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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(3)接客本位の住居観

 住居観とは、住む者の社会階層や職業、そして家族構成などからもたらされる住居についての考え方のことであり、間取りや住まい方に大きな影響を与えるものである。
 日本人が長く受け継いできた住居観には、「接客本位の住居観」がある。この住居観は、家族が日常的に過ごす空間よりも、接客に用いる空間を重視するというものである。たとえていえば、住宅の中心は接客のための座敷であり、その家で最も広い部屋を客室にあて、そこからは南面の庭が見晴らせなければならないというものである。また、この住居観には、住居の南側を公的な「ハレ」の空間とし、北側を日常の「ケ」の空間として区別する意識も加わっている。そのために根強く受け継がれてきたのである。
 この住居観は、江戸時代をはじめとする武家社会で定着したと考えられている。それは、公家社会とは違って、武家社会では身分の高い者でも低い者の住まいを訪ねたり、それぞれの住まいで接見や会合が頻繁に行われるようになったために、専用の接客空間が必要となったという事情を受けて成立したものと考えられている(㉓)。
 しかし、武家社会がなくなった明治時代になっても、この住居観は受け継がれた。明治時代は、住宅の洋風化が始まった時代である。当時の政府の高官や大資本家といった人々は富や権力の象徴として積極的に洋館を自分たちの住居に採用し、そこを接客用の空間とした。そして自分たちの日常生活の場は伝統的な和風建築(和館)の中で営むという「和洋並列型」と呼ばれる住宅を建てたのである。この「和洋並列型」の住宅は、明治後半から大正期にかけて地方都市の有力者の住宅にもみられるようになり、戦前まで中流家庭の典型として流行していく(㉝)。松山市に昭和9年(1934年)に建築された「和洋並列型」の住宅を見ると、向かって左側の切妻屋根の建物が洋館で、ここは接客用の空間として用いられている(㉞)。
 このような状況に対して、大正時代ころから接客本位から家族本位の住居観、すなわち、住宅の中で最も良い条件の空間を家族の日常生活の場(食事や団らんの場)として使用するべきだという考え方が建築家たちから提案されはじめる。そして、ついには文部省のもとに発足した「生活改善同盟会」が大正13年(1924年)に、今後の国家が目指すべき住宅改善の方向性について「接客本位から家族本位」を盛り込んだ「住宅改善の方針」を発表するようになる。
 もちろん、国家の方針だとはいえ、個人の私生活の場である住宅にかかわる問題であることから、昭和に入っても前述の松山市の住宅が建設されたように住居観の転換はなかなか進んでいない。
 まず、昭和10年に発行された高等女学校用の教科書『實用家事教本上巻』では住居内の設備及び装飾についての留意事項を記述した部分があるが、この部分には接客本位の住居観があらわれている。例えば、来客を出迎える「玄関」については、「家屋全体を代表するところであるから、淡白・清浄で威厳があるようにし、また帽子掛・外套(がいとう)掛・傘立・履物(はきもの)置・呼鈴などを備へておく。なほ応接室を設けるときは玄関に近い室を選ぶがよい。(漢字の旧字体は、新字体に改)」とある。また「客間」については「床の間・床脇棚(とこわきたな)・付書院があるのを正式とするが、付書院を省き、床脇棚を押入れにすることもある。装飾は優美・高尚を旨とし、床の間には掛け軸を中心として置物・生花などを配置し、その他に額なども適当に備へる。(同)」と具体的に記述している(㉟)。ここには、住む家族の目線でなく、時折訪れる来客から向けられる目線で、設備や装飾を整えることの必要性が説かれているのである。
 次に戦後の状況について昭和21年(1946年)から連載が始まった漫画「サザエさん」でおなじみの磯野家の間取りをみてみると、やはり接客本位の住居観があらわれている(㉓)。ここに描かれたのは、当時の中流家庭の一般的な間取りと家族関係である。磯野家の間取りでは最も日当たりのいい南面には6畳の客間があり、その西側には波平と舟の居室である座敷がある。この二つの部屋は仕切っている襖(ふすま)を開けば南面の14畳の客間にも転用できる。それに対して、風呂場や台所、そして家族が食事をとり、団らんの場となる茶の間は、家族7人が集うにはやや狭い6畳ほどで、日当たりの悪い北側に設けられている。また、トイレは客間や座敷には近いが、子ども部屋やマスオやサザエたちの部屋からは最も遠い位置になっている。
 そして、昭和30年代ころの状況について、昭和36年(1961年)に実施された愛媛県の農村住宅調査(㉔)では、接客に用いる公的な空間である座敷の使用頻度(ひんど)から、接客本位の住居観が強く支持されていたことがわかる。ここには、農家が座敷との使用状況について、「常時使う」と答えた農家は全体の2割に満たず、「ふだん使わぬ」と答えた農家は実に7割を超えている。こういったことからも接客本位の住居観が戦後になっても根強くみられたことがわかる。
 この接客本位の住居観を家族本位のものに転換していく大きなきっかけとなったのは、戦後の住宅不足解消のために昭和30年(1955年)に発足した日本住宅公団が採用した2DKという間取りをもつ公団住宅の建設や、昭和42年(1967年)の洋風の居間を意味するリビング(L)を加えたLDK形式の間取りを持つ公団住宅の建設である。そして、この公団住宅をひな形として、各自治体も多くの公営住宅を建設していった。そして、公団住宅の間取りは、洋風リビングや個室の確保という点でも有効であったため、都市近郊の建売住宅や一戸建住宅にも普及していくのである(㉝)。このような過程を経て、家族の団らんの場として機能するリビング(居間)が住まいの中心を占めるようになる。そして、その家の持ち主こそが、最も良い条件の場所を自分たちのために生かすといった「家族本位の住居観」が広まり、それに基づく住宅の建設が進んでいるのである。