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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(2)地域社会の学び

 昭和10年代中ころまでは、習字やそろばんの学習、お茶やお華の習い事、謡曲や舞踊、演劇の練習、郷土芸能の継承、伝統工芸品の作成などさまざまなことが、神社境内の建物、寺院の本堂や仏堂、劇場、個人の家や蔵で行われていた。
 しかし、昭和21年(1946年)7月に文部省次官通牒(つうちょう)で「公民館設置要項」が発表されると、公民館を設置する市町村が増加していった。『現代公民館全書』によると、「昭和22年8月末現在で、設置町村数1,971、全町村に対する設置数19.76%、2年余を経過した昭和24年3月には公民館を有する市町村数3,978、公民館総数5,873館に達した。(⑥)」とある。
 愛媛県においても、『愛媛県史 教育』によると、松山市が昭和24年9月公民館設置条例を制定し、同25年1月に市公民館連絡協議会を発足させ、公民館設置を呼びかけていった。その結果松山市に32館が設置された。これが県下の公民館増設に拍車をかけるものとなったのである。昭和25年度の県下の設置数は、本館154、分館255、計409館となり、設置率は54%になっている(⑦)。
 現在では、公民館や集会所がいろいろな活動の場として親しまれている。

 ア おえんで学ぶ

 喜多(きた)郡内子(うちこ)町五十崎(いかざき)地区は肱川(ひじかわ)の支流・小田川(おだがわ)流域にあり、農業を中心に発展してきた。伝統産業である手漉(す)き和紙は有名である。また毎年5月5日には、300年以上の伝統を誇る大凧(おおだこ)合戦が小田川の豊秋(とよあき)川原を舞台に行われ、多くの見物客を魅了している。この行事は県の無形民俗文化財に指定されている。
 喜多郡内子町五十崎の**さん(昭和5年生まれ)にお茶・お華・琴・謡曲の習い事、大凧合戦用の凧作り、将棋の習得などの学びの場や空間について聞いた。
 「太平洋戦争後に公民館や集会所などができるまでは、お茶・お華・琴・三味線・謡曲などの習い事は、先生の自宅や大きい家の部屋を使用したり、お寺の本堂や小部屋などで行っていました。
 私の家は下駄屋でしたので、通りに面した6畳2間の板間にはノコやカンナ、ノミなどの道具をたくさん置いていました。折りたたみ式のおえん(ばったり床几(しょうぎ)のこと。横に長く、数人腰掛けられるように作った簡単な腰掛台。写真3-27参照)は2間(約3.6m)以上あり、仕事場の横に置くと広い掃きだしの板間ができました。ここには毎日近所の人が20人くらいは集まってきていました。父は将棋が好きで、仕事の合間に将棋盤や駒(こま)まで作っていたので、年寄りがそれを使って子どもに駒の動かし方を教えたり、若い者も将棋を指して楽しみながら、次第に腕を上げていたようです。また凧(たこ)作りの趣味もあり、しょっちゅう仕事場やおえんで作っていたので、私や他の人もそれを見て作り方を覚えました。
 凧作りは小さいものは個人の家でも作れますが、畳何十畳もある大きいものは広い倉庫や車庫などを使用しなければできないので、近所の倉庫をよく使わせてもらいました。五十崎の凧は四角凧(横1:縦1.2の割合で作る)で、形が良いうえに軽くて無駄がないため、よく揚がることで知られています。
 雨が降ると、おえんや板間は朝から夕方まで男女や年齢層を問わず大勢の人が集まってくるため、幼いころの私も多くの話を聞いて非常に物知りになりました。
 また私は木工が好きで、飛行機やグライダーなどの模型をたくさん作っていました。昭和25年ころには、五十崎の宗光寺(そうこうじ)の和尚さんや近所の人、子どもなどに木工細工を教えながら、おえんでよく作りました。このおえんは夜になると折りたたんで片付けました。仕事場の雨戸は引き戸ではなく蔀戸(しとみど)(*7)で、杉板で出来ていて軽くて便利でした。昼間は上に上げて鉤(かぎ)でとめておき、夕方になると下ろして戸締りをしていました。
 平成3年(1991年)、五十崎に立派な五十崎凧博物館が開館しました。かつては倉庫や車庫などを利用していた凧作りですが、現在はこの博物館の研修創作室で作っています。研修創作室は6間(約10.8m)四方の部屋で、30畳ほどの凧を作ることができます。また、小学生を対象にした凧づくり教室では、われわれ仲間が分担してここで指導に当たっています。」

 イ 学びの場いろいろ

 松山市中央一丁目の**さん(昭和17年生まれ)に習い事や学びの場所、そこでの様子などについて聞いた。
 「私は喜多郡五十崎町(現喜多郡内子町五十崎)でセメント瓦(がわら)やブロックを製造していた家に生まれました。しかし、父が昭和25年(1950年)に死去し、その後は叔父と叔母が引き継いで続けました。昭和40年代ころまでは、ブロックを使用した建築が流行していて、門柱や塀ばかりでなく、2階建てなどの建物にも使われていたのです。瓦やブロックに使用する砂や砂利は小田川で採取していましたが、当時は雨が降ると多量の土砂が流されてきて川底が浅くなってしまうため、取り除くと地域の人から喜ばれていました。
 小学校の4~6年生(昭和28~30年)の3年間、近所の宗光寺で習字を習いました。学年ごとに曜日を変えて本堂やその横の20畳ほどの畳の間で指導してもらいましたが、同学年で10人くらい習いに来ていたと思います。中学生になったころだったか、駒澤大学演劇部の10人ほどの学生が夏休みを利用して合宿を行うため、宗光寺を訪れていました。本堂の畳の間で公演していたので、大勢の小・中学生が見に行きました。私も3年間この大学生の演劇を見せてもらい、非常に楽しかったのを覚えています。このお寺では謡曲の練習や座禅なども行われていたようです。
 中学生の3年間はそろばん塾に通いました。地域にある集会所で行われていたのですが、この集会所は昔田舎にあった消防の手押しポンプ小屋のような古くて小さな建物でした。当時はそろばん塾が大流行で、塾は五十崎町内に3か所ありました。週に2回行っていましたが、初級・中級・上級のそれぞれの級で20~30人は習っていたと思います。2、3年生のときには英語塾にも行きましたが、五十崎町にある先生の自宅の2階の部屋で習いました。この塾には内子町からも来ていました。
 私の家は2階が広く、8畳二間ほどを使用して和裁教室を開いていました。叔母が指導をし、近所の若い娘さんたちが習いに来ていたようです。また凧合戦用の凧は近所の名人に作ってもらったので、自分はほとんど作らなかったのですが、2階の部屋でいろいろ考えながらよく改良をしました。
 五十崎町には五十崎座や天神館などの劇場があり、一時は歌舞伎や人形芝居、浪花節などが盛大に上演されたそうです。私が子どものころには映画館に変わり、いろいろな映画を上映していました。これらの劇場は選挙演説会や各種会合、青年団による演芸などにも使用されたようです。」
 五十崎町には、昭和37年(1962年)に鉄骨造り2階建ての五十崎中央公民館が完成した。ここでは幼児教育、厄年講座、女性教室、和紙工芸教室などの学級講座が展開され、図書室での読書活動、文化祭時には作品の展示や学級講座の成果展、婦人会バザーなども行われた。また結婚簡素化運動により、公民館方式の結婚式が広く浸透していったが、昭和50年代から減少した。
 また平成6年(1994年)には、鉄筋コンクリート造り地上4階建ての中央公民館(現五十崎自治センター)が新築された。瓦葺の和風建築で、移動椅子のあるホールや会議室、図書室、資料室、創作室などを備え、住民の学習要求に対応できるようになっている。


*7:蔀戸 柱の間に入れる建具の一つ。板の両面あるいは一面に格子を組み、長押から釣り、上にはねあげて開くようにし
  たもの。

写真3-27 おえん(ばったり床几)

写真3-27 おえん(ばったり床几)

喜多郡内子町。平成18年1月撮影