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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

第2節 まちのくらし

 「まち」は、主に商業や工業を生業とする人々が集住して形成されたものであり、そこにみられる住まいは町家(まちや)といわれ、職住が一体となったものであった。江戸期ごろ職住が一体となった町家は、生業を営む「ミセ」の部分と、家族の生活の場である「オク」の部分から成り立っていたが、自分の住居を持つことのできない人々が住む職住が分離した借家(長屋等)も多くみられた。明治期以降になると職住の分離は、さらに進み、「ミセ」の部分のない専用住居としての町家が増加する(①)。特に都市部では狭い空間を有効に活用するため、長屋やアパートなどの集合住宅が建設され、まちの住まいの特徴の一つになった。本節では、昭和の初めから高度経済成長期にかけて、県内各地の「まち」の住まいで生活してきた人々から、生業と住まいとのかかわりや当時の生活について聞き取り、町の人々の住まいへの思いやくらしについて探った。
 「1 仕事場のある住まい」では、四国中央(しこくちゅうおう)市の手漉(てす)き和紙工場、松山(まつやま)市道後(どうご)の土産物店、宇和島(うわじま)市の呉服店を取り上げ、職住一体の住まいとくらしについて探った。
 「2 勤め人と学生の住まい」では、職住が分離しているサラリーマンの住まいの例として、松山市の県営住宅、市営住宅、新居浜(にいはま)市の社宅を取り上げ、その住まいとくらしについて探った。また、松山市の学生街にある下宿屋を取り上げ、昔と今の下宿事情とくらしの変化について探った。


図表2-2-1 「まちのくらし」で取り上げた調査地と調査内容

図表2-2-1 「まちのくらし」で取り上げた調査地と調査内容