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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(2)「ゲ」のある家-**家-①

 西条(さいじょう)市上市(かみいち)地区は、旧東予(とうよ)市である。高縄(たかなわ)半島東部のつけ根あたりの集落で、周桑(しゅうそう)平野の西部、大明神川(だいみょうじんがわ)の右岸に位置する。標高は約50m、南に石鎚(いしづち)の峰を遠望する。**さん(昭和3年生まれ)、**さん(昭和7年生まれ)夫妻に聞いた。

 ア 生業

 **家は稲作と養蚕を営んだ農家で、特に養蚕について聞いた。**さんは、「蚕は、年間多いときで4回飼います。5月の春蚕(はるこ)はん、8月の秋蚕(あきこ)はん、9月の晩秋(ばんしゅう)はん、10月の晩々秋(ばんばんしゅう)はんです。これは、餌(え)にやるクワの葉との関係です。春蚕はんが済んだらクワを伐ります。その後芽をふいたクワで後の3回の蚕を飼います。何故か、再度芽をふいたクワは枝の下の方の葉が枯れるんです。それがもったいないからとそのクワの葉が枯れないうちに取って育てるのが秋蚕はんで、そう多くは飼いません。次に飼うのが晩秋はんで、それでクワが余れば晩々秋はんになったんです。晩々秋はんの10月はお祭りの月ですからいつもは飼いませんでした。養蚕は稲の取り入れとはぶつからなくても、麦の取り入れがぶつかる可能性のある春蚕はんのときが大変でした。それに納屋も昔の納屋は小さくて、蚕が上がり蚕(こ)さん(繭を作る準備のできた成熟した蚕)になると倍くらいの場所をとるのに部屋がないものですから座敷を使います。するとその間、お客さんを呼ぶこともできないしどうしても座敷に傷がつきます。それで昭和22年(1947年)に納屋を新築したんです。
 蚕はある程度の温度を必要とします。高すぎるといけませんが、一定の温度をかけてやった方が早く上がるんです。春蚕はんは、麦の収穫が待っていますから急ぎます。稚蚕(ちさん)に加熱するときは、炉を使っていました。床の下に1間(約1.8m)ほどの炉を切って、マツの生乾きの薪をいれ、その上にスクモ(籾殻)をいれて火を点けるとけぶりもせずにじわじわ火になっていくんです。これを埋薪法(まいしんほう)といいました。それから後の暖房は、1斗缶(いっとかん)の上を切って火鉢のようにして使っていました。
 餌やりは忙しかったですよ。1日に4回くらいやっていました。その合間に糞(ふん)の始末はしないといけないし、クワとりに行かんといけません。クワの葉はとって帰る間に熱を持ちはじめます。蒸れるんでしょうね。それで帰ると大急ぎで如雨露(じょうろ)で水を掛け、クワの葉が寝ないように横でも縦でも立つようにしてクワの貯蔵庫に入れていました。そうすると熱を持たないんです。葉面が伏せる状態になるとだめなんです。近くの人は地下に桑室を掘って、クワを入れた後如雨露で水をうっていました。食べさせるときにクワが少々湿っていても大丈夫です。
 やがて蚕の体が透き通って餌(えさ)を食べなくなります。そうなった蚕から拾っていって、もろぶたという道具にとり、まぶしの下に差し込むとそれぞれがまぶしの中に上がって巣を作るのです。このとき、蚕の量が多すぎると、2匹が一つの繭を作るんです。1匹一つの繭にするために、上がるときには広い場所がいるんです。養蚕は昭和40年(1965年)ころまでやっていました。止めた理由は、ミカンが大流行してミカン園が増え、その消毒がクワの葉に掛かるからです。殺虫剤が掛かったクワは食べさせられませんから。それに、蚕は敏感なのか、クワの近くにたばこが植えてあっても、そのクワで蚕が酔うといっていました。」と話す。

 イ 屋敷構え

 **家は平野部の家らしくほぼ正方形に近い屋敷構えで、図表2-1-19のように広いヒノリワに面して家が建っている。特徴的な構えは納屋の両面、および母屋の前面にゲ(深い軒)を持ち、稲作農家の典型的景観となっていることである。なお、納屋は昭和22年(1947年)に建て替えられたもので、クワの貯蔵庫とクワの木をいれる薪小屋は昭和30年(1955年)過ぎに建てられたものである。
 **さんは、「この辺りでは、まず東か南向きの家でないと栄えないといいます。たとえ道が北側にあっても玄関は南に置いています。それ以外に家相などということはいいませんでした。
 電灯はついていましたけど、私の小さいころは電灯一つがいくらという時代で、どの部屋にも電灯がついているという時代ではなかったです。夕方、よそのウチを訪ねたらちょうど食事中で、そこで使っていた電灯をコードごと引っ張って玄関口へ出てこられたことがあります。食事の方は暗くなってしまったはずです。そんなに十分な電灯があったわけではありません。
 母屋以外では、納屋とゲ、ヒノリワ、クミジそしてクワの貯蔵庫がありますが、順を追って見ていきます。最初に納屋です。長さが8間(約14.6m)、北半分が2階建てで養蚕をしていた部分で、上下4室からなります。1階で糞(ふん)を替える作業とかクワをやる作業をして、2階は上がり蚕(こ)さん用になっています。この外にもこの養蚕室には麦の穂を入れたり、籾を入れたりしていました。籾すりのときには、例えば養蚕室①から籾を出して、雨の日はゲ、晴れたらヒノリワで籾すりをして、玄米になると養蚕室②に入れます。人の流れがスムースに行くでしょう。籾すり機が早いので、俵に入れる間はなくて、養蚕室②の中にむしろを敷いて広げていました。それの方が11月ころですから適当に乾くんです。籾も米も密閉しない方がおいしいので、俵の米も紙袋の米よりおいしかったですよ。籾の種類が違うときには、むしろを何枚か使って袋状にして、分類して入れていました。
 納屋の一方はわら仕事の仕事場と牛駄屋になっていました。わら仕事の仕事場には、筵機(むしろばた)と縄をなう機械があり、ゲの所にわら打ち石(写真2-1-16参照)があり、わらはかけやで打っていました。むしろはもちろんですが縄も大量にいります。むしろにも大量に細い縄がいりますが、俵もいります。それに俵を縛るのは大縄ですが、一番端の縄が外れやすいので俵を縦にも縛るようにしたため、縄の必要量も半端ではなかったです。
 牛駄屋では、労働用のウシを飼っていました。ウシの出入り口はトバリ(両側を柱穴に差し込んでとめる何段かの木柵(もくさく)。馬栓(ません)棒)で止めていました。飼っていたのは雌牛で、年に1回子どもを産ませて、それを売ると小遣い稼ぎになっていました。親牛は毎朝30分ほど散歩させていましたし、夏はゲまで出して涼ませたりしていました。そうすると、夜中にゲの下で子どもを生む親牛もいました。朝起きると子牛がヒノリワを駆け回ったりしていて。子牛ができるとトバリの下2本ほどと堆肥を除けて、そこから子牛が出入りできるようにして、ゲも含めて子牛の運動場を作ってやります。こうすると、子牛にやった餌を親牛が取ることもないでしょう。餌も山が近いので十分青草があったし、麦を炊いてやったり、醬油の実を水で薄めてやったりしていました。当時はウシの品評会もあり、私も父もウシが大好きで大事に育てていました。ウチにはウシがいましたが、この辺りには『寄り合いウシ』というのがありました。2軒以上の家が共同でウシを飼うのです。これをやると、ウシは回り番に使いますから、各家が無理をして使います。それでなくても何軒分かを耕すのですから、寄り合いウシの労働はきつくなります。だから、母牛は生まれた子牛の破水をなめながら『寄り合いウシになるなよ、大頭(おおと)(西条(さいじょう)市大頭)の車引きになるなよ。』と言うんだそうです。年寄りが話していました。そういうウシは仕事が済んだ夏は保井野(ほいの)(西条市保井野)にあげ、秋には帰ってきていました。預かり賃は割り勘で払っていたのだと思います。ウチのウシはあげたことはありません。牛駄屋は中2階になっていて、2階にわらを置いていました。
 次にゲです。納屋前面のゲを例にとると、納屋の西、1間(約1.8m)前にゲ柱をたて、軒はさらに2尺(約60cm)ほど前面にのびており、雨が降っているときなど米の脱穀や籾すりをすることもありました。その他にも自転車を置いたりしてましたが、ゲが一番役に立つのは拾い込みで、雨が降ったときに干している麦や籾を急いで取り込む場合や、刈り取った麦を束ねて立てたまま置く場合でした。建築上から見ても、ゲは形もいいし、台風などの風よけにもなります。
 さらにヒノリワ(ソトともいう)は物を干す場所です。麦でも籾でも一面に干していました。それも1日では済みません。それに牛の干し草の再乾燥もしていました。これを怠ると干し草にカビがきて使えなくなっていました。そのために昔の農家のヒノリワは広かったんです。」と言う。**さんは、「夏になったら、布団をほどいてノリを付けて干していたのもヒノリワでした。」と話す。
 次にクミジについて、**さんは、「西側小川のところに、道路を水のところまでへこませたクミジというところがありました。昔ですから車も通らず、道がえぐられていても心配はありません。魚も芋も、さばいたニワトリも、朝起きて顔を洗っていたのもここの水でした。歯磨きは井戸の水を汲んできてゆすいでいましたが、この川の水は使い水だったんです。」と話す。**さんは、「だから、この川に風呂水などを流すのは禁じられていました。子どものおしめなんか洗うのはかなり離れた川下でないと洗ってはいけない決まりでした。だからきれいな水で、風呂の水もこの川の水を汲んでいました。ただ風呂まで遠いのが大変でした。」と話す。
 最後に貯蔵庫について、**さんは、「クワの貯蔵庫は、この図面当時よりやや遅れて作られました。養蚕用にとってきたクワの葉を新鮮なままで保存するため、それまでゲに板を組んで置いていたのを止め、板囲いのクワの貯蔵庫を作ったのです。地下の貯蔵庫の方が保存性は高いでしょうが、出し入れが大変ですから家にしました。貯蔵庫の半分は切って帰ったクワの木やほかの薪入れでした。焚(た)き物といえば割木があるでしょう。ウチは山のマツを切って割木にして道路端に高く積んでいました。高くすると倒れそうになるので、中程でタケをわたして柱の方に締め直していました。」と話す。

図表2-1-19 昭和30年ころの**家屋敷構え

図表2-1-19 昭和30年ころの**家屋敷構え

**さん夫妻からの聞き取りにより作成。

写真2-1-16 わら打ち石

写真2-1-16 わら打ち石

西条市上市。平成17年9月撮影