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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(1)長屋門のある家-**家-②

 さらに便所と風呂(ふろ)はくっついた建物で二つありました。古い便所と風呂の方は風呂の水を便槽に流し込むようになっていて、使っていたのは、遅くとも昭和10年(1935年)ころまででした。この建物には薪(たきぎ)小屋もついていて、薪は風呂を焚(た)いたり、台所に使っていました。昭和初期には新しい風呂と便所が南側にできました。そのときの風呂水は便槽ではなく排水路に流れ込むようになっていました。五右衛門風呂(ごえもんふろ)とはいうんでしょうが私とこの風呂はよその風呂みたいに上まで鉄製のと違って、釜の底だけが銅製の底で上に銅製のタガをはめた桶が載っていました。風呂をわかすときに上の桶が焼けはしないかと心配した記憶があります。大量に下肥を使っていたのも古い便所のころまでだったと思います。肥料は戦前には油かす、硫安、グアノ(ペルー産で海鳥の排泄物が鉱物化したもの)などがありました。古い便所のところは戦後に鶏小屋にしました。
 古い風呂の時代には、まだもらい風呂という風習がありました。特に組合みたいなものがあったのではありません。隣近所も必ずしも含まれるとは限らないし、100mも離れたところからくる場合もありました。例えば親父同士がマツタケ取りに行く仲間とか、講仲間とか、そんな風呂のつきあいがあったんです。もちろん入りに来るし、入りに行きました。風呂のない家もあったし、当番になっていたわけではありません。沸かしたところが親しいところ6、7軒へ声を掛けていたんです。かなりの人が集まって待っていました。夏ならヒロシキ(縁台)に座って、冬なら風呂のたき口で暖を取りながら待ったりもしていました。大人から子どもまで数軒の家族が入るんですから、最後の方になるとお湯がぬるぬるになったような感じでした。新しい風呂になってからはもらい風呂を経験したことはありません。」と話す。
 「続いて屋敷神の鎮火さんです。鎮火さんは小さな祠(ほこら)で、春秋2回のその祭りには旗を立てて祀(まつ)っていました。以前にウチが火事になったことと関係しているのかもしれません。これはウチの屋敷神のように祀っていましたが、よその人も来るので、塀を一部切って外から入れるようにしていました。年に1、2回神主さんを呼んで拝んでもらっていました。土塀は白壁に瓦(かわら)を載せた形でしたが、近所の子どもたちが塀に上がってはセミとりをして、そのたびに瓦が動いて雨で土の部分が壊れるので、今は石の塀にしています。
 最後は干し場と畑です。干し場は、籾や麦の穂を干すところ、籾すり機や唐箕(とうみ)を使うところ、からさわ(から竿(さお))で、脱穀のときに穂ごとちぎれたのをたたいて籾にしたところでもあります。干すのにも何日かかかりますから、夜の間は籾や麦は広く取ってある軒下にしまっていました。乾いた籾は籾倉にバラで入れます。籾すりのときにはそれをシタミ(ざるの一種)に取って出て機械にかけていました。籾すり機を運転する人から、乾燥の度合いが低いと籾すりがしにくいのでよく干すように注文がありましたが、干し過ぎると米がうまくなくなります。畑には、自分のウチで消費するものを植えていました。野菜はもちろん、ウチムラサキ、ネーブルなどのミカン類やウメ、モモなどいろんな珍しい果樹やニッケ(ニッケイ)までありました。」と話す。

 ウ 母屋

 母屋の屋根は草葺(くさぶき)と瓦葺(かわらぶき)の併用、内部は図表2-1-17のように縦くい違い型の4間取りで、母屋の前面に裸柱を並べ深い軒をつきだしている。また稲作農家らしく米倉や広い土間がとられ、大黒柱も2本配置された建物であることなどが特徴である。
 **さんは、「屋根はカヤ葺(ぶ)きで、軒の部分が瓦葺でした。ちょうど瓦屋根に草屋根が載せられたような状態でした。その分屋根が軽いので、家は狂いがきていませんでした。カヤ(ススキ)葺きなら40年に一度の葺き替えでいいのですが、やがてカヤが手に入らなくなって小麦のわらで葺き替えるようになると、10年くらいしか保(も)ちませんでした。瓦は継ぎ目に丸い瓦を伏せてつなぐ丸伏せの方法で本瓦葺きでした。
 昭和22年(1947年)私が結婚したのを契機に珪藻土煉瓦(けいそうどれんが)を使ってオクドサンをつき替えました。当時はオクドサンを替えるのが流行っていました。焚(た)き口がちょっと上になっていて前に出っ張りがありました。焚(た)き物の下には灰が落ちる簀(す)があるオクドサンをよく見ますが、それはついてなくて、おき(赤くおこった炭火)を取って消し炭を作れるようになっていました。羽釜を載せるところにはまあるく鋳物の輪がついていました。釜の口は三つあったんですが、真ん中はドウコ(銅壺)といって長方形の真ん中が内側にまるくへこんだ形の物が載っていて、湯をわかしていました。両側から湯が汲(く)めるように両方にふたがついたものです。薪は割木でした。この辺りは山全体がマツみたいなもので、マツが多かったですがナラやカシの木、間伐材を割木に伐っていました。それだけでは燃えんので昔はスクズといって松葉の枯れた葉を持って帰って、焚きつけに使っていました。軒下なんかに割木を積んだ家はよく見かけましたが、ウチは薪小屋があるのでそこに積んでいました。
 井戸は深さが4間(約7.3m)、内部はすべて河原石で組んでありました。その上には焼き物でなんかの模様のある井戸枠が載せてあって、近所では深い井戸だったと思います。冷たいいい水が出るといわれていました。もう一つ戸外に浅い井戸があって、畑に水をやったり風呂水を汲(く)んだりしていました。つい最近この浅い井戸は埋めました。ただ、井戸は完全に埋めてしまったらいかんというので、ビニールの管を息抜きとして埋めました。迷信ですが、埋めた井戸には息抜きがいるのだそうです。
 名前はなかったのですが、台所の東側の部屋には味噌(みそ)や醬油(しょうゆ)が置いてありました。これらは私らの代にはもう作っていませんでしたが、昔は全部自宅で作っていました。ほかに乾物類や漬け物なんかも置いてあって、まあ、食料倉庫でした。玄関を入ってすぐの土間は広いけど必要な土間で、籾すりをして玄米になったものを俵に入れて立てておく場所でした。籾すりしながら俵を締めたり縄を掛けたりする間はありませんから、まだふたをしていない俵を立て並べる場所でした。それを桟俵(さんだわら)できちんとふたをしてから、米蔵に積みます。米蔵は米だけじゃなくて麦も入れていたんですが、米蔵といっていました。反対側にある踏み台の下は入れ物になっていて大工道具などが入っていました。足で踏む臼(うす)は外の軒下にあって、人が来たときに対応できるように門長屋に向かって置かれていて、これで精米をしていました。人が立つ方には鳥居を逆さまにしたような木組みが降りていて、それを持って体を支えながら重石を縛っている方を浮かしていました。僕らの時代にはもう精米所でした。
 台所にはイロリはなくて、代わりに五徳(火の上に鉄瓶などをかけるための道具)をおいて鍋を掛ける真っ黒の陶器製の物が置いてありました。炭を出し入れするところがついていたから火鉢ではありません。それを囲んで食事をしていました。父と私は茶の間の畳に座って、父の右側が私の座席でした。茶の間と台所の仕切りは寝るとき以外はいつもあいていました。台所は少し下がって板間になり、母は板間で座布団を敷いて座っていました。ほかの兄弟がどこに座っていたか忘れました。座ったら各自の箱膳(はこぜん)が出てきていました。
 父母は、茶の間で寝ていました。私は父の40歳のときの子で遅かったのでほかの兄弟のことはあまり覚えていませんが、私は奥の間で寝ていました。
 正月にはいろんなことをしていました。しめ飾りはわらで丸く作り、ウラジロとダイダイを付けて、入り口、玄関、炊事場の出入り口、風呂場、隠居につけていました。門松は、門長屋の前の道が私道だったので、門の両側の道路にすえていました。座敷には、その年の方位によって天井の桟に釘(くぎ)で止めた板を吊(つる)していました。その棚にお重ね餅(もち)を置いていました。重箱におせちを詰める習慣がありましたがそれもこの棚に載せていました。床の間には別に三方のお供えをしていました。荒神様には小さなお重ねやしめ飾りと共にマツの新芽と山草(ウラジロ)を上げていました。特にマツは荒神松といって普段でも枝振りのいいマツがあるとあげていました。それとなぜかは知りませんがお正月になると母親でなく父親が座敷の棚のおせち料理を子どもたちに分け与えていました。オカンシュ(御神酒(おみき))もみんなで飲んでいました。お雑煮も元旦は父親がしていました。」と話す。

図表2-1-17 戦前の**家母屋

図表2-1-17 戦前の**家母屋

**さん夫妻からの聞き取りにより作成。