、最初Kさんの自転車オートバイが子どもらに強烈な印象を与えていました。自転車に小さいエンジンを付けて押し掛けし(押して走りエンジンを始動させる。)、力がなくなるとこいで走っていました。あまり速く走らないのですが、音だけはよく走っていました。
 耕運機が入って来たのが、昭和37年(1962年)ころでした。それまではずっと牛を使っていたのです。子どもは牛の鼻やりが仕事ですが、私は下手でうまく牛を動かせないので、お祖父さんに叱られて、『馬鍬(まんが)持っとれ。』と言われ、つらい思いをしました。まず鋤(すき)で田をすいて、次に馬鍬で土を砕いて行くのです。よく仕事をする牛は五体が太く堂々としていました。ときには角をもって来たり、大きな眼でにらむので、女や子どもは近寄れませんでした。
 冬、朝は雨降りで帰るころには雪になって、下駄(げた)のはまに雪が団子になって、上り道をはって帰ったこともあります。雪の日は草履(ぞうり)に紐(ひも)を付けてもらって、縛り付けて歩きましたが、草履と足袋(たび)の間に雪が入って、足袋がぬれてしまいます。学校へ行くと長い火鉢があって、先生がぬれた足袋を干してくれ、自分たちは替えの足袋に履(は)き替えました。腕白の男の子が大分いて、女の子はなかなか火に当たれませんでした。後ではストーブになり、割り当てがあって、薪(たきぎ)をいくら持って来るようにということで、当番で持って来ました。
 冬はウサギをとってよく食べていました。鍋料理で骨も砕いて入れて、大事な冬のたんぱく源でした。ウサギ道に地面から5cmくらいの所に、針金の輪を仕掛けてとったり、兄さんたちは鉄砲担いで撃ちに行きました。昭和38年(1963年)の大雪(『昭和38年1月豪雪』と総称されている。)のときは、竹で編んだかんじきをはいて、毎日毎日ウサギ狩りでした。お餅を焼いて弁当持って朝から晩まで出かけていました。山間(やまあい)に土地の開けた場所があって、そこにウサギが寄っていたそうです。大雪でウサギも居るところを失い、雪の少ないところに出てくるしかなかったようです。
 あのときの雪は正月前から降り出して、4月10日ころまで毎日のように続いたのです。屋根の雪下ろしも大変でした。大きい土蔵がつぶれていました。学校も休校になりました。子どもは炭俵の蓋(ふた)でカンジキを作って歩きました。斜面を竹スキーや木馬で滑って遊びました。道路はみんなが出て歩けるように雪を掘り、所々に溝を作りました。
 女の子は雪が降るとケンド(ふるい)伏せで鳥をとりました。男の子は親について、山でハナチ(わな)を仕掛けて、カキの熟れたものを刺しておきました。鳥がつつくとバシッとはじいて首を絞めるのです。学校から帰ると、山をぐるっと見て回らないといけないので、これも大仕事でした。うっかりすると、かかった鳥をモズなどが食べることもあり、餌(えさ)も付け替えないといけないし、夕方になると、なにやら怖くなるので、急いで回ったものです。」