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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(3)商店街の老舗(しにせ)呉服屋として

 宇和島(うわじま)市の中心商店街である袋町(ふくろまち)で呉服店を営む**さん(大正10年生まれ)、**さん(昭和25年生まれ)親子に話を聞いた。**呉服店が宇和島で開業したのは大正13、4年ころのことで、**さんで3代目となる。

 ア 宇和島市袋町商店街の今昔

 宇和島市は伊達(だて)10万石の城下町として繁栄したが、藩政時代から明治にかけて商業の中心は、城の東に位置する本町(ほんまち)から裡町(うらまち)にかけての地域であった。大正期になると追手通(おうてどおり)から袋町、恵美須(えびす)町、船大工(ふなだいく)町へと連続した商店街が形成されていくが、昭和初期までの中心は追手通であった。袋町は内港に面しており、鮮魚の水揚げ地として明治期には魚市場が立地し、鮮魚店やかまぼこ店が多くみられた。大正5年(1916年)に魚市場が丸之内の内港に移ってからは、呉服店や雑貨、小間物屋の町となり、昭和初期には「南予の流行は袋町から始まる(③)」といわれる衣料品の町になった。戦後商業の中心は、追手通から袋町通、新橋(しんばし)通へと移動してゆく。
 現在の「きさいやロード」(アーケード街)は、戦前は裏通りで「浜通り」と呼ばれていた。表通りはその東の通りで「本通り」と呼ばれ、ここが中心商店街であった。「浜通り」は戦後になって広げられ、徐々にメインストリートになっていった。アーケードは昭和30年ころは軒下だけのもので、中央は車道になっていたが、昭和39年(1964年)全蓋(ぜんがい)式となる。昭和30年代の袋町商店街は、浜通りも本通りもにぎやかで人通りが多かった。

 イ 二度の住まい(店舗)の移転

 **さんの夫が生まれた大正3年(1914年)当時、両親は高知県宿毛(すくも)市で商売をしていたというが、その後宇和島に出てきて**呉服店を開業した。この店が戦災にあったこともあり、今までに住まいを二度移転している。**さんに最初の住まいについて聞いた。
 「戦前の住まいは、現在の一丁目本通りにありました。当時の袋町本通りは衣料品関係の店が多く、裏の浜通りには魚屋が多くありました。『上(かみ)の店』(戦前の店を現在はこう呼ぶ。商店街は緩やかに傾斜しており、少し高くなっている南東方面を上(かみ)という)は、かなり大きなつくりの店で、間口が8~9間くらいはありました。店に入ったところは吹抜けになっており、2階が見えていました。1階はほとんど店で、2階の部分に家人の住まいと住み込みの女性従業員、丁稚(でっち)さんなどの部屋がありました。店の裏は浜通りに面しており、大きな観音開きの門がありました。上の店には10畳間二間と8畳間があり、大きな蔵があったことを覚えています。私の結婚式はそこの2階でやりました。店では女性従業員を二人、丁稚その他男の人は3、4人雇っていました。ほかに吉田(よしだ)や津島(つしま)、御荘(みしょう)など交通の不便な地域に行く出売りの行商人も何人かおりました。昭和初期までの行商は、天秤棒(てんびんぼう)で前後に葛篭(つづら)を担いで売りに行っていました。上の店では井戸を使用していましたが、年に一度『井戸がえ』といって井戸掃除をしました。『井戸がえ』は丸穂(まるお)(宇和島市丸穂地区)の男の人がしてくれましたが、丸穂は宇和島近郊の農村地帯で、出向いて力仕事をする若い人がたくさんおりました。
 この店は戦争で全部焼けてしまいました。戦時中は市内柿原(かきはら)と、広見(ひろみ)町近永(ちかなが)(現鬼北町近永)に疎開していましたが、店が焼けてしまったため、戦後別の場所に住まいを建てて住むことになりました。」
 戦後の住まいについて、**さんと**さんは次のように話す。
 「2番目の住まいは、浜通りにありました。当時は城下町の空濠(からぼり)がまだ残っており、濠(ほり)の半分を瓦礫(がれき)で埋め立て、平屋を建てました。店の後ろの部分は一段低い空濠に地下室を設けた住まいでした。当時このような空濠が残っていたのは、このへんではうちと隣の**呉服店さんくらいでした。通りに面して店があり、その奥に住まいがあり、台所や風呂場は階段をおりた濠の部分(地下室)にありました。地下室を出た所には石垣が残っており、濠の底の空き地は物干し場や畑にしていました。台所や風呂(ふろ)場が地下にあり、水道管が周囲より低かったため、水不足で水圧を下げられても、水はよく出ました。この家には、昭和30年代中ごろまで住んでいました。」
 また、現在の住まいについて次のように話す。
 「現在の店は昭和20年代に建てました。最初はバラックのようなもので、そこから許可が下りるたびに建て替え、建て増しをして今日のようになりました。当時は市から広さを規制されていましたので、一度に広い家を建てられませんでした。間口は現在と同じで4間半(約8.2m)くらいでした。戦前は『上の店』で家族全員が一緒に呉服店をしていましたが、戦後本業の呉服店は、地下室のある店にいた若い**さん夫婦(2代目)に任せ、初代夫婦は現在地で紳士服や帽子、傘などの洋品雑貨店を始めました。歩いて1分ほどの近距離ですが、別々に暮らすことになりました。昭和30年代の中ごろ初代が御殿町に隠居屋を建てて移ってからは、私たち親子が現在地に住むことになりました。」

 ウ 呉服屋の仕事

 呉服屋の仕事について**さんに聞いた。
 「私が嫁いできたのは昭和15年(1940年)で、『上の店』の時代でした。もともと私の実家も商売をやっていましたので、全く違う世界に嫁いできたという感じはしませんでした。店の人はたくさんおり、一緒に商品の整理や片付けをしているなかで、商品の名前とか売り方などの仕事を覚えました。今は反物で売っていますが、昔は切り売り、尺売りといって、子どもや大人の着物用に必要な量だけ切って売っていました。ですから客の体つきを見て、どのくらいの長さが必要か分からないといけないし、半纏(はんてん)とか羽織だったらどのくらい必要か判断しないといけません。その辺の感覚を身につけ、一人前になるには4、5年かかりました。呉服屋の仕事は、店で売るのは女の仕事で、男は事務や仕入れの仕事をやっています。戦後呉服屋を始めるにあたり、一時期鑑札(許可証)が必要になったことがありました。戦時中は着物がぜいたく品となり、一時期呉服屋をやめざるをえなくなりましたが、昭和23年ころになってやっと再開できることになりました。再開するにあたり、地域で呉服屋の軒数が限られており、地域住民の選挙で得票数の多いところだけが再開できることになりました。そのため、家人みんなで票を入れてくれるよう方々にお願いに回りました。また当時は新円の切り替え時期にあたり、一度にたくさん銀行からお金をおろすことができませんでした。そのため気の合った呉服屋6~7軒が組合を作って資金を持ち寄り、代表が京都に仕入れに行っていました。
 店で扱っている商品は戦後から今まで余り変わっていません。生地は絹とか木綿とか麻が昔は多く、だんだんナイロン、テトロンなどの化学繊維も扱うようになりました。昔は木綿の絣(かすり)の織ったものや銘仙(めいせん)(先染めの平織りの絹織物)が多く出ました。一般的な人が普段やちょっとしたお稽古事(けいこごと)に着るものは銘仙が多かったです。銘仙は絹ですが割安で、みんなよく作りました。当時は普段に着物をよく着ていましたが、今は洋服の時代で、結婚式や葬式でも着物を着る人が少なくなりました。呉服屋が少なくなったのもその辺に原因があります。戦後で一番景気が良かったのは昭和25年ころで、復興が進んで商品もいろいろなものができ、たいがいのものがそろっていました。

 エ 屋敷取り・間取り

 昭和40年(1965年)ころの住まい(図表2-2-8参照)について、**さんと**さんに聞いた。
 「当時は台所が二つありました。店に近い台所には、焚(た)き口が二つのかまどと人造石研ぎ出しの流し、4人がけのテーブルがありました。台所の2階は女性従業員の部屋でした。中庭を挟んで奥に家人の住まいがあり、ここの台所ではガスを使っていました。食事は女性従業員さんがかまどのある台所で作って、奥の部屋に持ってきていました。当時は家と店の者を合わせると大勢だったので、一度にたくさん炊(た)けるかまどでご飯を炊いていました。中庭に沿って便所があり、店から靴をはいたまま入れる大小兼用トイレもありました。風呂は檜(ひのき)作りで、焚(た)き口が銅製の循環式でした。店の2階は商品倉庫で、床は板張りで天井はなく、梁(はり)がそのまま見えていましたが、後に冠婚葬祭や何かのときのために、天井をつけ、4部屋に改装しました。襖(ふすま)で部屋を仕切ったため、広く使うことができ便利です。夫(2代目)が亡くなったとき、通夜は改装した2階でやりました。当時は裏に抜ける通りニワがありましたが、今はありません。店で着物を展示する場所の上には、すりガラスの天窓があり、カーテンで光の量を調節していました。天窓があったおかげで店は明るかったです。また中庭があるため、屋敷内が明るく、風もよく通ります。うちのように店の奥に中庭があり、その後ろに住まいがある家は、商店街には少なくなりました。裏の道路まで抜けている家でないとそういった屋敷取りはできません。
 亡くなった父(初代)が檀家総代をしていましたので、立派な仏壇はありましたが、神棚はありませんでした。ただ炊事場のかまどの上には台所の神様を祀(まつ)っていました。子どもは男女合わせて5人おり、男の子の部屋は改装した店の2階、女の子の部屋は奥の住まいの2階にありました。昭和40年ころに住み込みの女性従業員がいなくなったので、この部屋はその後物置に改装しました。かまどのあった炊事場も20年あまり前になくなりました。」

 オ 住まいの1日・1年

 (ア)住まいの1日

 「女性従業員さんは朝早く起きて食事の準備をしていました。15、6歳から20歳前後の若い子が多く、花嫁修業のような形で奉公していました。当時の朝食はご飯と味噌汁、お漬物とイリコ、カツオ節くらいの質素なもので、味噌(みそ)や沢庵(たくあん)などの漬物は家で作っていました。店の営業時間は、だいたい朝8時から夜7時まででしたが、店を閉めてからも私は夜なべ仕事で家族の服のつぎはぎや古い着物の仕立て替えなど繕い仕事をやっていましたので、くつろぐ時間はありませんでした。うちは商売人なので子どもはほったらかしで、小さいときは子守りさんを雇い世話を任せていました。
 家の生ゴミは、戦後間もないころは丸之内劇場の前の海に捨てていました(内港が埋め立てられたのは昭和24年)が、昭和30年代になると養豚業者がリヤカーを引いて取りにきました。し尿の汲(く)み取りは九島(くしま)の人が船で来ていました。汲み取ったものは肥桶(こえおけ)に入れて帰りましたが、地下室のある家に住んでいた時分は、便所のし尿も階段を下りた濠の底に溜(た)めていたので、運ぶのが大変だったと思います。それでも来るときには、野菜やスイカなど旬のものを持ってきてくれました。焚(た)き物を売りに来たのは、丸穂の人か来村(くのむら)(宇和島市内南部近郊の地域)の人で、薪(まき)を割って倉庫に入れるまでやってくれました。暖房器具は火鉢や掘りごたつを使っており、燃料は炭のほか豆炭や練炭を使っていました。炭は炭屋さんから購入していましたが、ナラとかカシとか材質により値段が違いました。
 洗濯機と冷蔵庫、掃除機は、出始めたころ近所で一番に購入しました。ちょうど地下室のある家に住んでいたときで、炊事場や洗濯場が地下室にあったものだから、重たい洗濯機と冷蔵庫を搬入するのは大変でした。家の横に地下へ通じる階段があり、ここを男の店員3人と夫の4人がかりで担いで降ろしました。冷蔵庫は、昭和20年代末に南予無線という電気屋さんが宇和島で初めて3台仕入れた中の1台を購入しました。ミキサーもいち早く購入し、アイスクリームとソフトクリームは家で作りました。掃除機はナショナルの重たいものでしたが、当時珍しかったので、店で掃除機を使っていると、ガラス越しに道行く人が中を覗(のぞ)き込んでいました。しかしテレビだけは、なぜか夫が意地になって買いませんでした。なかなか買ってくれないので、子どもたちは晩ご飯が終わると近所にドラマやプロレスを見にいきました。テレビは東京オリンピックのときにやっと購入しました。」

 (イ)住まいでの1年

 「正月には門松や注連縄(しめなわ)を飾りつけていました。餅つきは旧正月が主で、新正月はお飾りと食べるのを少々しかつきませんでした。餅(もち)つきは、丸穂の方から『だいどづき』といって、出張で餅をつきにきてくれる人がいました。道具一式持ってくるので、もち米だけ用意したらついてくれました。『だいどづき』が各家をまわったのは戦前のことだったと思います。うちは例年、家族と店の若い衆が協力してつきました。餅は、ヨモギやイモも入れたりしましたが、普通の餅を多く作りました。だいたい2斗ぐらいはついたように思います。餅は水餅や『壺餅(つぼもち)』で保存しました。『壺餅』とは、壺の中に餅を入れ、その上に米を重ね、さらに密閉したもので、日持ちがしました。取り出すときは米をかき分けて、竹べらのようなものでつついて1個ずつ取り出しましたが、水餅よりもおいしかったです。
 3月の節句には、お雛(ひな)様を飾り、餅をつき、ご馳走(ちそう)を作ってお重に入れて食べました。この日は1日店を休みにし、従業員にも弁当を持たせ、思い思いの所に遊びに行かせました。5月の端午(たんご)の節句には鯉(こい)のぼりをあげ、餅をつき、ご馳走(ちそう)を作りましたが、どこかに遊びに行くことはしませんでした。」

図表2-2-8 昭和40年ころの屋敷取り図

図表2-2-8 昭和40年ころの屋敷取り図

**さんからの聞き取りにより作成。